139 / 141
5-30 断罪
白虎の陣を展開し陰の気を静め、倒れている民たちの無事を確認した後、白笶 を少陰 に託した無明 は、姮娥 の邸に行くと言い出した。
もちろん予想していなかったわけでもなく、寧ろそうなるだろうことは解っていたわけだが、逢魔 は心配でしかなかった。
無明の左手を自分の右手の上にのせて、壊れ物にでも触れるように軽く握る。
気を抜いたら倒れてもおかしくない。それでもいつもの笑顔で傍らに立つそのひとは、事情を知らない者が見れば本当にいつもの無明だろう。立っているのさえやっとだというのに。
今の状況は良くない。少女たちの怨霊が幽鬼となって、つぎはぎの人形に取り憑いていた。
(邪曲の影響かな?)
だったら自分が始末するか。
逢魔は冷たい視線を幽鬼に向ける。首を掴まれ吊り上げられていた姮娥 の娘は解放されたが、邪気は増すばかりだった。
(でも、まあ、別に、)
どうでもいい。
暗い影を落としかけた逢魔に、無明は何かを察して首を振った。
「幽鬼になってしまったら、もう、その魂は救えないというけど、」
「うん、そうだね。あの子たちは、もう」
言いかけて、逢魔は目を瞠った。
「それでも、救いたいって言ったら?」
「その身体で、まだ霊力を使うつもりなの? いくらあなたでも、白虎の陣を展開したばかりで、それ以上無理をしたら、」
離れた左手を掴み損ねて、逢魔は右手を握り締めていた。それでも、救いたいという無明の強い瞳に、自分を恥じる。
(俺は神子と師父 以外のことなんて、正直どうでもいい。でも、あなたが守りたいモノは、俺も守るよ、)
その小さな背中を見守り、美しい笛の旋律に耳を傾ける。すべてを浄化するようなその音色は、この場に溜まった陰鬱な気をすべて祓うように、どこまでも優しく澄んだ水の波紋のようだった。
本来、怨霊になり幽鬼にまで堕ちたモノは、祓ったところでその魂は救えない。消滅するだけ。けれども、最期くらいは良い夢を見てもいいはずだ。
少女たちは望んでそうなったわけではなく、不運が重なり、歯車が狂ってしまっただけ。
『····あたたか、い······これで、帰れる········かえ、る······』
幽鬼は笑みを浮かべ、嬉しそうにそう言った。借り物の人形の身体はぼろぼろと崩れ出し、光に包まれて消えて逝った。
笛の音が止む頃には光も失せ、無明はゆっくりと口から横笛を離した。
「ごめんなさい。本当は、もう、」
「無明、」
気付けば竜虎 が支えるように肩を抱き、隣に立っていた。ふらついていたのがバレていたのだろう。目を伏せて身を任せ、そのまま意識を手放した。
「大丈夫だ。きっと、届いてた」
少女たちの魂は消滅した。二度と生まれ変わることも叶わない。だからせめて、夢を見せてあげたいと思った。この暗闇から解放されて、自分たちの家に帰る夢を。希望を。光を。
「あなたは可哀相なひとだ。でも、自分を終わらせる勇気があるなら、過ちを認めて罪を償うのが道理なんじゃないか? 姮娥 の一族としてこの地を、民を守る立場のあなたがしたことは、勝手に終わらせて赦されることじゃないだろう」
他人である竜虎だからこそ言える言葉だった。終わらせるにしても、それを決めるのも手を下すのも、蘭明ではない。
座り込んで俯いたままの少女は、無言のまま静寂を保っていた。
「蘭明、」
その均衡を破るように、蘭明は声の主の方へ顔を向けた。そこにはやつれた様子の宗主がいた。
自分を殺すようにと、まだ幼い椿明 に命じた母の考えは解っている。
朎明 に命じなかったその理由も。
「母上、どうして椿明 に命じたのですか? 朎明 に命じれば、確実に私 を殺せたというのに、」
わざと、問う。知っている。
本当は、解っているのに。
朎明 は命令を絶対とし、間違いなくこの胸を貫いていた事だろう。それがたとえ本人の意思ではなくとも。けれども、まだ自分の感情を制御できない幼い椿明 に、それができるわけがない。
「あなた を、救いたかったからよ」
「······そう、ですか」
仕損じることは解っていて、しかしそれで救える可能性を残して。
薊明 は蘭明 の前で足を止め、そのままゆっくりと床に座り込むと、そっと両腕で包み込むように抱きしめた。
「あなたにはたくさん我慢をさせてきた。でもそれは、あなたが疎ましかったわけではない。あなたには、普通の幸せを手に入れて欲しかっただけ。今回の事は、言葉で伝えることをしなかった私の罪。共に罰を受けましょう」
蘭明の頬に一筋の涙が零れ落ちる。あたたかい。こんな風に抱きしめられた記憶など、もうとっくに忘れてしまった。
「ごめん、なさい······っ」
謝って赦されることではない。それでも。
「母上····私、は······」
「蘭明?」
薊明 は様子のおかしい娘の身体を放し、驚愕する。蘭明の瞳にはすでに光がなく、涙だけがその反動でもう一筋流れた。
「姉様っ!?」
抱き合うふたりに安堵し、喜びの涙を浮かべていた椿明 の表情が一変する。母の腕の中でぐったりとしている蘭明に、朎明 は慌てて駆け寄った。
「姉上······そんな、どうしてっ」
息をしていない蘭明をよく見てみれば、首の辺りに赤い染みができていた。それは細い、糸でも通したかのような小さな傷だった。
逢魔は眼を細め、その様子を見ている。竜虎は気を失っている無明の肩を抱きかかえたまま、どうすることもできなかった。
(あれは、あの時の、)
紅鏡 と晦冥 の境目で見た、鬼面の青年が放った琴糸のような武器を思い出す。
しかし一体どこから? 何の気配もしなかった。だが、今更それを解明した所で意味はないだろう。
「金虎 の少年、そのひとのことをお願いね? あと、君の師匠は白帝 堂にいるから、後で迎えに行ってくれる?」
「は? え? は、はい」
突然話しかけられたかと思えば、もう姿はなく、竜虎は目を丸くしたまま壊れた扉の先を見つめる。
(なんで渓谷の妖鬼が、無明や師匠と一緒にいるんだ?)
しかし今はそんなことよりも、目の前の出来事に囚われて、何も考えられない。
まさか、こんな結末になるなんて。
竜虎は無明が目を覚ました時にどんな顔をするのか、それだけが心配で仕方がなかった。
ともだちにシェアしよう!