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第3話

 そのまま俺は寝落ちするまで本を読み、仕事から帰ってきた母親に声を掛けられ目を覚ます。悪い夢は見なかった。背表紙を撫でながら静かに本を抱き寄せると、母親が心配そうに俺の顔をのぞき込んだ。 「尊人、何かあったの?」 「……どうして病院にいるのかは知らないけど、Vロームじゃない、男の人と話した」  母は俺の言葉でだいたいを察したのか、ベッドに腰掛け、俺の頬を優しく撫でる。その表情は不安に満ちていた。 「大丈夫。何もされてないよ。俺が貧血で倒れたところを助けてくれたんだ、良いヤツだよ」 「そうだったのね。良かった。輸血はしたの?」 「うん。そいつが病院に運んでくれて、昨日の分はちゃんとした」 「それなら良かった。でも昨日何時から寝たの? もう朝の十時よ」 「それはさすがに寝過ぎたわ……」 「シャワーしておいで」 「うん。え、ちょっとまって母さん今帰ってきたの?」 「そうだけど」 「母さんこそちゃんと休みなよ」 「ありがとうね、今日はさすがに寝るわ」 「そうしてください」  母さんが仕事人間なのは知っていたつもりだけど、それにしたって働き過ぎだ。俺の性だとは分かっているけど、どうか自分を大事にして欲しい。俺より先に母さんが倒れたり、死んだりするなんてことは、出来れば想像したくない。 「母さん、俺より先に死なないでね」 「何言ってるのよ。親は子どもより先に死ぬものなのよ。だから、私が生きているうちに、あなたに残せるものを一つでも見つけておきたいの。先生や、仲間と一緒にね」  母さんも屋敷先生も花先生も、支援団体の人たちも、みんな良い人だ。俺は十分すぎるくらい恵まれている。 それなのにどうして、俺はこんなにも逃げ出したくなるんだろう。何もかも放り出して死にたくなるんだろう。 「……でも一日でも長生きしてよ。ほら、部屋で寝よう?」 「そうね、そうするわ」  母親を自室へ見送ってから、出口のない考えを振り切るように風呂場へ急ぐ。シャワーと着替えを済ませて外に出ると、ヘレンがこちらへ駆け寄ってきた。 「ヘレン! お見舞いにきてくれたのか? 心配性だなあ。ありがとうね」  わしゃわしゃと頭を撫でると、ヘレンは顔をあげて「こっち!」とでも言うように走り出した。 「ヘレン、俺まだ輸血してないからあんま走れないよ!」  体調に気遣いながらヘレンの後を追う。そこには、キョロキョロ当たりを見回す愛沢が立っていたのだ。 「ヘレ~ン! もしかして尊人を連れて来てくれたの? good girl!!」  ヘレンが愛沢の胸に飛び込み、これでもかと頭を撫でてもらっている様子を呆然と見つめる。なんでお前がここに居るんだと言いたいが、上手く言葉に出来なかった。そんな言葉に詰まっている俺の方を見て、愛沢はニコニコと話しかけてくる。 「会いに来るなって言われたのにごめんね。来ちゃった♡」 「……か、可愛くねえ! 帰れ‼」 「え~やだやだ。お話ししたい」 「ふざっけんなお前!」 「じゃあ輸血してる間だけでいいよ! その間暇でしょ? ね?」 「あのなぁ……」 「あ、あとこれ!」  愛沢は俺の話を半分聞き流しながら、カバンから一冊の本を取り出す。それは昨日ベンチに置いて行った俺の忘れ物だった。自分でもうっかりしていたので、恐る恐る受け取る。 「……あ、あり、ありがとう」 「尊人は本が好きなの?」 「まあ、それなりに」 「じゃあ尊人の好きな本を教えてよ。俺も読んでみたい」 「でもそれ、つまんなくねーの?」  てっきりこいつは、俺について根掘り葉掘り聞き出したいんだと思っていた。でもどうやらそうではないらしく、不思議そうな表情で見つめ返してきた。 「なんでつまんないの? 尊人とおしゃべりしたいって言ってるのは俺なのに」 「……はぁ、分かったよ。とりあえずこの本も好きだし、あとは……えーっと」 「あ! 尊人が一番よく読む本は?」 「一番か~」  そうなると、答えは決まっている。 「ちょっと来て」  踵を返して歩き出す。愛沢は少し戸惑っているようだったが、ヘレンに足を押されて歩き出した。たどり着いたのは俺の家。ここで待っててと言い残して自分の部屋に行き、取ってきた一冊を手渡した。 「あんまり有名な本じゃないけど」  愛沢は本を受け取り、まじまじとそれを見つめてタイトルを読み上げる。 「『くじらの泪』……?」 「えーっと」  子ども向けだし、あまり有名な本ではない。簡単にあらすじを説明しようとすると、愛沢から出てきたのは予想外の言葉だった。 「知ってるよ、これ!」 「えっうそだろ」 「なんでうそなの! くじらが流す涙は、海に溶けて風に溶けて、誰にも気が付いてもらえない。そういう孤独な存在の鳴き声が響く港町に生きている人たちの話でしょ?」 「なんで知ってるんだ……?」 「ん~。小学校だったかな。読書感想文の本だったと思う。担任の先生が十冊くらい用意して、この中から選んで書いてくださいってやつ。俺が選んだのがこれだったんだ。わ~懐かしいな~!」  ペラペラと本をめくりながら、あーだこーだと話の感想を話し始める愛沢を見て、俺は無性に叫びたい衝動に駆られた。 「どうしたの尊人! なんかすごい顔してるよ⁉」 「どんな顔だよ……」 「なんか、顔のパーツが真ん中にギュッと集中してる感じ」 「ふざけんなバカ」  そのくらい顔に力を入れないと、泣きそうだった。こんな風に、誰かと、自分の好きな物の話をしたのなんて、Vロームになってから初めてだったんだ。 「……本の感想なら、話、してもいいよ」 「マジでー⁉ やったー! じゃあこれから毎日通うね!」 「お前学校行ってねーのかよ」 「現役高校生です♡ 昨日と今日は土日だから来られたのよ。平日は夕方に来ることにするね!」 「友達いねーのかよ……」 「いいじゃん!ね!約束!」 「…はあ、分かったよ」  こうして、どういうわけだか俺に知り合いが出来た。Vロームじゃない普通のやつで、しかも男。なんだか心臓の奥がくすぐったいような、変な気分だった。  —でも、まさか本当に、毎日通ってくれるようになるとは微塵も思っていなかったわけで。 「本当に毎日来るとは思わねーじゃん」 「なんで? 俺約束は守る男だから!」  あっは!と大きな笑い声を上げながら、ベンチに二人で腰掛ける。そして、他愛もない話をした。 「尊人のgrandpaたちが本好きだったんだね。兄弟はいるの?」 「一人っ子だよ。愛沢は?」 「俺は妹がいるよ! 今十四歳で、中学二年生」 「じゃあ俺の一個下だな」  愛沢が来るのは、大体夕方の五時くらい。学校終わりに立ち寄って、一時間くらい話したら「そろそろ行かなくちゃ」と言って診療所へ戻っていく。数回続けば、誰かのお見舞いに来ているということは何となく察しがついた。でもそれについて詳しく聞く勇気はでないままで。 愛沢と話すようになって一か月経っても、お互い核心に触れることはしなかった。 「高校楽しい?」 「そうだね~。でも俺こんな見た目だから、最初はどこ行っても浮いちゃうの。あと英語で話しかけられたりする」 「へー。英語で返すの?」 「まっさかー! 俺日本生まれ日本育ちだもん。英語全然喋れないよ」 「まあそっか。俺も日本語しか喋れないし」 「英語練習しろーって言わないの?」 「言わねーよ。喋れたら便利かもしれねーけどさ」  愛沢は見れば見るほど整った顔立ちで、横顔なんて彫刻みたいだ。確かに日本人の顔立ちじゃないし、英語の方が喋れそうだけど、そんなの知らんって話だしな。 なんて考えていると、愛沢が黙り込んでるのに気が付く。どうしたのかと思わず顔をのぞき込むと、ポカンとした顔で俺を見つめていた。 「なんだよ」 「……ううん! なんでもない。尊人が優しくて、ちょっと泣きそう」 「はあ? 何も優しくねーぞ。お前みたいなイケメンは多少苦労してしまえと思ってる性悪だよ」 「俺カッコイイ⁉」 「鼻筋とか滑り台みたいだよな」 「それ褒めてるのかなぁ⁉ 滑り台って何⁉」  いちいち大きなリアクションで返してくる愛沢がいい加減面白くて、思わずふっと笑みが漏れる。すると愛沢は、目を見開いて「あー!」とデカい声を上げた。 「なんだよ……」 「尊人が笑った~! 嬉しい~!」 「うるせぇな……」 「仏頂面も可愛いけど、笑った顔は百倍cuteよ♡」 「お前英語喋れないのに単語の発音はいいよな」 「いざ喋れるようになった時のために発音だけ練習してるの」 「それならちゃんと英語の練習しろよバカ」  愛沢と居ると、まるで自分が普通の学生に戻ったような感覚になれた。Vロームになったことが夢なんじゃないかと。でも、そんなことはありえない。俺の腕は、いつも小さい絆創膏が貼られている。内出血が続かないよう、日にちごとに針の刺す場所が変えられ、俺の腕は傷だらけだった。Vロームである動かぬ証拠が刻まれた腕を、俺はギュッと握りしめる。 「どうしたの? 尊人」 「なんでもねえよ」 「何でもない子は、そんな顔しないんだよ」  目に浮かんだ涙を、愛沢がそっと袖で拭う。愛沢は決して俺に直接触れようとはしない。俺に何があったかは聞かないし、俺が言ったことをきちんと守ってくれる。その優しさが嬉しいのに、なぜか無性に悲しくなった。俺がVロームじゃなかったら、もっと普通に、愛沢と友達になれたかもしれないのに。  ふとしたことで簡単に暗闇へ落ちていく俺。でもそんな俺の手を引くように、愛沢が「そうだ!」と声を上げた。 「尊人、ちょっと散歩に行ってみない?」 「なんだよ急に……」 「たまにヘレンの散歩に付き合うんだけど、今ちょうど、あじさいがすごくキレイなの!   もうすぐ梅雨になったらこうやってお庭でも話せなくなるでしょ? だから一緒に観に行きたいなって」  俺はここに引っ越して来てから、診療所の敷地を出たことは一度もない。誰かに声を掛けられたり、道端で貧血を起こすんじゃないかと、あれこれ考えるだけで怖かった。でも愛沢は、俺の不安もなんとなく察してるんだろう。察した上で、俺を誘い出してくれているのだ。 「……俺は、ここに引っ越して来てから、敷地の外に出たことないんだ。だから、道とか全然分かんない」 「大丈夫よ、俺が道めっちゃ覚えたから!」 「そういえばお前って、ここ地元なの?」 「ううん、五月に引っ越して来たばっかり!」 「俺より新参者じゃん……」 「ふふ、新参者同士でお散歩しよ? ね? きっと楽しいよ」  ほんの少し、俺の裾を掴む。その手は少し震えていて、愛沢の繊細な感情に触れた気がした。 「……あじさい見たら、すぐ帰るぞ」 「うん!ありがとう尊人!」  俺があじさいを観に行ったなんて言ったら、母さんも先生たちも驚くんだろうな。驚かせてやりたいなとぼんやり思いながら、高鳴る心臓をぎゅっと抑える。俺の心臓は今までずっと嫌な意味でしか鳴らなかったけど、今日はそうじゃない。夏休みの前日みたいな、そんな高鳴りを感じていた。  それから、初めて敷地の外へと足を踏み出す。たったの一歩、たったの一歩だったけど、俺にはかなり重たく感じられて、茨クソの場に立ち止まってしまった。すると、愛沢が先に出て手招きをしてくれる。 「ほら、おいで!」  愛沢の後ろを、一歩一歩ゆっくり歩く。日差しを浴びて、キラキラ光るコンクリート。青々と茂る草木。少し残った水たまり。窓越しじゃない、全身で季節を感じる日がまた来るなんて、不思議な気分だった。 「……歩いてどれくらいなんだ?」 「すぐそこ! 十分くらいかな~。おじいちゃんが自分で育ててるみたいなんだけど、すごい広くて。隠れ観光スポットになってるっぽい」 「ええ……あんまり人がいるのはイヤだな」 「大丈夫よ、遠くから見るだけでいいから。人がいたらすぐ帰ろう」  俺の不安を、一つ一つすくい上げてくれる愛沢。そういえば、愛沢は高校生。俺より年上なんだと、ふと思った。 「愛沢って何歳だっけ」 「十七歳の高校二年生だよ~! 言ってなかったっけ⁉」 「高校生とは聞いていた。そっか、お前そんな感じで先輩なんだな」 「二個しか違わないけどねぇ」  そんなことない。俺は一人っ子だからよく分からないけど、俺の話を聞いて、俺の嫌がることはしないで、少し先を歩いて、人が居ないか見てくれている。しかもそれを自然とやっているんだから、愛沢はきっと良い兄貴なんだろう。 「妹もいるし、ちゃんと兄ちゃんなんだな」 「なにそれ~」  クスクスと笑う愛沢と視線がぶつかり、ふっと地面を見つめる。 何度も言うが、こいつは顔が良いのだ。真正面で見ると、さすがに恥ずかしい。いや照れるのも変な話なのかもしれないが。俯きながら歩いていると、愛沢の背中にぶつかった。 「なんだよ急にっ」 「ごめん、なんか集団が見えたから」 「集団?」 「学ラン着てるしたぶん中学生……修学旅行かな。あじさいの方に行こうとしてると思う。今日は止めておこうか?」  愛沢の背中から、ゆっくりとその先を見つめる。そこにいたのは、学生服に身をまとった、俺と同じくらいの男女数名。そして俺は、その制服を知っていた。 「尊人? 尊人、どうしたの?」 「……は、あ、あ……っ」 「尊人⁉」  足に力が入らなくなり、その場にしゃがみ込む。全身が震えて、上手く言葉が話せない。どうしてあいつらがいるんだ。修学旅行? いや、修学旅行は二年生が行くんだ。俺の同級生じゃない。それに主犯のあいつは転校になったから、この場にいるはずない。 「えーそうなのー?」  楽しそうな声に、ふと顔を上げる。女子が着ていたセーラー服のリボンは「緑」……俺を襲った、一年の色。進級して、あいつらがこの場にいると、直感で理解した。すると、震えの収まらない俺を抱き上げようと、愛沢が俺に手を伸ばす。 「尊人、すぐここから離れよう」 「……や、やだっ!触るな‼」  伸ばされた手を、勢いよく払いのける。それは、こいつと出会ったあの日を思い返させるようだった。でももう、こうなったら止められなかった。 「お前もあいつらと同じくせに! 俺のこと、人間と思ってないんだろ⁉」 「尊人……?」 「あいつ、言ってた……っ! 体液でしか生きられないなんて人間じゃないって……っっ! みんな、俺のこと、好きにしていいオモチャみたいに、ずっと……っ!うっぅ゛……っ」 「尊人、尊人」  繰り返し呼ばれる、俺の名前。でもそんなの、呼ばれたところでなんだっていうだ。お前に、俺の何が分かる。 「……お前に分かるかよ、急に尻に指突っ込まれて、ぐちゃぐちゃにされて……! ちんこ突っ込まれて精液出される気持ちがお前に分かんのかよ⁉ それで……っそれで、お腹、いっぱいになるのが、どんだけ、辛くて、惨めかっ!お前に分かるのかよぉ……っっ」  あまりの惨めさに、顔を上げることが出来ない。学生たちは俺らがケンカしているとでも思ったのか、そそくさとその場を後にして行った。田舎道で大泣きしてる男なんて、傍から見たら近寄りたくないものだろうなと、冷静な自分がつぶやいた。  でも、分かっていてもダメだった。俺の身体はずっと震えていて、蛇口が壊れたみたいにずっと涙が溢れている。愛沢にも酷いことを言った。いっそ俺のことを嫌いになって欲しい。俺以上に酷い言葉を吐いて、置いて行って、二度と俺の方を振り向かないでくれたほうがずっといい。こんなのもうたくさんだ。  そう思っているのに、愛沢の口から漏れたのは、俺が望んでいるものとは真反対の言葉だった。 「尊人は偉いよ」  愛沢は静かにそうつぶやいて、そっと俺を抱き寄せる。出会ってから初めて、愛沢が俺に触れた瞬間だった。 「はな、離し……」 「俺の妹はね、Vロームなんだ。四月の終わりにそれが分かって、五月にここへ引っ越して来た。妹はずっと診療所に入院していて、俺は毎日お見舞いに通ってる。」 「は……」  愛沢から告げられた事実に、思わず目を見開く。誰かのお見舞いだとは思っていた。でもそれが、まさか、そんな身近な人間だなんて、想像もしていなかったんだ。  毎日話すようになっても、お互い触れなかった核心が、愛沢の口からぽつぽつと溢れ出す。さっきまで取り乱していた俺の心臓はすっかり落ち着きを取り戻し、愛沢の言葉に耳を傾けた。 「尊人のことを知ったのは、屋敷先生に聞いたからなんだ。話の出来るVローム患者はいませんかって。出来れば妹と年の近い人」 「なんで……」 「妹に近い人と話したら、もっと妹のことを理解してあげられるかもしれないと思ってさ。でも尊人は色々あって人と話したがらないっていうから、どうしたらいいかなって。庭をウロウロしてる時にヘレンと出会ったんだよ。ヘレンは尊人と仲が良いって言うから、もしかしたらそれで話せないかなって」  どうして愛沢がヘレンの名前を知っていたのか、どうして愛沢がVロームに詳しかったのか、愛沢が誰を見舞っているのか、その答えが一気に押し寄せてきて、俺はただ呆然と、愛沢を見つめることしかできなかった。 「あの子のために、出来ることはなんでもしてあげたかった。でも尊人と話してるうちにね、尊人と話してること自体が楽しくなったんだ。友達になれたみたいで嬉しかった。でも俺はVロームじゃないから。あの子にとっても尊人にとっても、俺は恐怖の対象でしかないんだよね。無神経で、本当にごめん……」  俺を抱きしめる腕が、静かに震える。涙は流していないけれど、きっとこいつは泣いている。顔をゆがめて悲しく笑うこいつの顔が、俺に生きて欲しいと訴えた母さんと重なって見えて、たまらない気持ちになった。 「……Vロームについて調べたら、ネットで俺のことなんていくらでも出てきただろ」 「……うん」 「でもお前は、根掘り葉掘り聞かないで、俺のこと、普通の友達みたいに話してくれただろ」 「そんなの当たり前じゃん」 「俺はそれが、嬉しかったよ。なのに俺は、お前をあいつらと同じにして、酷いこと言ってごめん」 「それは……っ」 「謝らせて、ごめん」 「……うん」  ほんの少し、指先を愛沢の目元に伸ばす。涙は流していないけれど、こいつはきっと毎日のように泣いている。それが一日でもいいから、止まれば良いと、そう思った。 「俺、お前の妹に会うよ」 「え?でも、尊人は……」 「俺が会ってどうなるかは分からないけど、でもお前の妹なら、会うよ。会ってみたい」 伸ばした指先をそっと降ろして、愛沢の裾に小さく触れる。直接ではないけれど、それでも俺からこいつに歩み寄ることは初めてで、愛沢は息をのむようにその手を見つめた。 「約束するよ、愛沢」 「……うん、ありがとう尊人……」    その後落ち着きを取り戻し、二人で診療所へと戻って行く。その間愛沢は、少しずつ妹について話してくれた。 「名前はね、幸知(さち)っていうの。幸せを知るで、幸知」 「良い名前だな。お前の親は名前にこだわりを感じるわ」 「見た目が外国人だから、名前は漢字とか意味とかを大事にしたかったんじゃないかな。幸知は小さい頃から元気で明るくておしゃべりで」 「お前とそっくりじゃん」 「そんなことないよ。幸知の方がずっと素敵で、キラキラしてて……」 すると、愛沢のポケットから音が響いた。スマホの画面を見ると慌てて電話に出る。 「うん、うん、分かった。すぐ行く」 「どうした?愛沢」 「ごめん、俺先に病院に戻る! 帰り道は大丈夫?」 「え、あ、うん」 「もしかしたら今日幸知とは会えないかも。でもいつか、絶対ね! 気を付けて帰ってきてね。今日は付き合ってくれてありがとう!」  俺の返事を待たず走り出して行く愛沢を見て、直感的に良くない知らせだったことは理解した。曲がり角を抜けていく時に見えた彼の横顔は、今まで見たことがないくらい、青い顔をしていたから。 「愛沢……っ」  気が付いた時には足が勝手に動き出していた。倒れたらまた心配を掛けてしまうのに。俺がゆっくり帰ったって、あいつは怒らないのに。でも、それでも、そばにいなくちゃ、いてあげたいと言う気持ちが溢れて止まらなかったんだ。 「くそっ……ぜってえ普通に走れるようになってやるからな……っ‼」    自分なりになまった身体を必死に動かして病院へ戻ると、ヘレンが勢いよく走って来た。 「はぁ……はあ、ごめんヘレン、今ちょっと急いでて……っ」  上がった息を整えながら、愛沢の姿を探して周囲を見渡すと、耳をつんざく叫び声が響いた。 「やだっ‼ 離して! もう嫌! 嫌だ‼」  ヘレンはその声へ向かって走り出し、俺も後を追った。 「どうして私がこんな目に遭わないといけないの? お兄ちゃんだって本当は私のこと気持ち悪いと思ってるんだ! 死んじゃえ、みんな死んじゃえばいい‼ 私じゃなくてお兄ちゃんが病気になればよかったんだ‼」  入院服を着て、点滴を振り回す女の子を取り囲む大人、そして女の子を抱きしめているのは…… 「幸知、大丈夫。大丈夫だからね」  愛沢は、そうくり返して女の子を抱きしめている。何度点滴の棒で叩かれても、ただただ静かに、優しく。 女の子が全身で叫んでいる言葉が、俺には分かる。分かるよ。分かるから。  気が付いた時には、俺は女の子を…幸知ちゃんの両手を握っていた。そして、愛沢も幸知ちゃんも、驚いた様子で俺を見つめた。 「尊人……⁉ダメだよ、離れて!」 「大丈夫だから」 「……だ、誰っ誰あんた……っ」 「俺は田崎尊人だよ。松岡尊人って言った方が分かる?」 「……Vローム……の……」 「そうだよ。日本で三番目の。珍しいでしょ」  俺のことがVロームだと分かってほんの少し警戒が解かれたのか、少しだけ視線の圧が弱まる。しかしそれでも、彼女の両目からは絶望がにじんで溢れていた。 「なんでこんなことになってまで生きなくちゃいけないの? ねえ、教えてよ…っ‼ なんでアンタは生きてるの⁉」 「幸知、なんてこと……!」 「愛沢、いいよ。そうだよな。こんなことになったら普通死んだ方がマシだし、俺だって毎日死にたいと思ってるよ」 「だったら……‼」 「俺も分かんないだよ。でも今俺らが死んだら、俺らのこと、大事に思ってくれてる人が死にたくなる気がするから」  俺は恵まれている。母さん、屋敷先生、花先生、みんな良い人で。俺が自殺でもしたら、その思いを踏みにじることになるんじゃないか。なにより、みんなの努力が無駄になると、傷付いてしまうんじゃないかと思うと、日に日に死ぬことが怖いと思うようになっていた。 「俺、これ以上母さんを苦しませたくない。俺が死んだら、俺は一生母さんの消えない傷になる。母さんたちの努力を踏みにじることになる。それが怖くて、死にきれないんだ」  幸知ちゃんは痩せ細り、腕には包帯が巻かれている。俺と同じ、Vロームの腕。泣きはらした目元、消えない隈。自分以外のVロームをしっかりと間近で見つめたのは、これが初めてのことだった。 そして、花先生と出会った日のことを思い返す。そうだ、花先生。花先生もあの時、こんな気持ちだったんだね。気が付いた時には、彼女の手に、自分の手を重ねていた。 「……俺は、幸知ちゃんに会えてうれしいよ」  嬉しい。ただただ嬉しい。幸知ちゃんが生きていてくれて嬉しい。その気持ちに嘘はない。でも、その言葉は彼女には届かなかった。 「そんなの……知らないっ! 死んじまえ‼」  重ねた俺の手に、彼女の爪が突き刺さる。ゆっくりと血がにじむが、幸知ちゃんはすぐに手を離し、後悔した表情で顔を覆った。 「……いやだ、もう、やだ……っ」 「愛沢、幸知ちゃんを部屋に」 「う、うん。ごめん尊人」 「いいよ。幸知ちゃんが後悔したのは、俺に爪を立てて傷付けたことじゃないから」  俺の言葉に、彼女は黙り込む。周りの人間はいまいちピンと来ていないようだったけど、それも仕方がないか。 愛沢は静かに俯く彼女を抱きかかえ、大人たちと病院の中へ戻って行く。それと入れ替わるように屋敷先生が駆け寄ってきた。 「ごめん尊人くん、すぐ止めに入れなくて」 「いいよ。自分の血は、何とも思わないから」 「……あの子はもう、一ヶ月あんな感じだ。いつもは無言で塞ぎ込んで、あるとき火山が噴火するみたいに、ああやって暴れ出す。現実を受け入れられなくて、自分でもどうしていいか分からないんだろうね」 「幸知ちゃんは、口から血を飲んでないの?」 「どうしてそう思うの?」 「俺の手から流れた血をみて、すごい顔してたから」 「すごいって、どんな?」 「……血が飲みたくて飲みたくて、死にたいっていう顔」  生ぬるい風が、全身をやわらかく撫でていく。夏が近いんだなとぼんやり思いながら、診療所の方を見つめた。 「幸知ちゃんは、どの部屋?」 「二階の一番奥の個室だよ。もしよかったら会いに行ってあげて」 「最初っからそのつもりだろ。俺のこと愛沢に話したくせに」 「プライバシーを守りつつだから勘弁してよ」  困ったように眉を下げながら、俺の手をそっと握る。そして傷口にハンカチをあてがい手早く止血してくれた。 「富実くんは、良い子だよ」 「……分かってる。でもどうして俺だったの?Vローム患者は他にもいただろ。いくら年が近いからって……」 「あの子も、君と同じなんだ」 「同じって…」  先生の言葉が理解出来ず、質問を重ねる。しかし屋敷先生は首を横に振って答えることはしてくれなかった。 「ごめんね、これ以上は言えない。患者の個人情報は誰であっても話せないの。まあ、そうだな~、例えば親族とかすご~くすご~く親しい人なら、教えてくれるかもしれないね?」  屋敷先生がこちらを見つめてウィンクを飛ばす。そんなの、名指しであいつに聞けと言っているようなものじゃないかと、ため息が出た。そして、その名指しで話を聞ける人間が、大慌てでこちらへ走って来たのだ。 「尊人!」 「……愛沢?幸知ちゃんは……」 「幸知は薬を飲んで横になったよ。花先生がいてくれるから大丈夫。なんなら俺とか親より、 花先生相手の方がまだ冷静なんだ。俺たちといるのは色々辛いみたいでさ」 「まあ気持ちは分かるけど」 「手、ごめん。痛かったよね」  ハンカチが巻かれる手を、愛沢の大きな手がそっと包み込む。触るなって言ったけど、まあこれはしょうがない……。そんなに悲しそうな顔をされたら怒れないじゃないか。 「いいよ。こんなのすぐ治るから。それより俺、幸知ちゃんと上手く話せるかな」 「そんなの気にしないで。会ってくれただけで嬉しい。本当にありがとう」 「……幸知ちゃんに会う時のために、幸知ちゃんのこと、教えて欲しい。全部じゃなくても、いいから」  俺の問いに、愛沢は少し黙り込む。愛沢は優しい。優しいからこそ言葉を選んで考え込む。だから、愛沢が話し始めるのを静かに待った。 「……幸知は、十四歳の四月の終わりにVロームを発症したんだけど。元々痩せ型で、全然気が付かなかったんだ。学校の体育の授業で倒れて運ばれたんだけど……」  愛沢はそこまで言って、眉間に皺を寄せた。繰り返す深呼吸は震え、拳を作った手には力が籠っている。やがて、吐き出す息と共に消えそうな声で呟いた 「幸知のことをVロームじゃないかと思っていた教師に、乱暴されたんだ」  ああ、そうか。脳内で屋敷先生の言葉が思い起こされる。「あの子も、君と同じなんだ」 と。妹のことを俺に話していいのかと、どれだけ葛藤してくれただろう。俺を真っすぐに見つめる瞳には、悔しさと怒りが滲んでいた。  「教師は、栄養を恵んでやろうと思っただけだって開き直ってたって。それを聞いた時、初めて人を殺したいって、思ったよ」  心臓が、握り潰される感覚がした。言葉なんて出てこない。一つ言えることは、彼女の目に 映る人間はきっと全員敵に見えるに違いないということだけ。それは、俺が一番よく分かるような気がした。  そして、愛沢がどれだけVローム患者への加害者を憎んでいるのかも、彼と重ねた手から流れ込んでくるようだった。 「幸知は、ああやって何度も病院を抜け出そうとしてるんだよ」 「どうして脱走なんて……」 「屋敷先生と花先生のカウンセリングでは、幸知の部屋には自殺出来る道具がないから、脱走して身を隠して、餓死するためかもしれないって。輸血もギリギリまで拒むから、いつも大変なんだよ」  そうか、だからあんなに必死に愛沢は走って帰っていったんだ。俺が知らなかっただけで、ずっと幸知ちゃんを守っていたんだな。 「……口からなんて絶対飲んでくれない。でも俺たちは、幸知が栄養を取りたくないからだと思ったけど、さっき尊人が幸知と話してるのを見た時、それだけじゃないんだなって思ったんだ」  愛沢が、真っ直ぐに俺を見つめる。今度は俺が、愛沢に答える番だろう。これは、俺にしか分からないことだろうから。 「幸知ちゃんが俺に手に爪を立てて、すごい顔して後ずさりしただろ。それを見た時、きっとこの子も、口から血を飲みたくないんだってすぐ分かった」 「それは、どうして?」 「……血を飲んだら、人じゃなくなるって、きっと本気で思ってるんだ。幸知ちゃんも、俺も」  俺の言葉を受けて、愛沢の顔から血の気が引いていくのが分かった。そうだよな、普通 の人は分からない。分からなくて当然なんだ。 「俺もうまく言えないけど、とにかくすごく嫌なんだ。口から血を飲んで味を覚えたら、人間じゃなくなる。本当に吸血鬼みたいな、バケモノになっちゃうんじゃないかって」  ちっぽけな意地だと思われるだろう。輸血をしないと命を繋げない時点で、普通の人間ではないと言われているのと同じなのに。 俺はあの日からずっと、あいつの言葉に縛られている。目を瞑るだけで、あいつの顔が、声が、何度でも俺に囁くのだ。  —人の体液でしか生きられないなんて人間じゃねえじゃん— 人間じゃなくなるということが何よりも恐ろしくて、絶対に口から血を飲みたくなかったのだ。  ……ああ、久しぶりに嫌なことを思い出した。冷や汗が溢れ、身体の震えが止まらない。死にたい、死にたい、死んでしまいたい。あの日の自分が、今の自分を支配していく感覚に陥る。 すると、両頬に手が添えられ、ぐっと視線が上がる。そこに浮かんでいるのは、美しい二つの宝石。  ああ、そうだ、愛沢の瞳は大きくて、光を集めて、一層輝いて見えるんだ。愛沢の目尻に指を滑らせると、そのまま手が握られた。 「人間に戻れなくなるなんて、言わないで。俺にとっては、尊人も、幸知も、Vロームになったって何も変わらない。大事な大事な、大事な人だよ。そんな悲しいこと、言わないで。お願い」  俺はVロームになってから、母さんと屋敷先生と花先生以外とまともに話したことがなかった。それ以外の人間が、恐ろしくて、憎らしくて、妬ましかったのだ。それは今でも変わらない。それでも、こんな風に俺の手を握って、俺のために泣いてくれるこいつを嫌いになることは、どうしてもできなかった。 「……俺、幸知ちゃんと、うまく喋れるかな」 「また会ってくれるの?」  Vロームになって初めてまともに喋った愛沢と、そいつの大事な妹。俺と同じ地獄に落ちて、泣き叫んでいる女の子。何が出来るか分からないけれど、そばに居てあげたいと思った。 「今日はちょっと無理だけど、また明日ね」 「うん! ありがとう。俺送るよ。抱っこしてもいい?」 「……いいよ、じゃあ送って」  愛沢との話に区切りがついたタイミングで、ずっと見守ってくれていた屋敷先生が間に入ってきた。 「その前に輸血! 富実くん、尊人くんを診察室に運んでちょうだい!」 「そ、そうだよね! 本当ごめん。貧血とかになってない? 大丈夫?」 「心配しすぎだよ、大丈夫だから」 屋敷先生の後をついていきながら、愛沢は俺を抱えて診察室まだ歩いて行く。ベッドに寝かせて輸血の準備がされるのをじっと見つめていた。 「そんなにじっと見てなくても、俺は輸血嫌がったりしないから」 「本当に? ちゃんと最後まで受けてくれる?」 「んは、約束するよ。だからお前も今日は帰りな。疲れたろ」  俺の言葉を受け取りようやく安心したのか、腰掛けていた椅子から立ち上がり、静かに布団をかけ直す。そして、ぽん、ぽんと、優しくお腹のあたりを撫でながら、言葉をこぼした。 「明日も、俺と会ってくれる?」 「……お前が来れば、声で分かるよ。お前の声、でっけえもん」 「うん。一番に会いに来るからね。幸知は、なかなか会ってくれないから」 「ばーか」  そんなやり取りをして、愛沢はようやく診察室を後にする。俺は手から出血したこともあり、いつもより多めに輸血を終えて帰宅した。 ベッドに横たわりながら、真っ暗な夜空を見つめる。明日、幸知ちゃんに何を話そう。何を話してくれるだろう。富実みたいにはいかなくても、少しは話し相手になれるといいな。  —その日は、どっと疲れが出たんだろう。本を読まなくても特に悪夢を見ることもなく、熟睡出来ていたと思う。いつもと変わらない、いつも通りの朝になるはずだった。 「尊人、尊人起きて」 「……んぇ。ぁ……おはよう……?」  朝、朝なのか?肩を揺らされ、意識が強制的に浮上する。目を閉じた状態でも、母親に起こされたことはすぐに分かった。でもまだ少し外は暗いように見える。スマホに視線を移すと、時間は朝の五時。起きるにはさすがに早すぎるが、重たい目をこすって母親の顔を見たとき、スッと眠気が覚めていくのを感じた。 「……なんか、あったの……?」  部屋の静寂に、嫌な予感が加速するのが分かる。俺の問いかけに、母親は一呼吸置いて言葉を続けた。 「落ち着いて聞いてね。入院しいてた患者さんが亡くなったの。始発の電車が来るタイミングで線路に飛び込んで、そのまま……」  一瞬だけ、心臓が止まった気がした。しかしそのあと心臓の鼓動はどくんと強くはね、だんだんと早さを増していく。 「名前は……愛沢幸知さんよ」  窓から、ほんの少しの日差しが差し込む。夜が明けて朝がやって来た。光が目に染みて、ゆっくり俯く。そんな俺を、母さんが静かに抱き寄せた。 「あなた宛に、手紙が残っていたの。読んであげて」  母さんの手元には、白い封筒が一通。そこにはとてもきれいな文字で「田崎尊人さま」と書いてあった。母さんは「下で待ってるからね」と言って部屋を後にする。一人残された部屋で、俺はゆっくりと封を切った。 『田崎尊人さま。 さっきはごめんなさい。 それから、せっかく会いに来てくれたのに結局死ぬことを選んでごめんなさい。 本当はずっと死にたかった。 さっさと死んじゃいたくて、入院も輸血なにもかもが嫌だった。 でも無理矢理連れて来られたここは、包丁も縄もないし、スマホも取り上げられてるから、 死のうにも死ねなかった。 でも引っ越してくる時、駅があるのは分かってたから、 そこまで逃げれば確実に死ねると思った。 確実に死ねる方法が分かったら、早く死にたくてしょうがなかったな』    一枚、便せんをめくる。 彼女の走らせる文字が、少しずつ震えていくのを感じた。 『死にたい毎日で、あなたに出会った。 あなたは私に言ったよね。 私たちが死んだら、私たちを大事に思ってくれてる人が死にたくなる気がするからって。 大事な人たちの一生消えない傷になるって。 でももう手遅れだよ。 私たちがVロームになった時点で、家族はみんな不幸になる。 解放してあげる方法は、私たちが死ぬことだよ。 それが大きな傷として残っても、 それ以上傷付くことはもうないなら、その方が幸せだよ』 『だから、これから言うことはみんなには言わないでね。 私はね、残されたみんなが気に病まないように、大声で泣いて暴れて、 この子は死んだ方がラクになれると思ってもらえるようにしてたんだよ。 やっと死んで、ラクになったんだね、よかったねって。 私の死を悲しまなくて済むように。もうそろそろ良いかなと思ってさ』   残った便せんは、あと一枚。 もうすぐ、彼女の命が終わってしまう。 読む手が震えるけれど、俺は幸知ちゃんの言葉を全て読む義務があるから。 深く息を吸い、最後の一枚へ視線を落とした。 『それから、田崎さんは分かってくれたよね。私が口から血を飲まない理由。 ああ、よかった。分かってくれる人がいた。この人は、私をちゃんと 人間としてみてくれてるって思ったよ。 私、人間扱いされて、嬉しい気持ちのまま死にたい。 これ以上頑張るんじゃなくて、ああ、よかった。 私、バケモノになる前に死ねるって。 私を人間と思ってくれている人が生きてるうちに死にたいって。 あなたにばかり、辛いことを押しつけてごめんなさい。 あなたに会えてよかった。 あなたにとって私は消えない傷になってしまうかもしれない。でもおかげで私はラクになる。 やっとラクになれるから、どうか気に病まないでください。 それから、お兄ちゃんにも謝っておいてください。 毎日酷いことを言って、傷付けてごめんなさい。 こんな妹でごめんなさい。でも私、やっとラクになれるから。 どうか私の死を悲しまないでね。愛してる。さようなら』  ―手紙の文字が、涙でにじむ。 言いたいことは、たくさん溢れてくるけれど、どれも言葉になるまえに、涙になって両目から流れていってしまった。 そして、気が付いた時には身体が走り出していた。母さんの声が聞こえた気がしたけれど、でも止めることが出来なかった。 俺の心臓が叫んでいる。きっといる、そこにいると。 「……愛沢‼」  俺らが初めて出会った場所にあるベンチで、彼は一人、静かに座っていた。ここは診療所から少し離れた場所にあるし、大きな木が目隠しになっていて、一人になりたい時に丁度良い。そしてあいつと会う時は、約束していなくても自然とここに足が向いたから。 「ここに居ると思ったよ」  俯いたまま目を合わせることもせず、愛沢はぽつぽつと話し始めた。 「……俺……俺ね、幸知をバケモノなんて思ったこと、一回もなかったよ。幸知はずっと、自分はもう人間じゃない、死なせてって言ってたけど」  幸知ちゃんが、愛沢にどんな手紙を残したのかは分からない。でも彼女が残した言葉に、愛沢は納得出来ていないんだろう。彼の声からは、後悔がにじみ出ていたから。 「俺が思ってたのは、幸知を守れなくてごめんってことだけだよ。これからは何があっても俺があの子を守ってあげるって、何度も何度も、何度も伝えたつもりだったのに……っ」  両手で顔を覆いながら、絞り出すように幸知ちゃんへの思いを吐き出す。手の間からは雫がしたたり落ちていた。 「俺のこと、嫌いでもいい、恨んでくれていい、傷付けてくれて構わない。それでもいいから、生きていて欲しかった……っいかないでほしかったよ……幸知……幸知……っ」  こいつの方が背は高いけど、ベンチに座って背を丸めて泣く姿は、まるで小さな子どものようで。そう思った時にはもう、こいつを自分の胸へ抱き寄せていた。 「みこ……」 「俺も、簡単なことで死にたいって思うよ。でも、もうちょっと生きてみるから」  初めて会った時から、お前はずっと笑っていたね。それはきっと、俺や幸知ちゃんのためだったって、今なら分かるよ。お前だって同じくらい辛くて苦しくて泣きわめきたかっただろうに。母さんだってそうだ。俺は自分の絶望に手一杯で、自分のために悲しんでくれる人のことをないがしろにしてしまう。幸知ちゃんはきっと、全部分かった上でそれを手放していったんだろう。でも俺にはまだ、手放すことは出来そうにない。 俺より身体は大きいし、筋肉だってしっかりしてる身体を、細い腕でしっかり抱きしめる。愛沢はゆっくり、静かに、俺の背中に手を回した。 「俺さ、頑張って生きてみるから。お前も一緒に、もうちょっと頑張ってみてくれよ」 「……ねえ、尊人」 「なんだよ」 「生きててくれて、ありがとう……っ」 「おう」  お前こそ、俺みたいなやつにしつこく話しかけてくれてありがとう。そう言いたかったけど、あまりに照れくさいからやめた。 それから俺は愛沢の気が済むまで泣くのに付き合って、二人で手を繋いで病院へ戻る。屋敷先生や大人たちは、詮索することはせず、優しい声で「おかえり」と出迎えてくれた。  六月十四日は、俺らにとって忘れられない日となった。 幸知ちゃんが亡くなった翌日、葬儀は静かに執り行われ、愛沢たちがこの土地に残る理由はなくなった。きっと以前住んでいた場所へ帰るのだろうと思うと、ほんの少し胸が痛む。 実際、葬儀が終わってから二週間、愛沢が病院へ姿を見せることはなかった。 「ヘレン。ほら、取ってこーい!」  フリスビーを力いっぱい投げると、ヘレンも勢いよく走り出す。愛沢が目一杯ヘレンと遊んだせいで、俺まで体力勝負の遊びを求められるようになってしまった。こうなると、輸血だけでは体力が持たない。俺はずっと先延ばしにしていた問題と向き合わなくちゃならない時期にさしかかっていた。 「くそ、愛沢のせいだぞ……っ」 「え! 俺何か悪いことした⁉」  頭の後ろから、声が響く。  振り返るとそこには、まばゆい笑顔を浮かべる愛沢が立っていた。 「なん、な……なんで……」 「なんではこっちのセリフよ! 俺、尊人になにしたの? 記憶にないんですけど⁉」 「いやそうじゃなくて! お前、引っ越したんじゃねーのかよ⁉」 「引っ越しなんてしてないよ⁉ 誰からそんな話聞いたわけ⁉」  愛沢は本当に覚えがないのか、大きな目を更に大きく見開いて、俺の顔をのぞき込む。久しぶりに見た愛沢の顔に動揺して、思わず目をそらしてしまった。 「だ、だって。お前は幸知ちゃんのためにここに来たんだろ。幸知ちゃんがいなかったら、もう、こんな田舎、残る意味ねーじゃん」  フリスビーを取ってきたヘレンが、俺の足元へ駆け寄る。シッポを振り、もう一度とねだる彼女の頭を、愛沢が優しく包み込んだ。 「ヘレン、ちょっと尊人とお話しさせてね。君のご主人さまは、ずいぶんひどい勘違いしてるみたいだから」 「……だってお前、ずっと病院来なかったし、お前のせいでヘレンは体力使う遊び覚えて、俺、大変なんだぞ」 「ごめんごめん。色々準備してたんだよ。俺ね、実はまだ元々の高校から転校してなくて。幸知のこともあって、学校は休んでたんだよ」 「な、はあ⁉」  あんなに毎日一緒に話していたのに、俺は愛沢のことを何も知らなかったのかと、ショックを受けるのと同時に、肝心なことは何一つ教えられていなかったのかと、腹が立った。 「だ、だったら、学校のこともあるし、益々ここに残る意味……」 「ねえ、尊人。ちゃんと話し聞いて?黙ってることがたくさんあって、それは本当にごめんなさい」  俺より背の高い愛沢が、少し屈んで俺の顔をのぞき込む。真剣に、真っ直ぐに。  そもそも、愛沢を拒絶していたのは俺の方なんだから、俺が怒る話でもない。深呼吸をして、この謎の苛立ちをゆっくり鎮めた。 「……分かった。聞くから」  ベンチに腰掛けると、愛沢も一人分席を空けて腰掛ける。たった二週間しかそばを離れていなかったのに、ずいぶん久しぶりのように感じた。 「引っ越して来たっていうの自体がちょっと違くて。マンションはもちろん借りてたんだけど、東京の家は残してたんだよ。父さんの仕事の関係もあるから」 「うん」 「実際、両親からは向こうに戻って生活しようって言われたよ。もし今の環境が落ち着かないなら引っ越したり転校したりしてもいいけど、ここに戻ってくるんじゃなくて、あくまで都内でみたいな」 「まあ、その方がいいんじゃねーの。進路とかさ……」 「そうだね。俺は今高二だから、進学とかを考えても都内に戻るのが正解なんだと思うよ。高校も、こっちだと限られてるしね」 「そんな大事なこと、二週間ちょっとで決められるわけないじゃん。よく考えたのかよ」  俺にとっては長い二週間でも、愛沢にとってはかなり短い時間だったと思う。たったの二週間で、愛沢は都内に戻るか、こちらに生活の拠点を移すか決めなければならないのだから。俺の疑問を受けて、愛沢は真っ直ぐに俺を見つめる。その表情は、とても真剣で、それでいてとても穏やかに見えた。 「考えたよ。夏休み明けからこっちの高校に通う手続きを進めてる。親は仕事の都合で向こうを離れられないから、俺だけこっちに来る感じになるけど……。俺はこれからもここから離れないよ」 「なんで……そこまでする必要があるんだよ」 「幸知が死んでも、Vロームの人たちはこれからも増えて行く。俺は幸知を助けてあげられなかったけど、今度は絶対、誰かの助けになりたいから」  愛沢の大きな瞳が、きらりと揺れる。その瞳は、幸知ちゃんを思わせた。そして、彼の手が俺の頬へと伸びる。 「俺にとって尊人は、幸知を救ってくれた大事な存在だよ。尊人を絶対死なせない」 「……大げさだろ、バカかよ」  愛沢の視線に耐えかねて顔を逸らすと、愛沢は頬を膨らませて大げさに拗ねてみせる。そして衝撃の言葉を口にしたのだ。 「え~。でももうeat love とやしき診療所も手伝うことに決まったんだけど」 「はあ⁉」  大声を上げて愛沢の方へ顔を上げると「そんな目えデカくなるの⁉」とげらげら声を上げて笑われた。 「どっちもアルバイトっていうか、雑用だけどね。親と話したんだけど、漠然とVロームの助けになりたいってだけじゃなくて、将来に繋がることを考えなさいって言われてさ。葬儀の後に屋敷先生に相談した時に勧められたんだよ」 「お、俺何も知らないんだけど」 「その時は親にまだ反対されてたからねえ。でも俺はVローム家族でしょ? 患者だけじゃなくて家族のケアもしたい方針の屋敷先生たちからしたら、俺はピッタリだったみたい。一緒になって親を説得してくれてね~。まだ正式な転校前だからしばらく行ったり来たりになるけど」 「ま、まって、待ってくれ話について行けない。つまりお前、診療所で働くってこと……?」 「そう。だからこれからはもっと長い時間一緒にいられるね♡」 「……さっ最悪だ……」 「なにが最悪なの⁉」 「や、も、俺にもよくわかんない。だってお前、マジかよ……」  思わず顔を覆ってうなだれる。こんなこと、一ミリだって想定していなかった。愛沢が帰ってきてくれて嬉しい気持ちと、何も知らされていなかったことの怒りがないまぜになって自分でもどう反応すれば良いか分からなくなってしまった。 俺のリアクションを受けて愛沢が同感じたかは分からないが、彼の長い指先が、するりと頬を撫で、顎をゆっくり押し上げる。 「まあまあ、これからゆっくり受け入れてくれたらいいよ。それで諦めて俺とずっと一緒にいたらいいと思うな?」  彼の視線は一瞬も俺から逸らされることがなく、まるで「逃がさない」と言われているように感じて、思わず俯いてしまった。 「……勝手に触んなよ、バカ」 「じゃあ今度から許可取ったらいいのね?」 「うるせえ! あっち行け!」  愛沢の手を払いのけ、踵を返して歩き出す。すると今度は、愛沢が駆け寄ってくる音が聞こえた。 「うわっ!」  振り向くより先に、背中に重さを感じる。俺より図体のデカい愛沢から抱きしめられたせいで、視界はかろうじて足元にまとわりつくヘレンが見える程度だ。 「おい、だから勝手に触……」 「どこにも行かないで。一緒にいてよ」  さきほどまで軽口を叩いていた男とは思えないほど、寂し気な声色だった。全身に感じているこの重さが、突然消えて、振り返った時は消えてしまっているんじゃないか。そう思ってしまうほど、儚い声だった。 「……黙っていなくなったのはそっちが先だろ」  思わず意地悪をいうと、抱きしめられる力が強くなる。しかしその腕は震えていて、背後で鼻を啜る音が耳元に響いた。 「……ごめん、意地悪言った。どこにも行かないよ」  どこにも行かないんじゃなくて、正しくはどこにも行けないんだけど。俺はここで生きて行く。だから、置いて行かれるなら俺の方なのに、こんな風に俺が離れていくことを怖がって泣いてくれる人がいるなんて、想像もしなかったんだ。 「戻ってきてくれて、ありがとう」  俺はただ、それだけを伝えた。愛沢から返事はなかったが、小さく頷いたのが分かる。 「ほら、そろそろ中戻るぞ」 「うん」  今度こそ返事が来て、俺は少し微笑む。そうして、二人で並んで歩き出した。 幸知ちゃんがいなくなり、愛沢もいなくなると思っていたのに、愛沢は変わらず俺の隣にいる。その事実が自分でも驚くほど嬉しくて、嬉しいと思っていることに、俺は酷く戸惑っていた。

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