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第6章 E堕砕苦(いいだくだく)

      1  彼一人だった。  その場にいたのは。魔が差して戻ってきた俺以外に、誰も。  男と女がぶら下がってる。その間に、  彼が。三つめの縄を使って。  即行、  椅子から下ろした。首の縄を外しつつ。  さっき来たときは確かに。二体。だから、俺らが帰ったあとに。  こいつが戻ってきて自分の分だと思い込んで。 「なにやってんだ」  息子か。  学校帰りだったらしく、肩掛けカバンが床に落ちてた。帰ってきて待ち構えてたのがおやつでも夕飯でもなく自分の親の。  吊り下げだったら。  正常な判断もなんもかんも吹っ飛ぶ。  吹っ飛んでた。相手がガキだったのを忘れてた。手加減とか。 「んなことしてどうすんだ」  死なせといてよく言う。お前の親が死んだのは、  俺のせい以外のなにもんでもない。  彼が気づいてないのをいいことに。  気づかないでほしい。完全に我を取り戻す前に洗脳しなきゃなんない。息子のお前が金を返さなくて、  一体誰が返すのか。 「しっかりしろ。死んでなんになる」灰だ。  胸倉摑んでこっちに引き戻す。眼が、  俺以外を見ている。 「せやかて」生きてたところで。地獄。  一生俺に追いかけられる。  親の愚行を清算するまで。 「し、な」せてほしい。いっそ殺してほしい。そうゆう眼で、  俺を見てくる。 「甘えてんじゃねえよ。てめえに死なれちゃ困る人間がいんだろうが」ここに。  まずいな。このまま放置しても、俺がいなくなったら確実に。  吊っちまう。  それじゃ意味が。どうする。どうしたら、  生きてやろうと思う?死にたくねえと思う?こんなとこで死んだとこで。  ある。  ひとつだけ。 「てめえの親をこんなにしたやつあ」俺だよ。眼で、  教える。お前の仇は復讐すべき殺人鬼が、  いままさにお前の眼ん玉に映ってることを。 「ここに」  彼の顔から死への傾倒が流れ落ちた。もがいてあがいて、やっとの力を振り絞って俺を突き飛ばして。  でも肝心の脚に力が入らないらしく。「お、ま」立てない。 「てめえの親がしこたまこさえた借金、息子のてめえにそっくり返してもらわねえとなんねえんだよ。親の不始末はそのまんま息子のてめえに受け継がれるってわけだよ。怨むんならてめえを作り出したそこのクズを」作ってることがバレてる。  いや、まさか。息子の動揺が感染ったか。  彼の震えが止まってる。 「俺が往ななったかて困る人なんおらんよ。そか。あんさんが困るゆうわけね。取立てのにーやん」縄を、  いつの間に。俺の手から奪ってた。それを彼が自分の首に、  んなことさせるか。  腕を。手を。  押さえ込んで。 「死なせてやらねえよ」金返すまで。  彼は抵抗できないことを頭でも身体でも理解できたようだった。縄から手を離す。 「親と違って物分りがいいじゃねえの」 「返すゆうたかて」 「てめえ自身をバラバラにして売っ払うか。もしくは」彼の首を縄から奪い取る。  親がぶら下がってる真下で。  親を殺した張本人に脚を開ける度胸があれば。俺の下に置いてやってもいいが。  そうゆうポジションなら間に合ってる。 「やっぱ」ここで死なせといてやったほうが。  彼が。 「そか。あんさんが」親を殺した。「せやったんか。そか。待っといて」よかった。  ネクタイなんて物騒なもんしてなくて。  こんなに命拾いしたと思ったことはない。絞められてた。 「あー、してへんやん。取立てのにーやん」首にあるはずの布がないことに気づいた彼は。両手で俺の首を。「ふっといなあ。俺の細腕やムリやね」触る。  襟元から手を入れて。  どうゆうつもりだ。そうゆう方向は足りてるんだが。  それにこんなガキ。 「腹筋割れてはるん?」 「なんのつもりだ」同意を取ろうが取らまいが。「媚びてるつもりか」 「でやろ。死にたのうなったさかいに。なあ、どないしたら」生かしてくれる?見逃してくれる?彼は。「なんでもしよるえ。ほんまに、なんでも」顔を近づけて。  噛みつける至近距離で停止。  口を開けただけで接触る。  息を吐いただけで粟立つ。 「どないしたったらええの?取立てのにーやん」  演技だ。  俺を油断させて一瞬の隙を狙ってる。その一瞬の隙を突いて。  どうする?殺す?どうやって。  縄は手の届く範囲にない。ネクタイもしてない。なんか凶器が。  ない。  なにもない。頭上にこいつの親がぶら下がってる以外は。  なにかが。  おかしいのだが。なにがおかしいのかに気づけないとたぶん俺は。  命取り。奪られる。  いろんなもんを。  奪われたのだろう。このとき。 「返す気あるんだな?だったら」生かしておいてやる。見逃してやる。その代わり絶対に、 「死ぬなよ」 「あんさんもな。取立てのにーやん」  自分が殺すまで生きていろとそうゆう。  そのときの彼の服装が、  学ランだった。というただそれだけのこと。  学校帰りなら当然だ。  学ランのガキなんかそれこそいくらでも。       2  本当に彼なのか。そのときの学ランの坊やが。  お嬢様が仰るのも無理はない。  市内で制服が学ランの学校をピックアップしてもわかるように。「こうやって生かされた少年はかなりの高確率でKREの慈善活動の恩恵に与っています。生かしたほうが」 「癒着してるみたい」それは、  根も葉もない。どうしてお嬢様があんな下劣な輩と。 「慈善活動ではありません。あれが慈善活動だというのなら」助けられた少年たちは、KRE社長に心臓を鷲づかみされているといっても過言ではない。  お嬢様はクッキーを口に入れる。朝方私が焼いたものだ。 「おんなじ」  私がこの世に生み出したクッキーは、お嬢様がすべて食べ尽くす。  私とボス。  クッキーと少年。  お嬢様とKRE社長。 「同列には扱えません」 「ただの比喩。例えが悪かった」お嬢様が紅茶で口を漱ぐ。  二年前。  時期が合っていたとしても。そんな不幸な少年はごろごろといた。  本人かどうかは問題ではない。 「よろしいのですね?」最終確認。「三代目」 「わたしが三代目になったのはこのため」 「そうでした」私としたことが。  もう一つの可能性。  あの少年をねちねち付けまわしている如何にもな犬ぞりの腹を蹴り上げる。  案の定、運転手側のドアが開いたが。 「殉職したくなかったら大人しく戻りなさい。そう。いい子ね」  恐る恐る静かにドアが閉まる。  助手席側のウィンドウをノックする。「話があるの。顔を出しなさい」  ほんの二ミリ。ウィンドウが下りた。  銃口を捻じ込もうと思ったところを。 「こんな美人を連行したら大喜びすよね」ドアが開いて。  両手を挙げたポーズで降りてくる。チャラい男。 「ごーもんとかやりたいほーだいすからね、うちのクソ上司。女追っかけるときはそりゃ活き活きするんすよ?」 「そのクソ上司、青臭いガキのケツなんか追っかけてるクソの役にも立たない部下をよく野放しにしてるわね」眉間に、と思ったけど。左眉の上にあるでっかいほくろが面白くってつい銃口を押し付ける。  辛うじてネクタイはしていたが。お堅い犬の群れとは思えないカジュアルな身なりの男は。後ずさりでシートに着席。「さあ、どうすかね。あなたみたいな美人が背後にいるって突き止めてんじゃないすかね」 「使えるの?それ」その横で蒼褪めている犬の手下。 「このあと捨てます」  後部座席に乗り込んで。後頭部に銃口を押し付ける。「出しなさい。最期の仕事にならないようにね」お互い。  このまま車ごとどっかに突っ込んで。なんてことはあり得ない。  知ってる。わたしは、  何でも知ってる。この男が、  こんなとこで死んでる場合じゃないことを。 「あの手のは更生しないわよ。捕まえたってあんたのつまんない正義感が満足するだけね」  犬は。  バックミラーで私の顔を憶えようとした。ので、  壊した。「よそ見なんかしないでね。事故ったらどうすんのよ。あんたの大事にしてるガキ」そんなつもりないけど。  脅し。ブラフだってのは男にもわかってる。  あの少年を殺すのは。  ボスの役目。 「どうなるかわかってんでしょうね」 「話というのは?」  バスなんかだとジャックされると緊急事態を報せる仕掛けがあるんだけど。 「妙なことしないでね。用が済んだらすぐに降ろしてもらうんだから」 「で、その用ってのは」  トリガに指を添える。「主導権はこっちにあるのよ。わかってる?」 「はいはい、そっすよね」犬は両腕を頭の後ろで組む。  無能な部下は粛々と車をかっ飛ばす。現役の模範運転とやらを遵守して。  ここでうまいことやればもしかしたら首の皮一枚つながるかもしれないという希望的観測が見え隠れする。私が根こそぎ隠してあげるけど。 「逮捕しないでね?」 「はいはい、もち」 「あたしじゃないのよ?」少年を。  見逃せと。 「あたしの命令じゃないのよ?あたしは伝えに来ただけ。いい?約束って守るためにあるのよ」  犬が首をこくこく動かす。「はいはい、しょーちで」 「降ろしなさい」  犬ぞりは乗り心地が最低だった。男に跨って腰振ってるほうがまだ濡れる。  お嬢様が女で。ほんとによかった。  私が乗っ取ってた。  強制電話回線。「お前が男じゃなくてほんとによかったよ」  私もそう思う。  あなたに言われなくても。 「クソの役にも立たない部下が迷惑かけたな」 「見てたわけ?」 「することなくてな」こんなのが犬の群れの上層にごろごろしてるかと思うと。  ほんと、  つくづく。「男なんて」私が滅ぼしてあげる。  せめて滅ぼす価値があるくらいにはしときなさいよ。ボスとか、  お嬢にクビにされたって。  社長に追放されたって。  犬共に指名手配されたって。どう出るのか。  みせてよね。 「切るわよ」本当に切ってやりたいのは回線なんかじゃないんだけど。  裏口を出たすぐのところにあの少年が立ってた。ボスの部屋から出るなと言われてるはずなのに。 「戻りなさい。死にたいの?」私が。  見す見す逃がしたとなれば。 「誰ですやろか」 「知らなくてもいいことは知らなくていいの。聞こえなかったの?」  おねーさん。少年の口が動く。「殺してへんよね?」  見てたのか。  幼馴染みの犬を脅すところを。窓?それともここで。 「なんのこと?いいから戻って」背中を押す。 「そんちょーサン、どないするつもりなん?」 「村長?なんのこと?」わけがわからない。「とにかく戻って」 「そんちょーサン、そんちょうやのうなるんやろ?」クビで。追放で。指名手配。「俺のせいなん?俺のせいで」責任を感じて悲しんでる。演技。  俺のせいで。ボスは。  ホントに演技? 「あんた」なにもの?思わず手を離した。  少年は、  一目散に事務所に戻って行った。逃げる気なんかない。私を待ち構えていただけ。  だとしたら、  あれもそれも。ぜんぶ、  違う。  ちがう。本当の第二発見者は。  ボスでも犬でもない。  あの兄弟は、  嘘まみれ。共犯。  やばい。はやくお嬢様に。  後方から。  よけた。けど、誰?私の後ろを取ろうだなんて。  私の後ろを取れる人間が。  一人しか思い浮かばない。でもその一人はいま、  事務所でお嬢様にクビを言い渡されてるはず。  振り返る。腕と脚を同時に。  封じられる。「二年の歳月を無にされるわけに参りませんので」あなた如きに。  それは、  こっちのセリフ。「ご挨拶じゃない?」  社長秘書がクリーニング済の笑顔を寄越す。「こんにちは」 「アポ取れたの?」 「取れないからこうして殴り込ませて戴いた次第です」裏口から。  私を物理的に押さえている間に、  社長が。「下品なのはどっちだ?」素通りする。  させない。  のを、させまいとする。「大丈夫です。弟君を連れ戻しに来たわけではありません」 「公明正大な社長サマがこんなこと。それにね、あたしは」下品?  社長秘書が。  眼線を落とす。「見慣れていないだけではないでしょうか」       3  捕まるのはツネじゃない。でも俺も捕まるわけにいかない。  あの人でなしは、  借りるだけ借りてとっととこの世からトンズラした。原因も結果も明らか。  ただ一つの計算違いは、  ツネが帰宅するタイミングがちょっとだけ早かったこと。 「お前らのとこを潰す気はない」と、断りを入れつつ。  隠し扉の存在を天敵の俺なんかに看破されて一同は唖然としている。  黒鬼。  右腕。  口。  そして三代目。大方揃ってる。  空いてた席が生憎一つしかなかった。  黒鬼のデスク。「安い椅子だな」  狭くて汚い。これが応接間だというのだから見るも無残。これではあらゆる契約交渉が無に帰す。あ、いいのか。こいつらの交渉は、  脅迫と暴力で強引に。  従わなければ殺す。従わなくても殺す。 「入ってくるとこ間違ってんだろうがよ」真っ先に右腕が詰め寄ってくる。こめかみに血管を浮き上がらせて。「いまやり直すってんなら出迎えてやらんでもねえがな。あ?立てよおら。そこはてめえみてえなの特等席じゃねって」 「だいじな話してたんだけどなあ。部外者は出てってよ」口が。首の前で真一文字を切る。死ね、失せろという意味だろうか。 「くまちゃんは?」三代目が凄まじい眼力をぶつけてくる。 「心配なら見てきたらどうだ?」席を外せと言ったつもりだったが。 「くまちゃんは?」ほとんど殺意。「どうしたの?」  黒鬼は。  でかい図体に似つかわしくでかい態度でソファに踏ん反り返っていた。とてもクビを言い渡されてる状況には見えない。言い渡してる側ならわかるが。 「てめ、お嬢が聞いてんだろうがよ。正直に言っとけよ」右腕が鼻先を近づけてくる。 「どうせ何を言っても信じないだろう?正直な俺の話なんか」  右腕の血管が何本か切れた音がした。「あ?誰がしょーじきだ?そーじきの間違い」 「まあまあ。心配なボクらは見てきたらいんじゃない?行こ行こ」口は。  俺がいまから何をしようとしてるのか察したようだった。  三代目の前で膝を折る。「というわけで、お嬢?参りましょうボクとともに」 「ヤだ」 「じゃなくてですねえ。そうだ。お嬢、お花見行きませんか?久しぶりにみんな揃ったわけですし。ね?そうしましょ」 「お嬢じゃない」三代目は、黒鬼と俺を見比べる。「勝てる。弱そう」 「戦闘りに来たんじゃねえよ」黒鬼が言う。  誰とも眼が合っていない。ここにいる部下たちに言ったつもりで自分に言い聞かせたり三代目に断ったり。俺に、  確認を取ったのかもしれない。 「だからそっから入ってきたんだろ?客でも社長でもねえ」兄として。  わざと省略した。  言いたくなかっただけだろうが。「そういうことだな」にしておく。  間違ってない。  合ってないだけで。  三代目の言ったとおり、もし俺と黒鬼の一騎打ちになれば俺なんかひとたまりもない。一捻りにされる。こんな地獄の一丁目に丸腰でやってくるほうがおかしい。  しかし、あえて単体で(秘書は裏口で待たせてある)のこのこやってきた事実を過大評価してもらいたい。それだけの話があるということだと。  黒鬼が眼を開ける。誰とも眼が合ってなかったのは。  なんのことはない。「おかげで眠気吹っ飛んだ。まずはそこ退け。俺のだ」  クビを言い渡されてるその場面で。よくも寝れる。 「滅茶苦茶な神経だな」 「茶が出ねえのをくどくど言われてもあれだが、そんだけの余裕もねえ」ずどん。と腰を落とす。だからクッションが宿命的にぺちゃんこなのだろう。「てっぱやく済ませろや。てめえのすましたツラ見てっと虫唾が走る」 「奇遇だな。俺もだ」てっぱやく済ませてやるとする。お望みどおりが癪だが。  すぐそのドアの向こうでツネが。  聞いてなきゃいい。ツネの。命の恩人に頼むのも。  莫迦馬鹿しくてやってられないが。 「殺してやってくれないか」二年前。あの日。  黒鬼が口を引き連れてやってくる前と。  戻って来て、  ツネを生かして帰った後に。なにがあったのか。  話しておいてやろう。  冥土の土産に。「終わりにしてやってくれ」       4  桜ってのは。  散るのがいい。散ってるのが。  俺をこっち側に巻き込んだ初代、  ナタカが言っていた。  ような気がする。だいぶ前だから定かじゃない。  大笑いして高笑いして。呑んで食べて飲んで、また食べて。どんちゃん騒ぎしている間を縫って歩く。こいつが言ってたオオサワギ村ってのは。  このことじゃないのか。  俺じゃなくて。  俺は。こうゆうのが好きじゃない。桜も、  散ってようが咲いてようが。  お嬢たちはどこで花見をしてるのか。鉢合わせないといいが。  両側に屋台が密集している。人の数もぐんと増える。  うじゃうじゃうじゃうじゃと。  邪魔だ。退け。  見失ってしまう。頭が。手が。足が。  二人連れ。集団。ぎゃあぎゃあと。  甘ったるいにおいと。  香ばしいにおいと。煙。水の音。  階段を上がっている後姿。退け。退け退け。  白い粒が散る。  桜だと。あとでわかる。  雪に見える。から、厭なのかもしれない。  川に。  橋が架かっている。かまぼこみたいに紅い形の。 「おい」やっと追いついた。「先行くなって」  彼が、  止まったからだ。 「話があんだよ。のんきに花見なんか」 「なんやてっきり花見に誘ってくらはったんやと」先送りにしている。俺が、  いまから何をしようとしているのか。  わかっている。  俺だって。  したかない。でもしないと、  あのペドがどうとかじゃなくて。  彼の。首を両手で。  彼が。  俺を。「やらへんの?」

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