邸の中を蘭明(らんめい)を先頭に歩く。無明(むみょう)は目にするものすべてを指差しては、「あれはなに？」と答えが返ってくるまで訊ねていた。 　そんな無明の背中を見つめながら、清婉(せいえん)は心の中でずっと叫んでいた。 （無明様は一体何を考えてるんですかっ!? 失礼にもほどがあるっ） 　白群(びゃくぐん)の邸にいた時はずっと大人しかった。 　一瞬おかしくなった時もあったが、それ以外はずっとまともだったのだ。それがどうだろう、ここに来てからというもの、紅鏡(こうきょう)にいた頃の無明そのままだった。 （いや、いいんです！ そういう無明様も受け入れると心に決めた手前、頭ごなしに駄目とは言えない自分がいるので！） 　けれども、この状態はあまりにも目の前にいる方に迷惑だろうと、そろりと視線を巡らせる。 　だがしかし、どういうわけか、前を歩くお嬢さまは楽し気で、それすらも楽しんでいるように見えた。 （あの無明様を初対面で受け入れられる懐の深さ！ まさかあのお方は菩薩様なのでは!?） 　印象の良い蘭明(らんめい)は、無明がなにをしてもただくすくすと笑って許している。 　先程など庭に降り、石楠花(シャクナゲ)の白い蕾を勝手に摘んで蘭明に渡していた。 「綺麗なお姉さん、これをあげる！」 「あらあら、蕾が可愛らしいですわね。私(わたくし)にくださるのですか？ありがとうございます」 　と、笑顔で対応していた。 　姮娥(こうが)の一族の邸の警備は紅鏡(こうきょう)以上に厳重だが、皆女性の術士であった。 　武器を手にした彼女らは、蘭明とすれ違う時に必ず立ち止まり、頭を下げた。通り過ぎるとようやく顔を上げ、再び警備に戻る。 　しかし、どこか違和感を清婉(せいえん)は覚えていた。 　それがなんなのかは解らないままだったが、そんなことをしている内に、部屋の前で立ち止まる。 　そこは客間ではなく、蘭明の自室であった。 「さあ、どうぞお入りください」 　その部屋は女性らしい小物や棚が並べられており、通された部屋だけでもだいぶ広かったが、奥にもう一つ部屋がある間取りになっていた。 　もう一つの部屋は固く扉が閉ざされていたが、それを問う勇気は清婉にはなかった。 　そもそも、自分が口を開いて良いかすらわからない。とにかく粗相がないように、後ろを付いて行くしかなかったのだ。 　部屋にはすでに二人分の夕餉が用意されていた。 「無明殿、お付きの方も、どうぞ座って寛いでいてください。私は少し席を外します。特別な菓子を持ってきますので、先にそちらの御膳を食べながら、楽しみに待っていてください」 　お香の甘い香りがずっとしている部屋で、無明と清婉は腰を下ろす。 　扉が完全に締まり、足音が聞こえなくなった頃、無明が清婉の袖を引いた。 「清婉、俺の予想が正しければ、ちょっとまずい状況かも」 「へ？ どういうことですか？」 　無明が囁くように耳打ちするので、つられて清婉も同じように声を潜める。 　なんでこんなことをしているんだろう？と首を傾げるが、無明は真面目な顔で続ける。 「とりあえず、この御膳は全部食べて。大事な時にお腹が空いていたら大変だから」 「は、はい。でもなぜ急に普通の無明様に戻ったんです？」 　普通、と自分で言っていて不思議だったが、言い得て妙だった。これが、普段の無明に違いないからだ。 　ならば、さっきまでのあれ(・・)はなんだったのか？ 　とりあえず、無明が膳に手を付け始めたので、清婉も言われた通りに箸を取り、小皿に盛られた何種類もの料理に感心する。 　一つ一つの皿は小さいが、そのすべてが違う料理だった。しかもどれも味が良く、さっぱりしているのに満足感がある。 「初めて食べる料理もあって、勉強になります」 「俺は清婉の料理の方が好きだけど······まあ、悪くはないかな」 　無明様······と清婉は嬉しい言葉に思わず胸がいっぱいになる。 「で、話の続きだけど、これ、持ってて」 　懐から黄色い符を取り出し、清婉の懐に勝手に潜り込ませる。 「え？ え？ ちょっと、なにをっ!?」 　もぞもぞと手を入れられたかと思えば、すっと離れて、無明は右手の人差し指と中指だけを立て、何か文字を書く仕草をした。 　清婉の懐に入れられた符が緑の光を一瞬だけ放って、何もなかったかのように消えた。 「いい？ これから話すことを、しっかり頭に入れて、この邸から出るんだ。宿の場所はわかる？ 清婉は竜虎たちの所に戻って、」 「え、だから······どういう？ 無明様も行くんですよね？」 　急にどうしたのかと清婉は不安になる。 　別にこそこそと出て行かなくても、堂々と戻ればいいだけだ。やっぱり宿が良いとでも言えば、失礼極まりないがあの方なら許してくれそうなのに。 「行かない。だから、お願い。言った通りに、してくれる？」 　途切れ途切れの言葉に、真剣さが伝わって来る。思わず清婉は頷くしかなかった。 　そして、足音が近づいて来るのを機に、無明は清婉に合図を送る。扉が開かれた時、蘭明は菓子の乗った盆を手に、そこに立っていた。 　大切なモノを慈しむような、愛でるような、そんな仮面のような笑みを浮かべて。