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1.おだやかな時間

 風雪の檻と呼ばれる、北端の国アルブレア。  その国の第三王子と正式な婚約を交わして、しばらく経った。  太陽の国と呼ばれる南端の国ネヴァルストの第五王子ラズリウは、志望していた魔法技術の研究員に晴れて登録された。調査チームに同行して実地の研修も受けられるようになり、調査員としての経験を積むべく研鑽の日々を送っている。    ……というのも、有人観測という調査への参加を希望しているからだ。  アルブレアの主要な都市は豪雪から街を守るドームに覆われている。数多の人命と引き換えに造り上げられた、この国のライフライン。そのドームを新しく作る時に、問題なく人が住める環境が作り上げられているかを調査するのが有人観測である。  実際にドームへ赴くため、トラブルが発生すると人材も物資も劇的に限られてしまう。そのためある程度自律して動ける研究員でないと参加資格は得られない。少し魔法が使える程度では門前払いだ。  以前の有人観測で起きたトラブルによって破損した新設ドームは修復が続けられ、復旧が完了すれば再調査が始まる予定になっている。  それより前に参加資格を得ないと、有人観測の調査チームに名を連ねている婚約者に置いていかれてしまう事になるのだ。    ラズリウは婚約者と共に居たい一心で、有人観測の調査員になるべく勉強に勤しんでいた。  だから一秒たりとも無駄にしたくないのに。 「うう……こんな時に……」  定期的なヒートで動けなくなるΩの特性を持つラズリウは、今回もきっちりとヒート期間に入って研究所へ行けなくなってしまった。とはいえヒート症状が常にある訳ではないから、自習用に読みかけの教本を借りて手元に確保してある。  そこまでは……良かったのだけれども。  教本を読むのに参照したい資料を借り忘れていたことに気付いたのが、少し前のこと。    好いた相手と婚約が出来て、番にもなれた。良いことが続いて気が抜けているのかもしれない。  己の迂闊さにがっかりしながら教本を閉じた時、世話人のシーナが部屋に入ってきた。 「ラズリウ殿下。グラキエ殿下がお越しになりました」 「……! は、はい。通してください」  微笑みながらぺこりと頭を下げたシーナと入れ違いで、白い肌に銀色の髪と金色の瞳を持つ青年が入ってきた。  グラキエ・ウィフルド・アルブレア殿下――アルブレア王国の第三王子であるαの王族だ。そしてラズリウの婚約者であり、番となった人。  出会った頃は婚約に後ろ向きで、色々と失礼な態度を取られたけれど。紆余曲折あってラズリウを気遣い大切にしてくれる人になっていた。父王から賜ったお役目だからと何も期待せずに来たラズリウもまた、彼の心が欲しくなってしまった程に。 「おはよう、ラズリウ。起きていて大丈夫なのか?」 「おはよう。大丈夫だよ、まだ始まったばかりだから」  寝台に腰かけたグラキエは出迎えたラズリウをそっと抱き寄せる。大人しく腕の中に収まると、手袋のない白い手が頭をそっと撫でた。  落ち着く匂いと、やさしい手の感触。アルブレアの人は全員貧血かと思うほどに肌が白く、グラキエも例に漏れず一見して冷たそうな手だ。けれど触れる肌はとても暖かい。  ……服の下の肌も、とても。    うっかり番になった夜の記憶を思い出して、ぶわりと頬が熱くなる。それを見て症状だと勘違いしたのか、赤子がされるように横抱きで膝の上に抱えられてしまった。 「無理は良くない」 「そんなのじゃないよ、首輪もあるし。キーエが早く来てくれたから……嬉しかっただけ」  二人きりで寝台に上がった時にだけ呼ぶ、秘密の愛称。少し照れくさく思いながらグラキエを見つめると、目の前の顔へ一気に朱が差して視線がふいっと外れた。照れてしまったらしい。  この王子は得意分野以外では少しヘタレた部分がある。普段はそうでもないし思い切りも良いけれど、こういう事に関してはすぐに照れたり処理能力を超えて固まったりしてしまうのだ。  そこが新鮮で、どこか可愛い。 「一人じゃないヒートが、こんなに心強いとは思わなかったんだ」  アルブレアに来てからはシーナが世話をしてくれるし、前回は終わりがけにグラキエが側に居てくれた。それだけでも驚くほど心細さが軽減されるのというのに。これから波の様な発情に苛まれる期間が始まろうという時に、番が側に居る……そう思うと心強さが全く違う。  無性に甘えたくなって頬をすり寄せると、急にグラキエが上着を脱ぎ始めた。  真っ赤な顔で服を脱ぐものだから、まさか朝っぱらからその気になったのかと驚いたけれど。すぐに脱いだ上着がぽふんと上から掛けられて、まるで上掛けの様にラズリウの身体を包んだ。  ふわりと届く嗅ぎ慣れた香り。ぎゅうっと抱き締められて、服と本人からのそれに包まれ思考が痺れていく。 「……その、リィウ。ネヴァルストでもヒートの時は一人だったのか……?」  気遣わしげな目がラズリウを見つめている。過去は関係ないといつぞやは言っていたけれど、やはり祖国での過ごし方は気になるのだろう。  昔から国にある慣例だったとはいえ、グラキエ以外にも交わった相手がいるから、余計に。 「ヒートの時だけは、離宮には誰も来なかった。使用人が食事を部屋の外に持ってくるくらいで」  アルブレアの様な王宮勤めを許されたΩは、ラズリウの祖国ネヴァルストには居ない。βの使用人が部屋の外に食事を持って来るが中へ入ることはなく、期間の明けに身を清めて汚してしまった周りの品を取り替える程度だ。  前は厠で多少は慰められるけれど、後ろはどうしても寝台の上になる。症状が酷くて動けない時にはこびりついた白濁にまみれた状態になってしまっていて、それには流石に顔をしかめる者も多かった。  黙って話を聞いていたグラキエは、一つだけため息をこぼす。 「そうか……そこだけは守られてたんだな」 「……? まも、られる?」  思いもよらない単語に、グラキエの瞳を覗き込んだ。  実情を知らない彼には家畜小屋の様な離宮に想像が及ばないのかもしれないけれど。守る、とは。 「間違いが起きないように人を遠ざけてたって事なんじゃないだろうか。ヒートで交わるとα相手でなくとも孕む可能性があるんだろう?」 「それはまあ、そうだと言われてる、けど」  とはいえ試したことはないから、その真偽のほどは分からない。取って付けただけの理由である可能性もある。  けれど、グラキエはどこかホッとしたような顔でラズリウを見つめていた。 「ヒートの間でも武勲の褒賞にされていたら……下手をすれば他の誰かのものになっていたかもしれない、という事だよな」 「あ……」  ネヴァルスト王室から褒賞を与える相手は武勲を上げた者。身分は問わず、平民どころか猟兵の様な流れ者にも望めば平等に王族と交わる機会が与えられる。  そういった手合いの相手は、騎士とは違って礼節を知らない事が多い。それどころか普段厳重に守られている王族を暴いて組み敷くまたとない機会に、何処かほの暗い笑みを浮かべている輩もいた。    もしもそんな人間の種を、万が一にも宿したりしたら。  甘く痺れていた思考が水を打たれた様に戻ってくる。子が宿ればこんな日々は終わるのにと自暴自棄になっていたけれど、下手な人間に飼われる事になっていたら……終わらない地獄に墜ちていたかもしれない。 「そう、だね。そうかもしれない」  正直なところ、それは王宮にならず者を入れない為の防波堤だったのではないかと思う気持ちもあるけれど。  もう確かめる手段も、そのつもりもない。あの時の事はグラキエと共に雪の下へ埋めると決めたから。ならば良い方に、与えてくれる綺麗な可能性を握りしめていたい。 「キーエ」  思わず抱きつくと、そっと抱きしめ返してくれる。ゆっくりと背をさする手の平の感触に少しだけ波打った気持ちが落ち着いていって。  とさりと、寝台の真ん中に下ろされた。  微かに欲の滲む瞳がラズリウを見つめている。着けている魔法の首輪はΩの放つ発情を誘発するフェロモンを抑え込むと聞いていたけれど……どうにも完全ではなかったらしい。 「リィウ」  近くにやってきた真っ赤な顔。待ちきれずに引き寄せて軽く口付けると、すぐに深くなって返ってきた。  ヒートの症状なんて、いつもの半分も出ていない。  けれど触れてくる唇や肌に何故かラズリウも酷く興奮してしまって。シーナが昼食に呼びに来るまでずっと、勉強もそっちのけでじゃれあいに興じてしまったのだった。

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