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その3-3
しばらくしたら落ち着いたようで、紫乃はいつも通りの顔で、「お風呂入ってくる」と立ち上がった。頷き返して、あしたの学校の準備をすることにする。
バッグに教科書を詰めながら、添われた腕に触れる。まだ紫乃の体温が残っている。
(あんなに、小さかったんだな……)
抱き込んだときに包んだ肩は、思っていたよりもずっとずっと薄かった。あんな身体で、ご飯を作って、毎日明るく振る舞って、すべて一人で抱えていたのだ。一人きりでここに残り、店を守り続けることは、紫乃にとって苦しいことだろうか。二人で過ごした欠片を見つける度に、息を止めて、かなしみの波が収まるのを堪えるときがあるのだろうか。
でも、紫乃は立ち上がる。料理を作る。この店を守ろうとする。巧では到底敵わないような、強い心でここにいる。
(……いや、強くなんてなかったんだ)
弱さを見せないことが、強さではない。縋ってくれたこと。その姿を、強いと思った。そんな彼のそばにいたいと、より強く思った。紫乃が、弱さを曝け出せる場所でいたい。見守りたい。守ってあげたい。
「……ん」
不意に声が聞こえて、思考が停止した。
耳をそばだてる。だって、今の声は。
「……せん、ぱい……」
夢に何度も聞いた、――紫乃の喘ぐ声だ。
ドクン、ドクン。
心臓の音だけが、頭の中に鳴り響く。世界から音が消えて、自分のせわしない鼓動と息遣いが満ちていく。そのくせ、いやに冷静に鼓膜を張り詰めさせる、自分がいる。
無意識に足が動く。寝室を出て、風呂場に向かう。その間も心臓が律動を繰り返し、耳鳴りのような警鐘を掻き消していく。
脱衣所のドアの前に立つ。擦りガラスの向こうに、影は見えない。まだ浴室の中にいるのだろう。
吐息が聞こえる。名前を呼ぶ、高ぶった細やかな声が木霊している。
戸に手をかける。やめろ、とどこからか声がした。無視して、そっと引き戸を開ける。籠の中に、紫乃の着ていた服と、着替えが重なっている――。
「……紫乃」
湯気に包まれる白い背中に、声をかけた。びくり、とその肩が動く。細い腕に触れる。
「コウ、せんぱい……?」
「うん、そう」
顔も声も知らないその人を真似る。
紫乃が選んだ人だから、きっと、やさしくて、柔らかくて、紫乃のことを世界中のだれよりも愛していたと思うのだ。巧が真似できるのは、人聞きした彼の口調と、世界一紫乃を思うことくらいだ。
振り向こうとする目を覆う。火照った頬が掌に貼りついて、熱を滲ませる。
「先輩……?」
「ごめんね、紫乃。振り向かないで」
「振り向いたら、消えちゃうんですか……?」
ーーそうだね。それはきっと、彼も、……おれも。
目を閉じて、と囁くと、紫乃は子どもみたいにこくり、と頷いた。長い睫毛が下りて、瞼を伝った雫が載る。
湯気を纏った身体は、呼吸を忘れてしまいそうなくらい、綺麗だった。当然だと、思う。ずっと、夢にばかり見ていたのだ。ずっと、こうしたかった。
後ろから抱き締めるようにして、そこに手を伸ばす。今まで自分でしていたのであろう陰茎は、緩く勃ち上がっていた。できるだけやさしく触れて、やわやわと手を動かせば、甘い声で「先輩」と呼ばれた。
(……いいんだ)
今は、今だけは、おれはおれじゃなくていい。おれを見てくれなくて、いいから――。
確かな質量を感じるようになるまで扱いて、少し強めに先を擦ってやると、呆気ないほど早く、紫乃は精を放った。その濃さに、ずっとこういうことをしていなかったのだと知る。
臆測でしかない、紫乃の気持ちは、本人にしかわからない。しかし、たぶん、思う人を失って、思い出すのもつらくて、思い出すことすら受け入れられなくて、でも、ほかのだれかではだめで。そういう気持ちで、がんじがらめに絡めとられて、動けなくなっていたのではないかと思う。
どうしてきょう、紫乃は功一を思って、一人でしていたのだろう。巧に話したから、気持ちが溢れて、どうしようもなくなってしまったのだろうか。だとすれば、自分はこの人に、すごく苦しい思いを、させてしまった。
だったら、せめて、夢の中でくらい、あんたにあの人を返してあげたい。
紫乃に必要なのは、巧ではなく、あの人の、手。
このまま寝室に戻って、あしたの準備を終わらせて寝ようと思った。紫乃も、夢か想像だったのだと、一人で納得するだろう。手を放そうとして――手首を強く、握り締められた。驚くほど強く、縋るように、指が絡められる。
「紫、乃……?」
「……め、ないで……」
ぽつり、と、手の甲に雫が落ちてきた。直感的に、滴った湯ではなく、涙だと、悟った。
「やめないで……っ」
赤らんだ頬と震える手を見た瞬間に、まずい、と思った。
ここでやめないと、手を振り払わないと、ごめんねと告げないと、自分を止められなくなる。このままじゃ、宮司さんを、抱いてしまう。
頭ではわかっている。理性はまだ生きている。
それでも、泣きたくなるくらい、今、この人を抱き締めてあげたくて、「ここにいるよ」と言ってあげたくて、自分も下半身が苦しくてーー、視界に広がる光景に感情が先に立ってしまう。理性が、溶かされる。
もう一度、壊れものを扱うみたいに、濡れた紫乃のモノに触れる。安堵したように肩を預けてくる仕草が、いとおしくて堪らない。
精液を絡めて、双丘に指を這わせる。閉じているそこに、中指を立てる。湯で温まった秘部は思った以上に柔らかくて、軽く愛撫すれば簡単に指に吸いついた。指の先が中に入って、ゆっくりと力を込めれば、関節を一つ一つ飲み込んでいく。
「う、せん、ぱい……」
「ごめんね……、痛いよね」
紫乃が首を振る。ねだるみたいに手を添えられて、熱すぎる体温に、血液が沸騰しそうだった。
浴室に、二人分の呼吸と水音が響く。思考が緩怠になっていく。ゆっくりと指を埋めて、増やして、丁寧に慣らす。自分のしようとしていることの間違いに、気づけない振りをする。だって、彼の名前を呼んだら、確かに返ってくると、思ってしまうんだ、「巧くん」と、いつか、子どもみたいに舌っ足らずに、呼んで、そして、その手を、おれに重ねてくれるんじゃないかって、思ってしまうんだ。
熱を宛がうと、すんなりと先が入った。深い息を繰り返して、紫乃が受け入れてくれる。体勢がつらそうだったから、湯船に腕を導いてあげる。すると、いやいやと首を横に振られた。
「そうじゃ、なくて……、ちゃんと、顔見て、してください……」
「それは……」
「め……っ、目、ちゃんと閉じてますから、おれ」
だから……、と続いた声は、湯気のせいではなく、潤んでいた。呼吸の度に仄紅に染まる頰も、噛み締められた唇も、ぎゅっと閉じられた瞼も、ぜんぶ、巧が知らなかったものだ。
そうか、宮司さんは、功一さんの前では、こういう顔をしていたんだね。ああ、おれが、ほんとうに、功一さんになれたらよかったのに。ここにいるのが、おれじゃなければ、よかったのにね。
(ごめんね……、宮司さん)
言われた通りに、身体を向き合わせる。巧の腿に紫乃が跨る姿勢になる。腕を伸ばされたから、黙って首にまわしてあげた。互いの体温が寄り添う。
じわじわと腰を動かす。首に抱きつく力が強くなって、息が詰まりそうだった。紫乃の腰に手をかけて、緩い抽挿を繰り返し、感じる場所を探す。
「先輩……」
「うん……?」
「先輩は、いつもおれに気を遣ってばっかりですね」
「そう、かな」
そうですよ、と小さく笑われる。ああ、もう、そんな近くで、そんなかわいく、笑わないで。
巧が顔を熱くしているうちに、紫乃が首に強く抱きついた。耳元に、蕩けた声音が囁いてくる。
「先輩の……、すきにして、いいです」
ほんとう、先輩、一から十まで言わないと、わかってくれないんだから。おれ、恥ずかしいのに。
そう笑う宮司さんは、夢を見ている。だから、おれは、それを守るのだ。偽物でいい、宮司さんが一瞬でも幸せなら、それがいい。
(だから、お願いです。どうか、醒めないで……)
おれは一体、だれのために、願っているのだろう。
腰を突き上げる。紫乃の身体を、いっぱいに抱き締める。滑らかな背中に、掌を重ねる。どくり、と下腹に脈打ちを感じて、それと同時に締めつけられ、巧も達する。そっと自分のモノを引き抜くと、白濁が追うように零れた。
「紫乃……」
名前を呼ぶ。
涙と湯で濡れた瞼が、震えている。そっと頬に触れると、ねこみたいに、掌に擦り寄ってくれた。……夢で見たあの刹那と、同じだったんだ。
唇を重ねる。躊躇いがちに舌が入ってきたから、口唇を分けてこちらからも絡めた。熱い吐息が合わさる。一つも逃したくなくて、小さな頭を抱えるように掌で包む。白みがかった視界の中で、丸い額に濡れた髪が貼りついている。掻き上げると、どきりとするほど色めいて見えた。
後頭部を上向かせ、掌に収まる頭を引き寄せる。湿って柔らかな唇を覆う。熱い舌が、巧の舌を吸い上げる。顎をどちらのものともわからない唾液が伝う。
(……きだ)
唇が離れる。混じり合っていた舌が、銀の糸を引きながら二つに分かれる。下唇を彼の呼吸が撫でていく。
(あんたのことが、どうしようもないくらい……)
「宮司さん……」
――見開かれていく瞳に、心が壊れる音を聞いた。
「たくみ、くん……?」
呼ばれた瞬間、頭の中が真っ白になった。
「あ……」
どん、と胸を押される。紫乃の身体が、遠くなる。
無意識に、手が伸びていた。思い切り、振り払われた。乾いた音が、浴室に響く。拒否された掌が痛くて、指先が痙攣した。
「みや、じ、さ……」
「おれに触るな」
こちらに背を向けて、逃げるように湯船に寄って、身体を丸める。こちらのほうが、泣きたくなってしまうような声だった。まだ巧が手を伸ばしていると思っているのか、後ろを見ないまま、逃げ続けようと身体を小さくする。なにも、言えなかった。自分の震えなんか笑い飛ばしたくなる。紫乃の身体は、目に見えるくらいだったから。
「……てくれ」
声。機械みたいに平坦な声。
「出て行ってくれ」
「宮司さん……」
「お願いだ」
わかりましたと、返事をした。崩れそうになる足で、立ち上がった。
こうなることくらい、ちゃんと、わかっていた。わかっていた。
(――どうしよう)
胸が痛くて痛くて、痛くて……、息が、できない。
「宮司さん」
名前を呼ぶ。今度は、自分の声で呼んだ。
きっと、もう、あんたを呼ぶのも、これで最後だね。
それでも、もう、動きはじめてしまった心が、溢れて溢れて、止まらないんだ。あんたにとって、おれは必要ではないのかもしれないけれど、それでも、交わした口づけに、おれは確かにここにいたのだと、あんたを抱き締めていたのだと、あんたも手を重ねてくれていたのだと、そう思ったんだ。宮司さんにとっては、夢だったのかもしれないけれど、おれからしたら、ようやく手にした、温もりだったんだ。
ごめん。もう、言わずにいられない。
「あんたが、すきでした」
お世話になりました。そう絞り出して、身を翻した。
部屋に戻って、荷物をまとめてバッグに詰めた。荷物は、ここに来た日に持っていた大きなボストンバッグ一つだけだ。それだけ持てば、巧は完全にここから消えてしまう。
慣れ親しんだ鈴の音を聞いて、みやじ食堂を出た。いつの間にか、泣いていた。
ぽつり、ぽつりと、コンクリートの地面に模様が増えていく。街頭に照らされて、黒く染まる。
すぐに乾いて消えるだろうと思われたのに、それはいつまでも足元に残ったまま、初めて口にした告白の言葉のように、ずっと未練がましく滲んで、そこから離れてくれなかった。
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