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第8話 危機一髪

 そう言いつつも立ち上がろうとしたが、その前にホクトがギリギリ走っていない速度で戻ってきた。 「すごい汗のにおいがしたので、適当な服を持ってきたっす」 「あら。気が利くね。ありがとう。ねぇオキン。この子、頂戴よ」 「だからヒトを雇えと言っているだろうが。あと、ホクトはまだ嫁に出す気はない」  なにかおかしい単語が聞こえた気がして、着替えを持ったままホクトは絶句した。 「え?」  その後ろから、ミナミは普通に走ってやってきた。 「キミカゲ様。お湯の温度は? とりあえず二百度にはしたのですが。もうちょい上げますかー?」  キミカゲは耳を疑った。 「ん? な、何言ってる? 何言っているの?」  外部から圧力をかければ水は百度以上にはなるが、この家に圧力鍋などない。  というか、どれだけ高温のお湯を要求されたと思っているのだろうか。汗で冷えたフリーの身体を、お湯で温めた手ぬぐいで拭いてやろうと思ったのだ。そんな高温に手を突っ込んだらキミカゲが大やけどをする。 「あ! もしかして竜基準で物言ってる? 駄目だよ彼らは温泉とマグマの区別がついていない変態種族なんだから」 「伯父貴?」 「手を入れて、ちょっと熱いなーと感じるぐらいで……ああああ、ちょっと待って今のナシ」  海の民の子どもは陸の民の手の温度で「熱ィ!」と感じるほど繊細なのだ。  そんな子が「手を入れて熱いな」と感じる温度など、かなり低いだろう。ミナミは子どもではなく成体なので、もう陸の民の手の温度くらいで火傷はしない。だが、極寒の海出身者だ。下手をすると氷水を持ってきかねない。  ホクトは「あっしがやればよかった」と言いたげにため息をつくと、ミナミに着替えを押し付ける。 「お湯はあっしが用意するから、お前は嘔吐物の処理をしろ。……ていうか、どうやって二百度にしたんだ。炊事場に行くの怖いんだけどっ。炊事場炎上させてないだろうな?」  小声で怒鳴りながら炊事場へ向かう。ミナミに対しては口調が変わるようだが、ミナミはそのことがたいそう不満だった。 「ぶー」  頬を膨らませ袖をまくると、嫌な顔一つせず酸いにおいのする水を拭っていく。オキンの教育の賜物だろうか。 「……さん。キミカゲ、さ……」  甥っ子の成長に目頭を熱くさせていると、フリーが何か言った気がした。  汗だくの顔を覗き込む。フリーの目は焦点が合っておらず、何かを探すように手探りで畳を触っている。あまりの目まいに天地左右の区別がつかなくなっているのだろう。彼は座っているつもりだったのだが、実際には床に伏していた。 「キミカゲさ、ん。どこ……?」  哀しそうに微笑むと、翁はそっと胃液で汚れた手を握る。 「私はここだよ」 「僕もいるぞ!」  必死で存在をアピールするニケが可愛い。  思わずくすりと微笑むと、もう片方の手がキミカゲの腕を掴んだ。白衣の上から腕の肉に、五指が獣の顎の如く喰らいつく。痛いほどの力にキミカゲの表情が一瞬、苦痛に歪む。 「うっ」 「フリー?」  彼らしからぬ行動に、ニケは白い肩に手を添える。力づくで引き剥がそうとしたのだ。 「いた……い。痛い! 頭が、いたいっ。くすりを……ください」  ニケの手から力が抜ける。下半身を引きずり翁に縋りつく彼に、強引な真似はできなかった。  薬師はふるふると首を振る。 「あちゃー。薬が切れちゃったか。ごめんね? もうちょっと我慢してね?」 「どう、して……?」 「ちょっときつい薬だから、一度飲んだら四時間は間を空けないといけないんだ。四時間経っていないのに連続して飲むと、身体に悪影響が、あ、うわっ!」  突如、フリーはカッと目を見開くと、キミカゲの首を掴み床に押し倒した。  頭部と床がぶつかる音が響き、眼鏡が畳に落ちる。 「フリー!」 「キミカゲ様!」  顔色を変えたニケとミナミがフリーを羽交い絞めにする。身体強化を使っていない人間なら、簡単に引き剥がせる。と、ニケが思った時だった。  ――バチィ! 「ぎゃあっ」  黒い閃光がフリーから迸り、ミナミを弾き飛ばす。 「ミナミさん!」  ニケが駆け寄るが、壁に背をぶつけたミナミはぐったりと動かない。 「そんなっ」  ニケが絶望の声を上げるが、フリーはまだ動いていた。のし掛かったまま、ぐいぐいと細い首を絞めつけていく。キミカゲが胸を叩いて押しのけようとしても、男の体重を跳ね返すことは出来なかった。 「早く、くすり。くすりィ……っ!」  キミカゲを見下ろす瞳に、理性の色はない。苦しみから必死に逃れようと蜘蛛の糸に手を伸ばす、貪婪な光だけがあった。  爪が食い込んでいるのか、首から血がこぼれだす。 「う、うぅ……」 「フリー。やめろっ!」 「こいつぁ、いけねぇ」  オキンが駆け寄ってくる。そんな場合ではないのに、ニケは竜への恐怖で呼吸が出来なくなった。  竜はフリーに襲い掛かろうとした。いけ好かない妖怪ジジイだが、彼に何かあれば母が悲しむ。この白いのが何者かは知らぬが、身内の安全を優先させてもらおう。  殺意を持ってフリーの頭へと腕を伸ばした。……のだが、キミカゲとまともに目が合った。 「来るな!」 「っ」  首を絞められている最中とは思えない、身を刺すような鋭い声。  オキンは従うか攻撃するか迷った。  ――いや。後悔はしたくない!  躊躇ったのは、ほんの一瞬にも満たない時間。オキンの握力は、金剛石を真綿のように握りつぶす。  どんな種族でも――例外はあるが――頭を潰せば動かなくなる。 「死ねぃ!」 「やめて!」  冷や汗を流してキミカゲが叫ぶ。母の兄ということもあって、キミカゲも子どもが好きだ。……殺されかけているのに、庇おうとしてしまうほど。  キミカゲは咄嗟に盾になろうとしたが、竜の方が何倍も素早かった。  竜の手がフリーの頭を――  すかっ 「ん?」  空振りした。  気を失ったらしい。目を閉じたフリーが、ぽてっとキミカゲの胸の上に倒れ込む。キミカゲは反射的にその子を抱きしめた。……間一髪だった。  着物越しでも伝わるほど、フリーの身体は熱を発している。 「……」  オキンは空を斬った己の手のひらを見つめた。白い毛が数本、絡みついている。見下ろすと、白いのは当分動き出しそうになかった。 「ふん」  ジジイの目の前で子どもを殺すことにならずに済んで、オキンは密かにホッとした。  するともう、今の出来事など忘れた顔で、すたすたとミナミの側へと歩いていく。 「キミカゲ様。お湯の準備が出来たっす――何かありましたっ?」  ひょいと顔を出したホクトが素っ頓狂な悲鳴を上げる。  思わず手放したお湯入りの桶が足の甲の上に落ち、ホクトは蹲るように倒れた。 「あああああ。いっでえええええ!」 「……」  なんか一人でやかましい彼に、ニケは冷静さを取り戻す。キミカゲも若干呆れたような目つきになる。汗で張り付いた前髪を払うこともせず、ニケに向かって手を伸ばした。

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