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第1章 U現実乞(ゆうげんじっこう)

      0  手を合わせて眼を瞑る。ふりをして、隣に眼を遣る。  泣いてくれれば声の掛けようもあったのに。悲しんでくれれば。  塞き止めているのだと思っていた。  だから決壊するならこの瞬間、  いま。  しかない。今を逃せばもうずっと。  僕は、  よっしーが何らかの行動を起こすまでじっと、短くなる線香を見つめていた。赤い線が灰色を生み出し、崩れて消える。  白い煙が立ち昇り、青い空に吸い込まれる。 「よいっち」 「うん?」返事のタイミングを計算ずくで遅らせた。  熱心に冥福を祈るあまり、外界の音を拾うのに時間がかかった。かのように見せるために。 「お腹減ったよね?何にする」 「これからのことなんやけど」  一旦保留にして車に戻ろうと思った。けど、よっしーはいまここで。  墓の前で。  近所の面倒見のいいお兄さんの僕に言っておきたいみたいだった。 「逆に聞くけどさ、どうやってやってくの?学校だって」 「やめるさかいに。バイトして、そんで」 「そんで?」冷たい態度だったかもしれないが、ここではいそうですかと手を離したらもっと冷たい逆流にたった一人で立ち向かわせることになる。  気づいてくれ。わかってくれ。  よっしーは、僕なんかよりすこぶる頭がいい。 「当てはあんだ?」 「それはこれから」 「探せないよ。俺が保証すんよ。そんな保証いらないって感じだけどさ」線香に火をつけるときに使った古新聞の燃えかすを靴の底で挽く。粉というよりペースト状にして。  雑草に塗りたくる。雑草には悪いが。光合成の妨げにしてやる。 「せめてもう三年頑張ろうよ。そしたら」 「まだ耐えろゆうんか?行きたないわ。あないな」 「いじめられてんの?逮捕してこよっか?」 「少年法が味方やさかいに」 「そだね。ダメだ。死刑にはできない」よっしーをいじめている?  死刑でも生ぬるい。 「死刑はやめたってな」 「じょーだんじょーだん。本気にした?ごめんごめん」バリバリの本気だけど。  よっしーは知らなくていい。  知らないままいてほしい。僕が、どんな思いでよっしーの両親を送る会を催すのを手伝ったか。知らないだろう。  知らないでくれ。  よっしーの両親の燃え残りと一緒に地に葬ってきた。埋めてきた。二度と掘り返せないようしっかり土を被せて。  昨日は冬に逆走真っ逆さま。  今日はやや春に片足を突っ込んだようなうらうら陽気。マフラは鬱陶しいがコートにはまだまだ抱きついていてもらいたい。風さえ吹かなければ、日がな一日ひなたぼっこしていたっていい。僕の仕事は暇に越したことはない。  よっしーは、  僕がいるほうを見ている。 「出世はせえへんの?」 「イタイとこつくなあ。うーんとねえ、ま、ぼちぼちとね」 「異動やらなんやらは」 「希望は出してんだけどね。ほら、希望は希望だから」  よっしーが何を言おうとしているのか手に取るようにわかる。ことが、  嬉しくて狂いそうなのと。  狂おしいほど切ないのと。 「殉職しない限りはムリかもで。ははは」よっしーの顔を真っ直ぐに見れなくて天を仰ぐ。雲の流れるスピードがいつもより。  早い?遅い?わからない。  いつもの状況を知らない。空なんか、  見たことない。 「期待しないどいでくれたほうがプレッシャじゃなくていっかなってね」 「頼みがあるんやけど」 「いーよ。と言いたいとこだけど」彼が何を頼もうとしているのかが。  わかるので。  正直者の僕は嘘をつけない。 「やめてね?復讐なんかやったって」 「俺は」 「お金は心配しないで。知り合いにスッゴイ弁護士がいるからさ、なんとかしてもらおうよ。なんたってあいつ負けなしの」  よっしーの表情から。  僕への信頼に関するすべてが剥離した。ような、  厭な間。  カラスが啼いている。僕らのあげたお供え物を狙っているのだ。  早く退け。さっさと帰れ。  拳銃を持ってこればよかった。  一人息子を置き去りにこの世から脱落した人でなしのお前らの頭上で、  よっしーを殺して。  僕も死んでやる。それこそが復讐じゃないのか。  よっしーは、  一体全体誰に復讐しようとしているのだ。 「お昼食べたら行ってみよっか。ちょいと待ってね。あいつ出っかな。なにかってゆうと忙しい忙しいしか言わない奴だから」ケータイを取り出して。  アドレス帳をあさっている隙に。よっしーは、  どこぞへ姿を消してしまった。  それこそ線香の煙のように。どろん、だ。  追いかけようとは思わなかった。捜そうともしなかった。  薄情な近所の面倒見のいいお兄さんは、  出世して希望が叶って異動して。  二年後。  追いかけなくてよかった。捜そうとしなくて正解だった。あのとき無理矢理連れ戻しても何も解決しなかった。  よっしーの好きなように気の済むまでやらせて、それでもうまく行かなかったときに戻ってくる場所を、笑顔でただいまと言って迎えてあげることが。  優しいお兄さんの理想像。  どうだか。  ちゃんちゃら可笑しくて反吐も出ない。  散々やめるやめると言っていた学校には結局通うことにしたようだ。よっしーは、  白のワイシャツに真っ黒い学ランを羽織っていた。  死に装束を連想させた。  第1章 U現実乞 ゆーげんじっこう       1  やかまし。  たったその一言で、俺らのボスはおかしくなった。  言われた内容がどうとかじゃなくて、言われたこと自体が効いてるらしく、普段怒られ慣れてない奴が怒られるとよけいに響くんだろうか。  しょげててくれればまだよかったが。むしろその反対。  狂喜乱舞だ。凶器が飛び交う。  生首を詰めたらちょうどよさそうな大きさの箱を二つ。鶏も啼くやら啼かないやらの太陽も顔出してないうちからガンつけている。相手がニンゲンじゃなくてよかった。  朝っぱらからほっかほかの死体ができあがるところだった。二体も。 「もういっそ両方持ってきゃいんじゃね?」業務に支障が出る。のは俺が知ったこっちゃないが、ボスが仕事しないと右腕の俺の責任として、監視係のモロギリにくどくどねちねち言われるのが関の山なのでとっとと終わらせてほしかった。  半分自棄だったのだが。  ボスは。  眼から鱗が落ちた、みたくでっかい瞬きをして。「はあ?お前それ」 「両方持ってって選んでもらやあいんじゃねえの?いーかげんによ」 「そいつはできない」断固反対された。 「なんで?好きなほうもらったほうが」 「俺が決断もできねえみてえに思われる」  それは。  考えすぎというか結構どうでもいいというか。 「あーそう」 「お前が決めろ」 「そのが決断云々に問題あんじゃね?どっちでもいいだろ」  菓子折りに。  煎餅を贈るか、クッキーを贈るか。  世紀末的にどうだっていい。その二者択一で世界が滅びるわけじゃあるまいに。  我らがボスは、  いままさに世界が滅ぶか滅ばないかばりの究極の選択に挑んでいる。  らしい。 「いやでもこっちのが食べ応えが。いや、このが量が」 「わーった。両方買ってやっから」悪いこと言わないから。頼む。  これ以上コンビニのレジを占拠しないでくれ。  蒼い顔で棒立ちしてるバイトのにーちゃんがいろんな液体ぶちまけそうなんだ。       2  珍しくぴんぽん押したってのに誰も出てきやしない。  もう三十回は鳴らした。やっぱこんなもんじゃダメだ。  ドアを叩く。 「おい、いんだろ?出て来いよ。いんのわかってんだ。おとなしく」  眼がぎょろっとしてて、くちばしが突き出てる。頭から生えてるもんが羽根で。  そうだ。あれだ。  トサカのない鶏に似てる。スサがなんか言いたげな視線を寄越す。  睨み返してやった。「言えよ。言いてえことあんなら」 「取立てに来たんだっけか俺ら」 「誰が取立てだ?騒がせたお詫びにこうやって菓子折り持ってなあ。わざわざ来てやったんだよ。それなのに出てこねえほうが悪い」  スサは相変わらず何か言いたげに首を傾げる。 「だから言えよ。言いてえことあんなら」 「だから、取立てにきたんじゃねんだろ?取立てじゃねえなら、そうじゃねんじゃねえかな。どっちかっつーと、こっちが悪くて謝りに来てるわけだから」 「謝りに来てやってんだよこっちは。悪いのは」 「悪いのは?俺らだって。ああ、もう」スサが荒っぽく階段を上がって。「ちょい退けな。見本見せてやっから」ぴんぽんを押した。  一回だけ。  だからそんなんじゃ聞こえねっての。 「朝早くにすいません。ちょっと出てきてもらえませんかね。俺ら決して怪しいもんじゃなくてですね。ほら」俺の持ってた菓子折りを奪ってのぞき穴の前でちらつかせる。  なるほど。これで釣ろうってわけか。「やるじゃねえか。見直した」 「ちょい黙ってろって。あのー、ちょっとで構わないんで。一瞬だけ顔出してくれればそれで満足するんで。すんませーん?」  なんも反応がない。  やっぱドアぶち壊すか。 「もういい。退け」 「やめろって。取立てじゃねんだから」スサがドアの前に立ち塞がるが。  スサじゃ俺に勝てない。誰も俺に敵わない。  力でも。  それ以外でも。  俺に勝てる奴がいたら一回くらい拝んでやってもいい。次の瞬間ぶっ殺してるが。  スサを廊下に転がす。 「いくらてめえだろうと容赦しねえぞ」 「容赦とかじゃねえだろ?いいか?」さすがは俺の右腕。  まったくダメージを受けてない。 「俺らは謝りに来たんだ。俺はどうだってよかったんだが、あんたがどうしてもって言うから。あのままコンビニで朝迎えやがって。どんだけ迷惑かけたと思ってんだ。菓子折りだってそんなんどうだっていいだろ? あんたの気紛れと思いつきでどんだけ俺が」たぶん、スサは本気で怒る一歩手前だった。本気で怒ってたら手やら足やらが出てた。  みすみす喰らうつもりもないが。 「菓子折り持って謝りに来て。それで満足したかよ。あんたのやり方は滅茶苦茶だ。世間一般の訪問の仕方ってのをちっともわかってねえ。それじゃ出てくるもんも出てこれねえだろうがよ。わかっか?わかんねえだろ?」 「わかんねえよ。悪いか」 「悪かねえよ。努力すりゃいい。そんだけだよ」スサはケツについた砂を払って、よいこらと体を起こす。「先戻ってる。バカらしくてやってんねえ」 「おい。待てよ」腕引っ捕まえてやろうと手を伸ばしたら。  あっけなく。  スサが自分から足を止めたから。階段を下りようとしたところで。  何かを見つけたようだった。 「どうした?帰るんじゃなかったのか」  ぶっ壊そうとした目的のドアは、2階の一番手前。  角の向こうが。一番下につながってる。  階段。  ガキがいた。上ってこようとしたところで、スサが下りようとしたのを見つけて。やり過ごそうとして足を止めた。  んなわけがない。  そのガキは、やたら見覚えがあった。このドアの向こうにいるはずのガキが。  なんで階段を上ってこようとしてるんだ? 「てめえ、いつ出た」 「じゃねえだろ。いま帰ってきたんだよ」 「はあ?じゃあ端っからここにあ」 「いなかったってこったな。ごしゅーしょーさま」  腹が立ったのでスサを。突き飛ばしてから場所が悪かったことに気づく。  スサが階段を転がり落ちる。  のを見てた。ガキはすかさずよけた。  なかなかの反射神経だ。 「おい、無事か?生きてっか?ピーポー車は」 「ってめえ、ちょ、ありえね。バカやろ」スサはじたばたともがく。亀やなんかをひっくり返すとちょうどそんな感じだ。  手を貸してやったが腕に力が入ってない。 「悪い。折れてんな」 「じゃねえだろ。誰か呼べ」 「元気じゃねえか。ほらよ」力の入らない腕を引っ張って。  スサの断末魔みたいなのが聞こえたような気がしたが気にせず。背中に乗せた。 「世話かけたな」ガキに言う。 「びょーいん行かはったほうがええのと違います?」 「こんだけ暴れてりゃ平気だろ。あーそうだ」顎で階段をしゃくる。「部屋の前に置いといた。ありがたくもらっとけ。じゃあな」  ガキは特に何も言わなかったが、なかなか上々の謝り方だったろうと自分でも思う。突然すぎていまいち反応できなかっただけだ。次はもうちょい驚かせないようにやろう。  スサは全治二ヶ月だとかいう。       3  どういう顛末でそうなったのか。想像に難くないが。  一応聞いておきたい。  ボスの言い分は。「だから、あいつが」  あくまで自分のせいでないと主張したい。  理由がどうであろうと、  突き飛ばしたのは他ならぬボスであることは違いない。 「休ませてやってはどうですか。代わりに」私が一時的にあなたの右腕になれば。 「いや、いい。しばらく一人でやる」  そう直球で突っぱねられると。悲しいやら悲しいやらで。  悲しすぎる。 「信用なりませんか」 「監視される筋合いはねえ」ボスは、私が淹れたお茶を一気に飲み干す。  このまま事務所にいたら全治二ヶ月が延長されかねないので、スサには酷だが入院してもらうことにした。  初代のときから付き合いのある医院なので、悪いようにはしないとは思うが。あのスサが入院なんて退屈極まりないものにどれだけ耐えうるかの勝負であって、入院したからといって決して治りが早まるとかそういうことではない。  私の予測なら、  夜までもたない。もてば死者蘇生顔負けの奇跡だ。  院長にも、本人が退院を仄めかしたら速やかに追い出してくれるようにそれとなく申し入れしてある。ドクタストップなんて自ら命を縮めるようなことはせずに。  本日の業務を確認しようとしたが、確認される張本人がソファに寝転んでしまった。拳でも入りそうなほどの大あくび。 「寝てねんだよ。悪いが」 「夜の時間をどう使おうが勝手ですが、昼の業務に支障のない程度にお願いしています」 「そうじゃねえよ。クウんとこじゃねえ」 「ではどちらに?」答えてくれるとも思ってないが。駄目元で。  黙った。  ソファの背もたれに向かって寝返りを打つ。 「独力でこれだけの業務をこなしてもらえるのなら、手持ち無沙汰な私は速やかに失礼させてもらうんですが」手帳を投げつけた。  ボスの肩で跳ね返って床に落下。 「痛えじゃねえか」どうでもよさそうな受け答え。蚊がとまったくらいにしか認識してないのだろう。 「本当にどうされたんですか。体調が優れないのでしたら」そんなわけはない。  ボスが体調を崩す?  あり得なさすぎて私のほうが体調を崩しかねない。 「話していただくわけには」 「スサに聞けって」言うのが面倒だから言ってくれないのではない。  言いたくないのだ。  私には。  先代に拾ってもらったお蔭でなんとか命を永らえた。私が。ボスの下にいるのは。  監視役以外の何者でもない。  先代が、ボスをボスと認める条件が。私を。  下に置くこと。  信頼してくれているのだ。私は。絶対に先代を裏切らないと。  裏切れるわけがない。  私の命は先代に戴いたようなもの。裏切る行為がすなわち自殺であり他殺であり。  死にたくない。  限りは与えられたこの名誉な役回りを全うしなければならない。  ボスはあからさまに寝たふりを始めた。私に。消えろと言っている。私の姿を見たくないのでボス自ら瞼を閉じるほかない。私が。  立ち去るつもりが更々ないので。 「今回のはどういった気紛れで?」 「知ってんじゃねえか」だから敢えて言わなかった。と言わんばかりの。  スサの代わりに来た。というのは二の次の用件。  ボスの不穏な行動について先代が気を揉んでいる。柔らかく言って。  硬く言えば。  ぶちギレている。 「いままでのやり方と随分違いますね。お礼参りの意味を取り違えたようにも」 「めーわくかけたら謝るのが筋だろ。そうしてきたじゃねえか」 「埒が明かないのではっきり言いましょう」ボスの顔をこちらに向けたかった。  どうにかして。  なんとしてでも。 「拉致るのなら今夜にでも段取りつけますが」  向かない。向いてくれない。私では。  ボスの視界にも入れない。 「三代目ではダメな理由がよくわかりました」 「その話はもういいつってんだろ。誰があんな氷みてえな女」向かないままソファから上体を起こす。私の声が耳に飛び込んでこない距離まで移動しようと。 「私たちのボスは、名前も聞けない臆病者でしたか」  向かない。  こんな安い挑発には乗らない。だからこそ、ボスなのだ。  先代は決してボスを評価していないわけではない。先代の意向は、ボスをボスでなく三代目に推していた。三代目が現れなかったら、それは現実のものとなっていただろう。ボスはボスでなく、三代目として君臨していた。  しかし現実は。  ボスを三代目にはしなかった。  三代目は。ボスなんかより格段に。三代目になる資格を有していた。  先代も苦渋の決断だったと思う。このまま三代目が現れてくれなければどんなにか。繰り返し繰り返しそれを想像したか知れない。  ボスは三代目になり損ねた。  ことからボスは、何かが変わってしまった。 「ご存じないのでしょう?あの学ランの少年の名を」 「なんもかんも筒抜けじゃねえか」ボスは自嘲する。鼻で嗤う。「センジュカンノンは?なんだって?」 「ヤりてえだけならヤっちまってとっとと忘れろ。と」私はそうではないと思っている。  先代だってそうは思っていない。早期にことが復旧するのを願っている。  ボスが、こともあろうに。  十代かそこらの少年に入れ込んでいるなんて。  隠蔽しなくて何をする。 「そうは思ってねえんだろ?お前は?」向いてくれればいいのに。ボスは。  私の手帳を拾ってぱらぱらと。 「ぜんぶ丸投げたらお前、尻拭いできるか」 「できません。私はボスにボスでいてほしい」 「んな大したもんでもねえだろう俺は。ああ、監視のし甲斐はあるな」ボスが手帳を返してくれる。  手渡しで。 「別にそんなんじゃねえんだよ。お見通しだとは思うが」  はっきり。聞きたい。  否定をしてくれれば。 「私の知ってるボスは、イエスノーだけは明確に即答される方でしたが」 「じゃあそれは俺じゃなかったな。そうでもねえんだろうよ。わかんねえんだ。謝りたいと思ったのもほとんど思い付きみたいなもんで。スサにも怒鳴られたが。考えなしでやってんのが俺かもしんねえな。ホントのとこは」そう言ったボスの顔は。  やけに清々しかった。ボスの核の部分が垣間見えた気がした。  そのあと、なんだかんだ言ってボスは。  その日の業務をしっかりこなし。私に小言を挟まれつつも。いつもなら一にも二にも短気を起こしていたボスが。適当に受け流す術を多用していたのには正直驚かされた。  これが成長なら、監視役の私は喜ぶべきところだが。  結論から言うなら。  違った。 「お疲れ様でした。直行されますか?」クウのいる店に。 「さき帰っててくれるか」てっきり付いてくるなという意味だと思ったのだが。  確かに。付いてくるなという意味で間違いなかった。  尾行してよかった。ボスは、  寄り道をしていた。  菓子折りを二箱も抱えてのこのこ謝りにいったというあの。  学ランの少年の住むアパートに。       4  ツネの希望で照明を落とす。デスクの後ろがガラス張りなので。  街の電飾がパノラマで広がる。  俺には見えない。ツネにだけ見えている。  そんなもの見たくて真っ暗にしたわけではないことはわかっている。俺だって。そんなもの見たくもない。俺が見たいのは。  いま、見ている。この、  いわば絶景。 「やけに焦ってるようだが」  だいぶ慣れたとはいえ、日ごとの初回は。充分に慣らしてからでないと。まるで毎日ヤってるみたいな言い方だが。  毎日ヤってる。  最近は。毎日この時間に。  ツネはここを訪問する。ことになっている。  来ない日はない。来ないわけにいかない。 「無理したら痛いのはお前だろうが」  やめろと忠告しているわけではない。身体を気遣って優しい言葉を投げかけているわけでもない。  責め立てている。鼓舞している。  こういうのも悪くない。 「聞こえてるか。返事は」顎をつかんで、顔を上げさせる。  切羽詰って余裕のない。  風を装っている。  演技だ。こいつのはすべて。 「このあと約束でもあるのか。先約の俺をさっさと終わらせて」額から垂れた汗を拭う。  舌で。  塩辛い。 「マンネリ解消のために思いついた新しい方向性なんだろ。それを俺の了承なしで試してるだけなんだよな。了承取ったら意外性もなにもないからな」  返答らしい返答はない。  細切れの音声。加速する呼吸。  ツネは軽い。細い。  せっかく豪勢な食事を振舞っても。奢り甲斐のない。俺もそんなに食べないほうだが。もっと食べない。遠慮しているというより関心がない。  復讐以外は。  すぐ眼の前にいたって。違うものを見ている。  二年前、  ツネが俺のところに文字通り自分を売りにきたときからずっと。  俺が見せた写真の男しか眼に入ってない。  ようやく暗順応が完了した。  毛穴までよく見える。俺なんか眼中にないことは二年前から百も承知だ。 「お前は誰のもんが入ってんだ?誰の上で腰振ってんだ?見ろよ」頬を両側から押さえる。  眼球が。  捉える。 「遅っそいわ、しゃちょーサン」ツネは口の端だけ上げるという独特の笑い方で。  俺を見下す。 「はよう出しいや?」  ツネが帰ったあと、ドア付近に置いてあったゴミ袋に気づく。俺が自分でゴミをまとめるなんてことはしないので。  秘書か?いや、秘書だってそんな抜かりはないはずだ。なにせ俺が雇った秘書だ。抜かりがあったらクビにしてる。  とするなら、この部屋に入れてかつ堂々とゴミを置いてくような。  ツネだ。  中を確認する。粉々に砕けた、  おそらくは煎餅の欠片と、  たぶんクッキーの残骸が。  明日まで取っておいて意図を問い質してやろうかとも思ったが。  ああ、そうか。  ようやく。始まったわけか。  もし万が一、黒鬼の奴が殴り込みに来た場合に茶受けとして出してやろう。あの黒鬼がどんな反応するか見ものだ。それまで保管しておくことにした。  しかし、そうなったら俺は。  生きてないかもしれない。それが困る。  せめてツネが黒鬼の組織を壊滅させたのを高みの見物してからでも。

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