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エピローグ

 ユリウスの生まれ故郷よりも少しだけ北にあるこのウェルナー辺境伯領は、冬にはほとんどの土地が雪に覆われる。寒さが厳しく、食料にも限りのあるこの時期を乗り越えると、ようやく人々は外の景色に目を向け、季節が一巡りしたことを神に感謝することができる。  昨年は子供が生まれたばかりで春の訪れを感じる余裕のなかったユリウスも、今年は、日々、緑のきらめきを露わにしていく木々に目を細め、子供の手を引き、雪割草を探して場内を散策したりしていた。  けれど、そんな穏やかな日々とも、しばしお別れになる。 「ユーリ。ほんっとうに一人で大丈夫か? やっぱり俺が一緒に行ったほうがいいんじゃないか?」 「ライニ様。昨日もその話をして、ちゃんと納得してくれたんじゃなかったんですか? 辺境伯が妻の護衛なんかのために大事な領地を空けるわけにはいきませんよね? フリッツさん達もいるから、大丈夫ですよ」 「そうそう。俺たちに任せてください。兵の中でも特に腕利きを集めていますから」 「それが一番心配なんだよ! こんな野獣のような奴らと一緒にユーリが旅をするなんて……」 「僕の心配より自分の心配をしてくださいよ。今日からヘルムートの寝かしつけは、ライニ様の仕事ですからね」  そう言ってユリウスは、抱っこしていた息子を無理やり夫に押し付けた。父親の大きな腕におさまった途端、それまでニコニコと機嫌がよかったヘルムートは、「うわーーーん」と大声で泣き始めた。 「こいつ。なんでいつも俺が抱くと泣くんだよ! おむつだって換えてやってるのに」 「やっぱり、『換えてやってる』って恩着せがましいところを敏感に感じ取るんじゃないですか?」  横から手を出し、フリッツが殿下からヘルムートを奪った。すると、ヘルムートは、再びキャッキャと笑い始める。  フリッツは結婚はまだだが、8人兄弟の長男で、子供の扱いには慣れているらしい。 「くそっ。やっぱりお前が残って子守りしろ! ユーリの護衛は俺が行く!」 「ライニ様。子供みたいなこと仰らないでください。いつまでもユーリ様が出発できませんよ」  最後は呆れたようにエレナが口を挟み、ヘルムートも預かってくれた。  ここ、ウェルナー辺境伯領は、前の領主が国からの離反を企てた罪で廃爵になり、それを阻止した功績で第3皇弟殿下であるラインハルトが、新たなウェルナー辺境伯に叙爵された。  そのため、ユリウスも無事に故郷で出産を終えた去年の春から、ここで暮らしている。  今回は都に行かねばならない用事があり、ここに来て初めて、子供を置いて都に行く予定にしているのだ。  ヘルムートは生まれたときから体が大きく、歩き始めるのも早くて、手がかからないほうだと思うが、それでも二週間近く傍にいられないのは、不安に思う。  一緒に都に連れて行くことも考えたけど、片道七日間の長旅は1歳児には無理だろうと思って諦めた。 「では、エレナさん、ヘルムートのこと、よろしくお願いします。ギルベルトさんは、薬草園のこと、よろしくお願いします」  エレナと一緒にここに来た夫のギルベルトは、今はユリウスの薬草栽培を手伝ってくれている。 「ユーリ。もし、お前に難癖をつける貴族がいたら、名前を控えておけ。あとで刺客を送ってやる」 「ちょっと、ライニ様が言うと冗談にならないから、やめてください!」    ユリウスが今回都に行くのは、宮廷議会に陳情書を提出するためだ。提出するだけでなく、議会での発言の機会も与えられている。  陳情書の内容は、選定の儀の廃止と、それに伴うオメガに対する公助を要望したものだ。  平民のオメガにだけ結婚の自由がないのはおかしい。  その思いで、この二年間、国中の色んな立場の人達と手紙のやりとりをし、支援者を増やしてきた。  全部、『ユーリのやりたいようにやったらいい』と殿下が背中を押してくれたお陰だ。  本当は去年の選定の儀に間に合わせたかったけど、去年は出産と重なって都に行くことができなかったため陳情書のみ送ったら、議題に上がることすらなかったらしい。  エイギルは他の貴族に働きかけてくれたし、皇帝陛下の妾となった、元のウェルナー辺境伯の娘であるカレンは、宮廷内の他の妾の意見を取りまとめてくれた。  そういった人達の助けもあって、今年は議会での発言の機会もいただけることになった。  ユリウスはヘルムートの頬にキスをし、ラインハルトとも、少し長めのキスをして、赤くなった顔で馬車に乗り込んだ。  護衛の兵たちも若き領主に敬礼し、馬に跨る。    見送りに出てきたのは、家族や近しい人達だけじゃなかった。  この城で働くたくさんの兵士や使用人たちが、城の正面の入り口から城門に向かって、ずらりと並んでいた。   「ユーリ様、頑張って!」 「応援しています!」  皆、口々に応援の言葉を送ってくれる。  この城には、ユリウスのことを『辺境伯夫人』と呼ぶ人は一人もいない。皆、名前で呼んでくれる。  たかだか陳情書を提出しに行くだけなのに、まるで魔物退治に行く勇者のように扱われるのは、気恥ずかしくもあったが、嬉しくもあった。  この一年、殿下と相談しながら、城で働く人たちの負担を減らし、効率よく同じ成果が得られるように、試行錯誤してきた。  その変革が、実際に働いている人達に歓迎されているのかもしれないと思うと。  ユリウスは小窓から顔を出し、見送りの人達の姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。  早春の風は肌寒かったが、窓はしばらく開けたままにしておいた。  主のもとから逃げ出し、血の繋がらない子を抱え、かつての恋人を頼って母が歩いた道。そう思ったら、流れる景色をもうしばらく見ていたくなった。  全ての人達が、誰かと恋をして、愛し合って、愛する者同士で結婚できる世の中になればいい。  それは今のユリウスにとって、願いではなく目標であった。

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