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それが僕のブルーラベルでした
父親が音楽プロデューサーで、母親が売れない女優だったホールデンの家には、沢山の嗜好品があった。食べ物ではなく、心の滋養という奴だ。天井まで伸びる棚には本が、レコードがぎっしり。別の壁には名のある者から新進気鋭の作品まで絵が入れ替わり立ち替わり。母はピザでも頼む感覚で画商や競売人とやり取りし、「アート」を家に運び込ませていた。
触れる機会は幾らでもあったのに、ホールデンと言えば海岸でビーチバレーをしたりサーフボードへ乗るのに夢中で、美術書の一冊も開いてみることすらしなかった。
今思えば、何て勿体無い事をしたのだろう。父が脱税で投獄される前に、一冊位持ち出せば良かった──いや、夜中に2トントラックへ積み込ませた荷物の中には間違いなくあったが、居場所を転々とする間に全部売り払ってしまった。今でもピコ大通りにある古本屋では、なめらかな赤い革で装丁された美しいジョルジュ・ルオーの画集が、埃を被っているのだろうか。
魚介の甘ったるい磯臭さと、パプリカと玉ねぎの香ばしさがふつふつと鍋から吹き上がってくる。温かい料理が醸す安心感も、過ぎれば胸焼けの元にしかならない。
そうでなくても大柄なホールデンにとって、このキッチンは小さ過ぎた。二口コンロと電子レンジと冷蔵庫を運び込めば、後はコーヒーメーカーを置けるかどうか。おまけに下手な開き方をすると、蝶番が緩い上の棚は鍋や皿を雨霰と頭上へ降らせてくる。1人入れば次の1人が入ることは到底出来ない。
マリブの海岸沿いにあるこの単身用コンドを借りてやった時、ノリスは愛人が料理することを前提にしていなかった。実際、当時のホールデンはオムレツ1つまともに作れないような有様だったから。
だが3年も経てば少しは覚える。特に集団オーディションへもお呼びがかからなくなったここ半年となると、毎日一度は必ず自炊していた。外食は金がかかるし、一緒に食いに行く友人も少なくなったとなれば虚しさは嫌でも増す。マクドナルドの窓際席で独りハンバーガーを齧っている時、他人がこちらを見てひそひそと嘲笑する妄想へ駆られるようになったら人間、お終いだ──それに近い段階まで、今のホールデンは到達しつつあった。
尤も、自炊にだって幾らか難点があると気づいたのは、自ら包丁を握るようになってからのことだった。とにかく、一度に1人で完食するのが難しいのだ。ジムへ通って定期的に運動しているとは言え、30間近の肉体はそろそろ基礎代謝を落とし始めている。毎日ストレス性の過食を続けていたら、あっという間に腹が醜く出っ張ってくるだろう。そうなれば、ノリスは呆気なくとうの立った男を放り出すかもしれない。ただでも彼が部屋を訪れる回数は良くて週に一度、それですら時には空間を商談に用いるのみで、住居者へのファックは無しという頻度へ減っていた。これは寧ろ有難い話だったが。
彼の興味が別の人間に移ったのは構わない。こんなの仕事だと、初めて他人に金を貰って服を脱いだ時からずっと思っていた。そう割り切らなければ、とてもやっていけないのだ。己が弱い人間だと、ホールデンは熟知していた。降りてきたロープへ後先考えずにしがみつくし、とにかく期待してしまうのだ。それも酷く受動的に。
だからこそ、ブザーが5回、6回と鳴らされた時、飛び上がりつつも鏡で寝癖を確認してしまう。身につけた、よれよれのTシャツと擦りきれそうなハーフパンツに赤面し、着替えようかと迷ったが、待たせて留守だと思われたくないので、結局小走りに玄関へ向かう──前に、落ち着く為、トロピカーナの100%オレンジジュースをパックから一口。
両手一杯にスーツカバーを抱えたダリオは、出迎えたホールデンを見上げ、にっこりと笑みを浮かべた。この笑顔を見ると、ホールデンはいつでも何か話すことを促されているような気分になる。彼がどんな話題でも聞いてくれると知っているから、余計にそう思うのかも知れない。
実際は、はにかみを伴う含羞で胸がいっぱいになり、「入って」とぶっきらぼうな物言いしか到底できなくなるのだか。
コンドから車で15分、図書館裏にあるクリーニング店は、近郊住民の御用達。どんな高級なオートクチュールの衣服についた、どんなえげつない染みも綺麗に落としてくれることで有名だった。
そこで配達の仕事をしているダリオはホールデンより数歳年上、だと思う。恐らくは不法移民。とても自然な英語を話すけれど。
客の前で余計なお喋りの首を突っ込み過ぎると、癇癪を起こしたノリスへ、愛飲するカベルネを頭から浴びせられることで台無しになった自らのヴェルサーチ。そして持ち越された不機嫌の証である点々と血の飛んだリネンのシーツを回収しにきた彼は、一枚一枚預入品を数えながら、臆面もなく言ってのけた。
「それも持ってきますよ。彼女さん、生理にでもなったんですか?」
自らの羽織るバスローブの尻が赤く染まっていると気付いたのは、彼に指さされてからのこと。傷付いたアナルの出血よりも赤くなりながら、その時は猛烈に腹を立てたけれど、何度か喋るうちに不思議と親しみが湧くようになった。セックスを誘ったのはこちらからか、向こうだったか。取り敢えず、ノリスが仲直りの花を送りつけてくる頃、2人はもうすっかり出来ていた。
積極的に日光浴をしないとすぐなまっ白くなるホールデンと違い、浅黒い肌のダリオは、その黄色っぽいブロンドに染めた髪と相まって、遠目からでも目立つ。涼やかな瞳で流し目を送られたら、男も女も簡単に陥落するだろう。これまでもこうやってお客さんを食ってきたのか、と尋ねれば、そんな軽い男じゃないと呆れられた。ホールデンも信じるようにしている。次はない、もう失望するのは耐えられない、と言ってのけた時に、ダリオが真面目な顔で頷いて見せたから。
わざと換気扇を回していなかった効果は覿面、匂いは抜け目なく嗅ぎ当てられた。いつ来るか分からない主人のスーツを受け取り、タグを確認しているホールデンの傍らを通り過ぎ、ダリオの足はキッチンへ向かう。そのまま流れるようにフライパンの中を覗き込もうとするものだから「米に芯が残る!」と思わずホールデンは声を張り上げた。
古いコメディ俳優みたいに飛び上がったダリオは、結局そのまま大袈裟な仕草で腰を曲げ、自らと同じく大粒の汗を掻いたガラスの蓋へ顔を近づける。ふん、と鼻をぴくつかせながら、何とも偉そうに言ってのける同じ口調をノリスが作ろうものなら、途端に醒めていただろう。
「トマトの匂いがしない。ケイジャン風じゃないな」
「君はそっちの方が好きだろう」
そう返せば素直に相好を崩し「俺の為?」と宣う。立ち所に背後からじゃれついてくる男の、項へ落とす唇の温度にぶるりと身を震わせ、俯くという仕草が、嫌がっているように思われなきゃ良いんだけど、とホールデンは少し不安になる。だから「そうだよ」と正直に頷きながらの口調は弱々しげになるし、ダリオも「ホーリー?」と小首を傾げた。シャツから覗く、首の付け根へ顎髭が擦れて擽ったい。また背筋がぞくっとなる。脊柱を通って尾骶骨からぴょんと、後孔に伝播する刺激。肉の狭間できゅんと強く窄まる感触は更に体の前面へ周り、下腹まで響くようだ。
我ながら情けなくなった。そうでなくても内臓で感じるのが下手な性質のホールデンは、この家の持ち主とやる時そこにものを突っ込まれ、気持ちよくなったことなど数えるほどしか無い。なのにダリオが触れるだけで、こんなにもやりたくて堪らなくなる。
壁掛け時計を確認し、それから「コンロのタイマー、何分になってた?」と尋ねるときは、声が掠れてしまう。
「見てなかったけど……多分、20分? 30分は無かったくらい」
「じゃあ、いけるな」
「俺、そんな早漏じゃないよ」
笑うダリオに、ホールデンはノリス曰く「不器用すぎて滑稽すぎて、いっそ可哀想になってムラつく」と称される、精一杯の媚で顔を染めた。
「でも、僕が気持ちよくなるには十分だ」
こちらは全く天然物の、柔らかい伏目の奥で、ブランデー色の瞳がきらりと細やかな輝きを帯びる。
「我儘だなあ、ホーリーは」
その口ぶりが、まるで絹のように柔らかく耳をくるみ込み、世界の全てを遮断してしまうものだから、「何とでも言えよ」との呟きが喉の奥で絡む。勿論、ダリオは最初からお見通しだ。ふる、と小さく振られた尻を、まるでさりげなくぽんぽんと叩いてから、今にも震え出しそうな腰に腕を回す。
「俺はあんたを食べる。あんたはジャンバラヤを食べる。食物連鎖だな」
「馬鹿。君も飯は食うだろう」
本当は今すぐにでも、あのフライパンへ直接スプーンを突っ込んで食らいたい癖に。細っこい見かけに反比例して、この男は大食漢なのだ。
もう既に好みの作り方の料理と、本当は猫のように感度の良い肉体へ思いを馳せているのだろう。突き飛ばすようにして寝室の扉を閉める時、ダリオの手つきはいつになく性急だった。
結局、ホールデンに一度口と手でやらせた後、ダリオは奉仕へ徹した。手でペニスを扱き、そのまま汚れた指を差し入れアナルの弱いところをひたすらマッサージ。ホールデンが快感で全力疾走したかの如く脱力している間に、ダリオはとっととジーンズへ足を通し、寝室を出ていく。キッチンで上げられた歓声は幾らなんでも芝居掛かっているが、ホールデンを思わず笑ませるには十分事足りた。
「凄く美味そう」
誇らしさはしかし、枕へ顔を擦り付けた瞬間一気に現実に引き戻される。数日前に零されたワインはリネンの上で染みになり、火照り敏感になった頬へ微かに固さのようなものを感じ取らせる。
とっとと引き剥がし、次にダリオが来たら持って帰って貰おうと思っていたのに、すっかり忘れていた──嘘だ、面倒になって、ずっと放ったらかしにしていた。問題を何でも先延ばしにしてしまう生来の癖は、ここのところ取り返しのつかない段階まで深化している。
ドアが開き、覗く顔の上機嫌さに、全身が総毛立ったような不快さと息苦しさを覚える。思わずシーツを頭から被ろうとしたのを、事後の可愛らしい羞恥だと勘違いしたのだろう。ダリオはニコニコしたまま、「どれくらい食う?」と尋ねる。
「食べたくない……今はいい」
「何だそれ。俺のテクニックですっかり疲労困憊とか?」
「というか、この家じゃ嫌だ……外行こうぜ。ピクニックしよう、車出してくれよ」
「ピクニック? ジャンバラヤ持って?」
そう言うのって普通サンドイッチとかフライドチキンとかじゃないのか、と首を捻りながらも、ダリオはベッドへ放り出していたアロハシャツを引っ掴んだ。狭いキッチンでがさごそ、準備を整えてくれているのだろう。
完了するまでにこちらも出かけられるようになっていないと。重い肢体を無理やり動かし、ホールデンはベッドから床へ足を下ろした。これがノリスのお帰りならば、例え懇願されても、見送りになど絶対に行かないだろうに。
ダリオという男が案外形式に拘るのだとは、この半年ほどの逢瀬で気付いていた。どこにあったのかホールデンですら知らない、ささくれたバスケットケースを見つけ出してきて、タッパー2つに詰めた米と、ウィルキンソンの炭酸水に、先ほどホールデンが飲んでいたオレンジジュース、最後にまだ封を切っていないジョニー・ウォーカーのブルーラベルを押し込む。
車はノリスに買い与えられた、BMWの3シリーズ、最新世代。歩いていける範囲の場所へ2人で出かけることはあったが、遠出するのは今までなかったことに今更気付く。
逃避行と言っても、青いセダンで20分の道のり。パシフィック・コースト・ハイウェイには乗らず、下道を走って東へ向かう。近隣住民も観光客もいない、静かな場所へ。
勿論、人がいないのにはそれなりの理由がある。入江の潮溜まりは濁ってあぶく混じりの渦を巻き、気をつけないと昨晩の名残のコンドームや、使用済みの注射針を踏むかもしれない。
が、少なくとも、金持ち住宅街では下層階級の者ですら、それなりの品格を保つ。いい服を身につけたホームレスも、春休み以来ずっと居着いている学生崩れも、皆周囲など上品に無視をする。寄せては返す漣の音に耳をすませ、ある者はぼんやりとベンチに座り込み、ある者は砂浜に寝そべってトリップを愉しんでいた。
既に昼下がりへ差し掛かり、薄く棚引く雲の向こうでは淡い橙と紫の入り混じったような空が、太陽を包み込んでいる。満ちる光と同じく、誰もが薄ぼんやりとした心の中の世界へ浸っていた。天を舞うカモメですらも、殊更リラックスし、ふわふわ滑空しているように見える。
砂浜に毛玉だらけのブランケットを敷くと、2人はバスケットケースを開けた。蓋に汗を掻いているものの、保温容器はまだ十分温かい。隠し味で入れた蟹の味噌の生臭さが少し鼻に突くけれど、美味い美味いとダリオはもりもり平らげていく。彼のタッパーには具が多く、ホールデンのものには米が多い。ちゃんと好みを覚えていてくれている。こんな些細な気回しをされるたびに、ホールデンはいつも心の隅に、小さな不安が膨らむの感じる。
「今日はマクダノンさん、来ないんだろう」
「多分ね。分からないよ、あの人気まぐれだから」
そう口にしてから、ホールデンは「別にどうでもいい」と付け足した。
「もし来たとしても、友達と外食してたっていうし」
「まあ嘘はついてないな」
嘘だよ、だって友達じゃないのに。そう言い返すことが出来ず、ホールデンはわしわしとスプーンを口に押し込んだ。自惚れる訳ではないが、今日のジャンバラヤは上出来だ。甘いパプリカと芳醇なシーフードの出汁が、コンソメに絡み合い、程よい硬さのライスにじっくりとした香味を与える。舌はおろか、胃にまでも染み込むかのようだった。先程はごねたが、実のところ酷く腹が減っている。
「友達か。この街へ来るまで、誰かと親しくなることが、こんなに難しいとは思わなかったよ」
タッパーへ屈み込むことで垂れ下がる髪を掻き上げながら、ダリオは言った。
「ここじゃ何でもかんでも細かく区切って、ややこしくしちまう」
「みんなパパラッチに追い回されてるような人間ばかりだから、孤独が欲しいのさ」
区切られた独房が息苦しくて堪らないのに、パパラッチに追い回される栄光などついぞ掴めなかったのに、そう嘯く己が、ホールデンは嫌で仕方なかった。
「君、この街に住んでるんじゃないだろう」
「ああ、ブレンウッド」
「君はいつも僕のところへ来るのに、僕は君のところへ行ったことがない」
ぼやく口調に、どう言うわけかダリオは本気で驚いたような顔をした。
「俺のところに来たいってのか」
「悪いか?」
「悪いというか……金持ちが来ても楽しくない場所だと思うけどな」
そう口にされ、別にホールデンは表情を何も変えていないのに、眼前の眉尻は益々下がる。
「ごめん。あんたのこれまでを知りもしないのに、偉そうなこと言った」
「いや」
謝罪されたところで、己達はまだそんな話もしたことがないような関係でしかないのかと、悲しくなるだけだった。
話題にせずとも、滲み出るものがあるのかも知れない。ノリスも「どれだけ凋落しても、その抜けきれないお坊ちゃん然としたところが可愛らしい」と言っていたし。
ダリオがホールデンの生育を朧げに察しているように、ホールデンもダリオがこれまでどんな環境にいたかを薄らと読むことは可能だった。絶対に自分で付けたのではない、腕中の剃刀傷。胸元に刻まれた特徴的なタトゥー。ここから車だと1時間も掛からないドルビー・シアターで、今年話題になったホロコーストの映画について話題を振っても、怪訝そうに顰められる眉。そもそもつい最近まで、ガザがアフガニスタンだと思っていたそうだし。
「別に、育ちなんて……もう僕は、堕ちるところまで堕ちてる」
「そうかな。小綺麗な家に住んで、食うものに困らない生活してるし、良いじゃんか」
「でも……」
「あのチビ親父のことなんか忘れちまえよ」
ぷしゅりと炭酸の抜ける威勢のいい音が、その場の空気を無理やり変える。自らで一気に三分の一ほど炭酸水を飲み下し、次の三分の一は砂浜へ流してしまう。出来上がったペットボトルの空白に、ダリオはオレンジジュースとウイスキーを注ぎ込んだ。蓋を閉め、軽く上下に撹拌して差し出された即席のオレンジ・ハイボールを、潮と熱気に乾燥した二の腕へ押し付けられ、ホールデンは愛撫でも施されたように、ぶるりと身を震わせた。
「君は飲まないの」
「禁酒してる」
「嘘だろ、いつから?」
「もう3年くらいになるかな……一緒に飯食ってる時でも、飲んでたことないだろ」
一体自らは、もう何度目の前の男と食事を共にしたのだ。2人でくつろいで、そして身も心も預け合ったのだ。
愕然とするホールデンを、けれどダリオは易々と笑い飛ばす。
「あんたのそういうおっちょこちょいなところ、俺、凄く好きだな」
「これはおっちょこちょいじゃないよ……」
自己憐憫に満ちた泣き言を吐くばかりで、他人のことなんか何にも気にかけていない。堕ちたのがどうした、結局自業自得じゃないか。甘ったれのお坊ちゃんが、辿るべくして辿った道。
がんがんと頭の中で鳴り響く嘲笑に、今にもべそを掻きそうな前兆、歪んだホールデンの頬にそっと手のひらで触れ、ダリオは益々笑みを深めた。
「いいから飲めって」
「飲みたくない。君の前で飲むなんて……」
「別に俺は欲しくならないよ。何せもう禁酒会の3年バッジだぜ……飲んだら気分も楽になるさ」
酒断ちしてる君がそれを言うなんて、無茶苦茶だ。思わず反論しようとした唇は、唇で塞がれる。殻を叩き割られた蟹の残穢、生臭いキス。
胸を血が出るまで掻き毟りたくなる焦燥と、相手の舌を切り落としてしまうまで歯噛みしたいという衝動、両側から引き裂くような衝動に突き動かされ、ホールデンは顔を背けた。カクテルは一気に喉へと流し込む。彼から与えられた物、最初から自らの口の中にあった物、両方が、焼けるようなアルコールとオレンジの酸味に洗い流される。頭がくらくらした。実は己がそれほど酒に強くないのだと、目の前の男は知らないのかもしれない。今じゃなくてもいい、いつか必ず知って欲しいと、ホールデンは強く思った。
兎にも角にも腹立たしいことに、ダリオの予言通り、アルコールは緊張を解してくれる。他愛無い談笑の果てに、こくりこくりと頭を上下させていれば、腕が伸びて来る。己よりも高い位置にあるホールデンの肩を抱き、自らへ寄り掛からせながら、ダリオは今更ながら炭酸ガスのげっぷを一つ漏らした。
「行儀悪い」
「ごめんって」
文句を溢しながらもホールデンが身を預け、擦り寄ってくるものだから、ダリオは全く反省しない。少し熱っぽいこめかみに唇を落とした後、腕の中の存在がさも大切なものであるかの如く、ぎゅっと力を込める。
「大丈夫さ、ホーリー。俺、どんなあんたのことも好きだよ」
「そんなこと、言わなくていい」
「でも言いたくなったんだ」
「じゃあ、一緒に逃げてくれるのか」
この瞬間まで、ホールデンは自分が酔っている余り、相手が全く素面であることをすっかり忘れていた。何ておっちょこちょい。血の気が引いた表情を小馬鹿にするよう、潮騒がざざっと、ホームドラマの中のオーディエンスが放つ笑いの如くざわめく
硬直しているホールデンの身は、一層強く抱き締められる。ダリオはほんの数秒しか考えなかった。というか、少し上がりつつある体温が、彼も眠気に襲われていたことを教えてくれる──つまり、彼は全く逡巡しなかったのだ。「いいよ」と答える為に。
「本当に?」
「うん。あんたがそうしたいなら、全然構わない」
驚きの余り上擦った口調を作るホールデンに対して、ダリオは相変わらず眠たげにそう返す。
「そんな顔しなくてもいいのに」
どんな顔、と言えず、代わりにホールデンはダリオの骨張った肩にその顔を埋めた。
どうかどうか、彼に笑っていることがバレず、泣いていると思われますように。普段悪態ばかりついている神にそう祈りながら。これが感傷ではなく、恐怖、しかも最高に胸を躍らせる恐怖だとまで彼に悟らせることは、幾らなんでもあんまりだと思ったからだ。
「いつ?」
「今」
「どこへ?」
「分からない。メキシコかな……いや、国内でいいよ。ヴェガスなんてどう」
「ヴェガスにしよう」
「すぐに結婚出来るし」
「俺達、結婚するのか」
ぱちくりするダリオの目が当惑を表現していたので、ホールデンは思わず眦にかっと熱を上らせた。
「これは世間じゃ駆け落ちって言うんだぞ。僕は今の生活を、金も身分も、何もかも捨てるんだ。命懸けだ」
「命懸けか……」
今度は10秒ほど、考えは巡らされる。たった10秒。「よし」と頷くまでに、あまりに短い時間ではないか。
「結婚しよう。指輪はないけど……」
「まだノリスのクレジットカードが使えるうちに買えば良いじゃないか」
「ああ、その手があったか」
あんた賢いな、と手放しで称賛する口調が、不安を煽り立てる。
それでも構わない。少なくとも、鳥籠の中からは脱出できる。例え外がどんな嵐でも、自由に勝るものは無いのだから。少なくとも世間ではそう言うことになっている。
「結婚したらさ、ダリオ」
「うん」
「もう2度と僕を一人ぼっちにしたり、邪険にしたりしないでくれよ」
「するもんか。毎晩オレンジジュースでカクテルをこさえてやるよ。ミモザ、スクリュードライバー、ファジーネーブル」
「詳しいね」
「昔酒場で働いて、バーテンダーがやってるのを見てたからな、お手のものさ」
彼は、ホールデンがオレンジジュースを愛飲し、ミニッツ・メイドよりトロピカーナ派だと言うことすら知っている。御伽話の王子様ですら、きっとお姫様に毎晩ナイトキャップを手ずから振る舞ってくれないに違いない。
「じゃあ、僕が料理を作る」
「ほんと?」
「それ位しか出来ないから」
「十分だろ。あんたの作る飯、好きだよ。と言うか、他人の手料理が好きなんだ」
夕陽が沈む。テキーラ・サンセットが飲みたい。ここから砂漠の街までの道のりでスーパーに寄って、材料を買い込むことは十分可能だろう。そして安売り量販店の通路でカートを押しながら、彼の好きな献立を聞くのだ。
今日は沢山、彼について知ったけれど、もっともっと教えて欲しいと心から思った。誰かに対して、こんなことを思うのは初めてだった。
柔らかい砂浜から腕を掴んで引っ張り起こされ、車へと向かう。助手席へぐんにゃりと沈み込み、だらしなく口元を緩めながら、ホールデンは「ダリオ」と囁いた。
「キスしてくれよ」
ダリオは黙って身を伸ばし、唇を重ねてくれた。ぺろっと口の中へ舌を差し込みながら「甘い、オレンジの味がする」と笑う、その切れ切れの短く弾む吐息が好きだと気付く。
人間、自分の事だって全然知らないもんだな。不安なのに、酷く満たされ、充足感に酔い痴れる。ホールデンはまだ舌の上から消えないオレンジジュースを味わい、掛けられたエンジンの音にうっとり耳を傾けた。
終
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