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第2話 皇太子の帰還

 久しぶりの社交の場は、華やかで浮き立つような感覚がしたが、黄金色をした発泡性のワインの軽やかな泡が、グラスの中で立ち上って、ふ、と消えるように、ほんの一瞬で元の気鬱な気分に戻ってしまった。  ここ数年、ルシェールは社交の場から遠ざかっていた。久方ぶりにみるルシェールの姿を、まわりの参加者たちがチラチラと意味ありげに見ている。その視線が、ルシェールにはうっとうしい。 「あら、久しぶりの舞踏会なのに、憂鬱なお顔ね。華の|顔≪かんばせ≫が台無しよ」  ころころと鈴を転がしたような声で笑うのは、彼の妻・レジーナだった。するりとルシェールの腕に巻き付いて、視線だけで壁際の一角を示す。高位の貴族の為に誂えられた席で、今宵は、ルシェールたちが使うことになっている。会場の注目を浴びながら、ルシェールはレジーナと共に壁際へ向かう。 「『帝国の甘美なる闇』ロイストゥヒ大公・ルシェール殿下。みんな、見物気分のようね。心配なのではないかしら? あなたが次の皇帝に名乗りをあげたら、均衡が崩れてしまうもの」 「そうだろうな」  ヴァイゲル帝国は、今、微妙な情勢であった。  皇帝は病床におり、皇太子が隣国からの留学から帰還することになった。本日の宴席は、その祝賀であるが、皇太子は後見がやや貧弱だ。  今も、自らが主役のはずの宴席で、ぽつりと一人でいる。  黒漆の髪に、紫色の瞳。明るい髪色の多いこの国では、ひときわ憂鬱に見える彩であった。その様子を、ちらりと見やったルシェールは、(つまらない男)とだけ感想を抱いた。  あのつまらない男が統治するこの国には、特に興味を抱くことはできない。 「あら、あなたどこかに好みの美少年でもいらして?」  レジーナの言葉にはっとして、ルシェールは妻の顔を見やる。漆黒のレースに彩られた美しい扇を顔の前で軽やかに翻しながら、レジーナは笑った。 「最近は、かわいい男の子たちを侍らすのも控えていらっしゃるご様子ね」 「君こそ、最近、お気に入りがいるという話をとんと聞かないが」 「そうね……」  と言いつつレジーナは席に座る。ルシェールもその向かいに座った。 「退屈なの、わたくし」  目の前の小さなテーブルにはチェスボードが乗っていた。その駒を、レジーナが一つ取って、弄ぶ。 「退屈、ね」 「あなたは如何?」  通りすがりの給仕を呼び止めて、血のように濃い、赤黒い色をしたワインを手に取りつつ、レジーナが問う。 「わかりきったことを聞くものだね。……退屈でたまらないよ」 「そうよねぇ……。ヴァイゲル帝国の守護者、ロイストゥヒ大公殿下……この国においてあなたに、出来ないことはないわ。何をしても、許される」  レジーナの言葉に、嘘はなかった。  何をしても許される。多少の悪行も、思いのままだろう。人を殺めても、おそらくは、罪に問われることはない。そのかわり、政からは遠ざけられている。ロイストゥヒ大公に、これ以上、力をつけさせたくはないということだろうが、それすら、ルシェールが皇帝に名乗りを上げれば、思いのままに動かせるだろう。 「帝国の守護聖獣の守り人たる私に出来ないことと言えば、この国を滅ぼすことくらいだよ」  レジーナがころころと笑いながら、手に持った駒を、ルシェールのキングの目の前に置いた。  カツーン、と。乾いた音がこだました。だが、それは、他のものには、気づかれることはなかっただろう。会場にはゆるい管弦楽が流れ、円舞曲に合わせて男女がフロアを彩っている。些細な音に、皆が気づくはずもない。 「……あなた。賭けをなさらない?」 「賭け?」  ルシェールの美しい眉が、訝し気に寄った。 「ええ。……賭けを」 「一体、何を掛けるつもりだい? 退屈しのぎには良いけれど」  唐突な申し出に戸惑いながらも、ルシェールは少々、興が乗った。 「あなたが出来ない唯一のことを、やってごらんなさいな」 「つまり、この国を滅ぼすことが出来るかどうか、ということかい?」  自然に、口元に笑みが乗った。久しぶりの事だった。レジーナも、嫣然と笑みつつ、「ええ、勿論。やり方はお任せするわ。あなたが飽いているように、わたくしも飽いているの」と言って扇をパチンと閉じた。 「楽しそうだ。……それで、賭けというからには、賞品があるのだろう?」 「そうねぇ……賞品はお好きに考えて。わたくしに出来ないことは、死者を蘇らせることくらいよ」  血のような赤いワインを傾けるレジーナを見やりながら、ルシェールは「そういうものかね」とだけ答えつつ、彼女の二つ名をふいに思い出していた。  紅蓮の魔女。彼女は、この国の中で、そう呼ばれていた。様々理由はあるが、赤子に死なれた母親は魔女になる。実際に、幻術を使うことが出来るからこその呼び名だろう。 「今、君に、惑わされているのかな、私は」 「いいえ? でも、この茶番のような宴席も、幻だったら……静かで良いのに、とは思うわ」  たしかに、違いない、と受けつつ笑っていると、不意に、視線を感じた。  気が付くと、ルシェールとレジーナの席の所に、一人の青年が、所在なさげに立っていた。  皇太子、アルトゥールだった。

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