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5-11 迫りくる影

 その一部始終を目の前で見ていた清婉(せいえん)は、両手で口を覆い、息を殺してその場を去る事しかできなかった。それは蘭明(らんめい)が戻ってくる前に、無明(むみょう)に告げられた約束のひとつだった。  声を出さず、物音を立てず、何が起こっても決して何もしてはいけない。 (……必ず、助けに戻ります!)  扉の向こう側へと消えてしまったふたりを確認し、清婉は焦る心をなんとか抑え、ゆっくりと扉を開けて廊下へと出る。すぐ近くに、警護の術士たちが何人かうろうろとしていた。その横を通る時は、本当に心臓が止まるかと思った。  符の効果がいつ切れてもおかしくない。  今は誰にもその姿が見えていないようだが、無明がああなってしまった今、いつ晒されるかもわからないのだ。  しかし、警護の術士たちは清婉が横を通っても誰も気付くことはなく、虚ろな眼差しで立っている。その目は、まるでさっきの無明のように、何も映していないようにも見えた。 (無明様。どうか、無事でいてくださいっ)  祈るように、白い守り刀を胸元に貼られた符ごと握りしめる。言われた通りに門の方へは行かず、低い塀を見つけてよじ登り、何とか邸を脱出できた。  竜虎(りゅうこ)たちは都の市井(しせい)の宿にいるはずだ。夕刻近くまで回っていた限り、公子たちを泊められるような立派な宿は、あそこしかなかった。  月明かりが照らす広い路を駆ける。宿まであと少しという所で、清婉の視界にひとつの影が映り込む。思わず足を止め、前を見据えれば、酔っぱらっているかのようにふらふらと路の真ん中を歩く人影が見えた。それはどんどんこちらに向かってきているようにも思える。 (あ、あれは、····なんです?)  遠目でしか確認できないが、明らかに不審な影であった。後ろに下がろうにも前に進もうにも躊躇ってしまう。  歩いていたその人影が、清婉の姿に気付いたのか、俯いていた顔をゆっくりと上げた。  そこには、優越感に浸るようなうっとりとした漆黒の目があり、にたぁと口元が大きく歪められた。開いた口には尖った牙があり、明らかに清婉を捉えているようだった。符の効果はおそらく、もう切れているのだろう。  あまりの恐ろしい雰囲気に、足が竦んで身動きが取れなくなる。ただ直立不動に立ち尽くす清婉は、声を殺したまま恐怖で身体が固まってしまった。  その人影は、人ではなく、邪悪な顔をした妖鬼だった。黒い衣はぼろぼろで、袖の裾など所々切れてしまっている。やせ細ったその鬼は、整っていない不揃いな黒髪を背中に垂らしたまま、一歩、また一歩と動けない清婉の許へと近付いて来る。  握りしめすぎて白くなった指先は強張ってしまい、守り刀が砕けてしまうんじゃないかと不安になる。この小刀の形をした守り刀には本物の刃はなく、あくまでも模造の刃であった。どんな効力があるかは清婉は知らない。 (雪鈴(せつれい)殿、雪陽(せつよう)殿! 私はどうしたらっ)  目を閉じることもできない。その姿が焼き付いて離れない。ゆっくりと余裕の足取りで歩いていたその妖鬼は、もう数歩前まで迫っていた。  手が伸ばされる。細く乾いたその肌は、まるで精気の抜けた死人のようだった。 「そんなに怯えて、可哀想だなぁ。人の子は弱いからなぁ」  にたにたと笑いながら、その妖鬼は言う。ねちねちとした言い回しが、特徴的だった。青白い顔は病気にでも罹っているようで、そこまで思考を巡らせて、清婉はひとつの結論に達する。 (ま、まさか、病鬼(びょうき)っ!?)  長い前髪から覗くその漆黒の眼は、月明かりの中でもはっきりと解る。頬に伸ばされた細い指が触れようとしたその瞬間、白く眩い光が清婉《せいえん》を中心にして発せられる。それは、正しくは握られたあの守り刀から発せられており、その光が目の前の病鬼を弾き飛ばしたのだ。    それには清婉自身も驚き、言葉を失う。  光によって弾かれ飛ばされた病鬼は、広い路の真ん中で何度も地面に身体を弾ませながら、宿屋の前を通り過ぎてやっと止まる。 「な、なんだぁ。あの、光はぁ?」  病鬼は頭を片手で抑えながら、こきこきと首を鳴らす。地面から立ち上がろうと手をついたその時、ひとつの影が現れる。 「まさか本当に現れるとは、」  少し低めの少女の声は、忌々しいものを蔑むように発せられた。すべての元凶であり、憎むべき存在。弓を構え、三本の矢の先を向ける。 「その守り刀、すごい威力だったな。大丈夫か、清婉?」 「は、はい! でも、なんで……、」  目の前に現れた、背を向けたままのもうひとりの主に疑問を投げかける。その問いには、竜虎の横にいる普段ほとんど口を開かない白笶(びゃくや)が答えた。 「こうなるだろうことを、無明は予想していた」  すべては、繋がっていた。  朎明(りょうめい)の話と、竜虎たちが調べた情報。そのふたつが重なる時、バラバラに思えた点が、ひとつの線であることに気付くのに、時間はかからなかった。

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