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第46話 吹雪行進
山に吹く風は時折不気味な声のように聞こえる。それは弱い心が勝手により恐ろしいものへと変換するせいだ。
月の光さえ凍てつくと言われるこの凍光山(とうこうざん)は常に冬に閉ざされ、雪の降らない日などほとんどない。まれに青空が顔を見せても、天井のように広がった木々の枝葉で、顔を上げてもため息しか出ないという有り様だ。陽の光など、まず射し込まない。
樹上に積もった雪が、時折シャワーのように舞い落ちる。
そんな山中を、幼子は青年と二人で歩いていた。
「シキブのこと、どこで知ったんだ?」
「へ?」
風の音で、声が吹き消される。だからといって大声を出すのは危険行為なので、ニケは歩幅を緩めてフリーの隣に並ぶ。
「シキブのことだ」
「ああ、それなら雪崩村のヒトが乾燥させていたのを見たことがあるから。……楽しそうにおしゃべりしながら作業していたよ」
面白い話が聞けなくて、ニケはつまらなさそうに息を吐く。風向きが変わり、吹雪が斜め上からではなく真横に吹きつけてくる。ニケやフリーの着物を大きくはためかせた。
「うっひいいぃ! さむいっ」
「大声を出すな。いらん魔獣を引き寄せることになる」
「うう~。ニケを抱っこしたいよおおぉ」
僕だって抱っこされたいわ、と視線で返し雪で転びそうになるフリーをもはや引きずる形で進んでいく。ソリに積んだ方が早かったかもしれん。そう思いつつ、ニケは足を止める。
「ここだ」
「え?」
「お前さんが落ちていた場所」
ニケが指さすその向こうに、大きな崖がある。確かに自分は高所から落ちたような記憶があった。
「ここが……?」
「ああ。ではここからは先頭交代だ。お前さんの記憶を頼りに雪崩村へ行こう」
雪崩村は二百メートルよりは下にあったから、この崖を上る必要はない。さ迷っているうちに山を登っていたのだろう。
フリーは幽鬼のような重い足取りで動き出す。
彼が先導して数分。フリーは一言も話さなくなった。疲弊しているだけか、それとも嫌な記憶を思い出しているのか。
ここからはニケも未知の領域だ。足を踏み入れたことがない。そのためより一層警戒せねばならず、フリーのことばかり気にかけている余裕はなかった。
時間の感覚がなくなりそうな白黒の世界。薄暗い道。そんな中、ニケの目が天然の洞を見つけた。老大木の根元にあるうつろな穴。詰めこめば二人は入りそうである。
ニケは縄を引っ張り、フリーに知らせる。
「おい。あそこで少し休憩しよう」
「え? なにかある?」
フリーの視力では森と吹雪に隠れた洞を探し出せないようだ。ニケが先導して連れて行く。
「………」
そろーっと中を覗く。クマや魔獣が寝転んでいることもなく無人だった。
二人は顔を見合わせ、そそくさと中へお邪魔する。常に鼓膜を叩いていた風の音が遮られ、頭が楽になる。麻痺していたようだが、風の音というのはなかなかにやかましい。
笠だけを外し、ニケは鞄から水筒を取り出す。
「飲め。それと軽く、なんでもいいから口に入れろ。食べないと体温が下がる一方だぞ」
「う、うん」
キミカゲがくれたせんべいをばりばりっと齧り、お湯だった水で流し込む。隣ではなく膝の上に陣取ったニケも薄い木の皮のようなものを親の仇の如く齧っている。
「ニケのそれもせんべい?」
「干し肉」
お肉か。どんな味なのか興味が湧いた。
「一口もらってもいい?」
「やめとけ。赤犬族用のものを買ったから、お前さんでは歯が折れるぞ」
「そっかぁ」
しばし吹雪を眺めながらの食事。雪は一向に止む気配を見せず、それどころか威力を増しているようである。
(……)
ふと違和感を覚え、自分の腕をわずかに動かしてみる。
手足がずっしりと重い。自分で感じる以上に疲弊していたようだ。ニケが休憩を提案してくれて助かった。流石はここの住人である。
手持ちのせんべいをすべて胃に流しこんだフリーは、ニケの小さな身体を抱きしめた。ぎゅっとしたかったが力が入りにくい。
「寒いか?」
「いや。ぎゅってしたくなっただけです」
「あっそ」
残りの干し肉を口内に押し込むと、すりすりと胸板に顔を擦りつけ大きく息を吸った。
――フリーのにおいがする……。
吹雪の音。二人きりの空間。どっと眠気が押し寄せてくる。こやつは眠気を誘うなにかでも発しているのか。不眠症患者に貸し出せば喜ばれそうだ。まあ、貸し出したりしないが。
寝ている場合ではないのでニケはすぐに頬を自分で引っ張った。
「むぎゅううっ」
自分の頬を伸ばす幼子。可愛い以外の言葉が見つからずフリーは目を見開く。
「ニケ? なんでそんな可愛いことをするの? 理性飛ぶよ?」
「飛ばすな、戻せ。ちょっと眠気を追い払っとっただけだ」
「いてえ、いてえ」
ぺちぺちとフリーの顔を叩き、腕を組んで踏ん反り返る。
「なんで俺の顔も叩くんですか?」
「ついでにお前さんの眠気も払ってやったのだ。感謝しろ」
「え? あ、ありがとうございます……」
俺は眠くなかったんだけど、という言葉は呑み込んでおいた。
休憩を終え、再び吹雪。平坦な道を見つけるのも一苦労になってきた。登っているのか下っているのかさえ、曖昧になってくる。
「か、風で前が見えなっ」
口を開けると雪風が入ってくる。髪は邪魔なので着物内に押し込んだ。
道も険しく、とても歩けるような状況ではない。そもそも吹雪の中を進むなど自殺行為である。そんな中でもニケにはまだ余裕があるらしい。仁王立ちで平然と周囲を窺っている。
「ニケ。魔九来来(ちから)使っていいかな?」
たまらず振り向きながら言うと、ニケは呆れたような驚いたような表情を見せた。
「はあ? なんか魔獣でも出たんか?」
「俺が、限界です!」
氷点下。道なき道。強風で呼吸もしづらく、人間の行動限界ぎりぎりの領域。ニケは逡巡する素振りを見せたが、鼻水が凍り顔色が最悪のフリーを見てすぐに頷いた。
「いいだろう。その代わり、身体強化が切れたお前さんは普段より転びやすくなるから、力が切れる前に村にたどり着けよ」
「分かった。……走れ!」
反射手に耳を押さえるニケの眼前で黒い雷が落ちる。朦々たる雪煙を裂くようにして金緑の目が輝くと、伸びてきた手がニケを掬いあげた。
「むお?」
驚くニケに構うことなく地を蹴ると、別人の如く木立の間を駆ける。ぐんと加速し、凍るような山の中にあっても枯れることはない木々の枝から枝へ。幼子を背負い、バッタを思わせる颯爽たる移動。数秒前まで土に還りかけの幽鬼みたいだったと、誰が信じよう。
「おお」
肩に掴まっているだけで、後ろへ後ろへと景色が流れていく。ニケは興奮気味に――それでも警戒は怠らず――目を輝かす。こやつに乗っていると目線も高くなるし、やっぱ面白い。
白い毛並みの動物の脇を通り抜ける。
『きゅ?』
食事中だった雪羽馬(ゆきばば)――馬型の魔獣で争いを好まない――が目を向けるが、すでに足跡しか残っていない。気にした様子もなく、母馬はじゃれ合う生まれたばかりの我が子たちを見つめる。そんな母親にせっせと食べ物を運ぶのは、ひと際大きい雄の馬だった。
『きゅきゅ』
愛おしそうに自分の番(つがい)の顔を舐めると、また餌調達に戻っていく。もうちょっと嫁や我が子と触れ合っていたかったが雄には仕事がある。なんせ彼女にはまだまだ自分の子を身ごもってもらわねばならぬのだ。ぜえぜえ。どれだけ疲れようと機嫌を損ねないよう愛し、餌を運ばねばならない。それといらん雄が近寄らないよう、縄張りの強化も必須だ。ぜえぜえ。
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