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第3章 富士見矢・末期色

      1  絵に描いたような転落的な不幸が降りかかってくるかと思いきや、全然そんなことはなく。父さんも母さんも健在だし、破産したとか火事に遭ったとかそうゆう話も聞かない。友だちなんかいなかったから不幸はあり得ないし、恋人は。  とっくに振られて肩身の狭い居候でいさせてもらえるだけでほかにはもう。  妹が連れてきたあの女は死んだかもしれない。どうでもいいけど。  留守番の前日も、腰が立たなくなるまでヤらせてもらえることもなく。明日留守番よろしゅうな、くらいで。なにもない。なにも。  やみじふも飲んでない。飲む必要がないからだ。  つまんない。  つまんない日に逆戻り。これが不幸かもしれない。  次の日。  その次の日。  その次の次の日。  よっしーは帰ってこない。  どこ行ってるんだろう。てゆうより、誰のとこ。  先生のところじゃなきゃどこでもいいや。  飢え死にしそうだから早く帰ってきて。  フジミヤさんは不死身だからなんにも食べないしなんにも飲まないし。食事は俺のために作ってくれた。俺のためだけに。茶。飲まなくて平気なはずなのになんで?  ええやん細かいとこ。  台所の戸棚。これじゃない。それでもない。茶筒。  なんか、  イヤなにおい。白い粉。  お湯を沸かして淹れてみる。溶けて透明に。  一度も急須を見かけない理由がわかった。  時間差で茶色く。  においはほうじ茶になってた。なんだろこれ。  舌先でちょっとだけ。  わかんない。一口だけなら。  味もほうじ茶。フジミヤさんと同じものを出されてたんなら既に飲んでるわけだし。  くら、と。  身体が重い。首から下がやけに。  首から上はなんだかおかしいとわかってるのに。  力が出ない。抜ける。床に吸い取られる。  うつ伏せ。  床から離れる方法を思いついてるのに実行できない。手が脚が。  ゆうことを聞いてくれない。そんなに床が好きか。  飲んでない。  フジミヤさんが飲んでたのはこれだけど俺に出されてた茶は。ふつーの。  そうじゃなきゃ飲むたびこんな。  ちがう。フジミヤさんはどうして?  動いてた。床にへばりつくこともなく。俺だけ?  フジミヤさんには効かない。そうゆうことか。  やみじふ?  なんで?だれの?フジミヤさんの?  金縛りってゆうより。関節が残らず磔にされたみたいな。  ふ、と。  頭に近いとこから感覚が戻る。身体の重みを感じる。  立ち方を思い出す。  りりりりりりりりりりりりり。  音切るの忘れてた。違う。わざと。フジミヤさんから掛かってくるかも、て。  ちがう。  別の。 「不死身じゃないのか」  先生。 「フジミヤ君は」 「いませんけど」 「きみは彼女に会って何をキャンセルした? フジミヤ君を不死身でなくす?そう願ったんだろ?彼女はやみじふ、並びに副産物の不幸まで」  捲くし立てるような口調。慌ててる? 「どうしたんすか」 「おかしい。やみじふは彼女でキャンセルできる。しかし副作用は。違うのか。僕もフジミヤ君の説明で思考が停止して」 「あの、事情がよく」 「死んだ」  だれが。  てゆうより、  なんで。 「死んだよ。不死身なんだろ彼は。ならば何故」  やみじふで叶ったことは。  できる。  やみじふで降りかかってきたことは。  できる。  違う。どうゆうことなのかちっとも。 「きみの所為か」  うなずけない。 「至急向かって欲しい場所がある。いいか、そこから」  タクシーを待ってる時間が惜しかったので自分でチャリ漕いだ。  電車を待ってる時間もバスを待ってる時間も。  よくわからないからなにも考えなかった。考えるとわけがわからなくなりそうで。考えたってどうせわからない。考えようが考えまいが。  不死身じゃなくなったんならフジミヤさんじゃないのかな。とか、どうでもいいことしか浮かばない。  長蛇の列。この暑いのにざっと二十人以上が外で待ってる。イタ飯屋さん。  先生はまだ来てない。俺のほうが早い。  黒塗りが歩道に乗り上げて俺を轢くぎりぎりの位置で停車。並んでる人が一斉に俺を見る。じゃないか。降りてきた先生は白衣でも喪服でもなくて。 「店のランクに合わせたつもりだが」 「なんでも似合うんすね」  アロハにジーンズ。 「ぼさっと並ばなくていい。出されるものに用はない」  車放置でずかずかと横入り。止めたかったけど止めると俺も先生の一味みたいに思われるのがイヤで。 「オーナはいるか」  恥ずかしい。そんな大声で。手招き。  あーあ。  かんぺき俺も一味だ。 「困りますね、お客様。順番は守っていただかないと」  ギンガムチェックのシャツ。袖を関節まで捲り上げて。腰に黒いエプロンを巻いた。  イヤな、  感じが。  もっとごっついのが出てくるかと思った。 「たった今から閉店時刻までこの店を貸し切るには幾ら要る?」 「幾らって。幾らでしょう。計算したことがないもので。第一、お客様がいらっしゃるのに」 「聞け。きみたちの会計を僕が持つ。食べている奴はさっさと終わらせろ。待っている奴らはそこに名前と電話番号を書いて即刻立ち去れ。後日飲食した分を払ってやる。異議のある奴は」  いても申し出にくい。おかしい人がいるから関わりたくないや、でも奢ってくれるんならまあ。みんなそんな感じでそそくさと店から出て行った。ものの十分かそこらで。 「常識のない方ですね。評判に瑕がついたらどうしてくれるのか」 「同伴した相手を必ずモノにできる、とかいう下らない評判にか」 「立ち話もなんですし。どうぞ、あなたが貸し切ったんでしたね」  ムードを盛り上げるつもりなのかわかんないけど、暗い。雰囲気じゃなくて照明が。  テーブルに穴が。そこらへんから拾ってきた廃材を再利用てゆうより、ぼろぼろになって使わなくなったテーブルを置いてるんだと思う。同じ椅子が見当たらない。ソファだったり長椅子だったりベンチだったり揺れるやつだったり。単に古いから揺れるのかも。  店長らしき人がメニュを持って。先生が付き返す。お冷もお絞りも首を振る。 「貸切とは、そのような意味ではないと?」 「フジミヤ君が邪魔していたろう」 「ああ、貴方でしたか先生」  ああ、  こいつが。 「彼が使えなくなったので僕に乗り換えるおつもりでしょうか?」 「きみは使い物になるのかな」 「試食を希望されます?」 「結構だ。店の触れ込みで実証済みだろう。フジミヤ君が不死身になったのはきみが願ったから。違うかな」  店長が腰掛ける。カウンタを背にして。  人払い。  今日はもう上がっていい。片付けは僕がしておく。  物音が消える。水の音火の音。  よっしーはいまどこ。 「死んだ理由を解説していただけるんですよね?そのためにわざわざご足労」  それは、  俺も知りたいけど。もっと知りたいことが。 「連れが洗面所に行きたいと」  は?  連れ、て。俺?しかいないじゃん。  きょろきょろ見回しちゃったよ。笑われた。店長に。 「すまないが至急」 「案内しましょう。こちらです」  なに企んでやがる?  店長を俺に引き付けといてその隙にフジミヤさんを奪回とかそうゆう作戦だったら協力しないでもないけどもしそうだったとしたらあらかじめ一言。  駄目か。俺はモルモットだった。 「この先を真っ直ぐ」 「あ、どうも」  付いてくる。なんで? 「あの、たぶんわかりそうなんで」  バレバレじゃん。先生の作戦。だったら早く先生のところ戻って。  て、俺どっちの味方だよ。 「きみがヨシツネの連れ?」  悪意も皮肉も嫌味もなかった。  だから俺も、悪意も皮肉も嫌味も含めずに。 「ただの居候です」 「じゃあやみじふのこと知ってるよね?なんでも願いが叶う。回数無制限。一個だけ不幸になる。モノにできた?」 「できてたら死んでません。あなたが」  殺した。 「どうして僕が殺してあげなきゃいけない?死にたいのはこっちだ。先に逝きやがって」  トイレの入り口。 「何回不幸になった?」 「数えてなかったんで」 「ごめんね。トイレだったっけね」 「店長は?」  不幸に。 「客の数だけ」  近すぎて顔が見えない。 「僕のやみじふはこれ」  唇に。  糸を。 「願っていいよ。ヨシツネを」  生き返らせて。  あなたが。 「やればいいでしょう?不死身にさせといて、死んだら死んだで生き返らせろ?身勝手にもほどが。フジミヤさんをなんだと思って」 「僕は使えない」 「使えないったって、じゃあどうして不死身に」 「早く願ってよ。違うこと考える前に」  事情はどうだっていい。  やみじふだとか不死身だとか副作用とか不幸とか。 「ヨシツネが死んじゃったら僕はどうすれば」  どうもしなくていい。  願う。  発動のタイミングは同じだろうか。起きた瞬間。       2  不死身なんてウソだ。やみじふだってあったんだかなかったんだか。  不幸なんて起こらないし。全然フツー。  イタ飯屋は相変わらず繁盛してる。こないだ通りかかったけどやっぱり長蛇の列。店長云々とか連れてきた相手を必ずモノにとかそんなこと抜きにしても美味しいんだろうな。じゃなきゃお客さんは来ない。 「うーちゃんがきみにお礼を言いたい」友だちが言う。  モルモットにされずに済んだから。 「ただのぬいぐるみになったから」  皮肉か。 「ご、ごめん。でもあのときはああするしか」 「いいよ。キャンセルする」 「できんの?」 「先生ががんばってる」 「へえ、そーなんだ」  望み薄だな。  暑くて敵わないのでアイスを買った。さめうちゃんは、と訊いたら要らない、と素っ気なく。 「遠慮しなくていいよ」 「うーちゃんが食べれないのに食べるわけにいかない」  さよなら。  信号が変わったと同時に横断歩道を渡っていった。そっちに行く用事もないので。背負ってるウサギの耳は垂れたまま。しばらく見てたけどぴくりとも。それがフツーなんだろな。  よっしーに会いたい。  死んだなんて信じられない。死んでるとこ見てないんだから。  待ってるのは柄じゃない。だけど捜しにいく当てもない。 「アポなしで来るなど言ったろう」先生。  だって他に当てがない。ぶつくさ文句言いつつ部屋に入れてくれた。きっと誰も訪ねてきてくれないから内心嬉しいんだろな。研究室ってゆってもこんな辺鄙なとこに。おかしい人だから隅っこに追いやられてるんだ。  先生は莫迦共が、て吐き捨てるんだろうけど。 「うまく行きそうすか?」 「何故きみに心配されなければならない?」 「見たんすか?」  よっしーの。 「何が言いたい?」 「隠してるんじゃないすか?大事な実験材料を」 「莫迦莫迦しい。帰ってくれたまえ。僕は忙しい」 「死んでないんでしょ?」  不死身なんてウソだ。やみじふだって。 「いるんすよね」 「いない」 「ウソだ」 「帰りたまえ」 「返せ」  指を止める。キーを叩く。 「先生のじゃない」 「きみのモノだとでも?いいか。きみはやみじふの副作用で不幸になった。いい加減気が付いてもよさそうなものを。これだから莫迦だと云われるんだ。まだ解らないのか。きみはもう、二度と、一生フジミヤ君に」  会えない。  という。 「不幸を味わっているんだよ。実にお誂え向きじゃないか」  そんなわけない。 「そう見せかけて」 「僕だって不幸になった。研究が出来なくなった。きみの所為で。そっくりそのまま返すよ。返してくれないか。彼は唯一無二の」  演技だ。  俺を追い払うための。  粘ったところで応じてくれるとも思えないしむざむざ会わせてくれるわけもなし。  結局、  なんだったんだろう。やみじふで叶った願いって。  叶ってないんじゃない?俺のはなにも。  不幸に。  なっただけじゃん。  よっしーの行きそうなとこ。あの家にはいない。でももしかしたら。  帰って。  なかったけど。張り紙。  チャリ。  走れ走れ。全然近くないじゃん。  こんなとこまでチャリならいざ知らず歩いて。  赤旗。  見当たらない。  白旗。よく似た。  抹茶と。 「ウサギのな、中の人がウミウシなん」  よっしー。 「あかんよそれ、剥がしたったら。なんのために」    なんでも願いが叶んます  但  一個だけ不幸になります  使用回数無制限  そんだけ不幸になるだけ         やみじふ    大きくバツ。    おあいにくさま  ぜんぶ  売り切れました  またどんぞ  ごひーきに      ふじみや 「書置きしたかわからへん」  よっしー。 「いいよ知らなくて」  俺以外は。 「そうもいかんのよ。お得意さんがぎょーさんいてるさかいに」  ほら、  ホラだった。  なかった。死んでるわけ。 「死なへんよ。フジミヤさんやて」  ダメだ。  うれしいはずなのに。  生きててくれてこれ以上なんにも。 「イタ飯屋のあれ、店長。往ななったやろ」  口開けて。糸。 「ねばねばしおって敵わんわ。せやから納豆は」  唾液。  あの人のやみじふは。 「まーた俺だけ生き残ってもうた」 「他にもいたの?」 「いてるやん。ウサギの」  血液。  あの子のやみじふは。 「んで?おまは俺の好きな奴葬っといて自分好きんなれゆうわけ?そら無茶や」 「どうやって先生の」  憎らしくてしょうがない。 「たまーに海嗅がんと出ぇへんゆうて駄々捏ねた」  そうやって、  製造したやみじふを飲んで飲んで飲むんだ。先生は。  これ以上、なにが欲しいんだろう。  金も地位も名誉もある。ああそうか。一個欠けてた。  あげない。  俺だってそれが欲しい。  フジミヤさんは海水を掬って。  含む。  吐く。  何度か繰り返して。俺にも。  首振る。 「クソまずいえ」 「だったら勧めないでよ」 「飲みたいか?」 「どっちが好き?」 「おまやないな。少なくとも」 「店長?」 「往んだったさかいに。三大禁忌のうなったよ」 「店長のは」  ヒトを惚れさせる。 「死んだからフジミヤさんに」  ヒトを殺す。  ヒトを。 「命ってそんなもん?」  死んだら生き返らせてまた殺されて生き返って。 「憶えてへんさかいに。別人やわ」 「でも」 「デモもクラシィもあらへんの。どないす」  やみじふなんか。 「出ないくせに」  誰でも。  あのヒト以外なら。 「よかったくせに」 「センセの過小評価やね」  すっぱり。 「バレたったな」  たくし上げる。  飲むか飲まないか飲んだって飲まなくたって。  海岸でやるべきことじゃないんだろうけど。  意味ない。ちがう。  願いを叶えるための儀式じゃなくて。  不幸になるわけない。ぜんぶ、 「忘れよか」  憶えるのは苦手だ。       3  繁盛が疎ましい。キサの願いだとしても。  それでも並んでしまう自分が莫迦くさい。 「大変長らくお待たせいたしましたお一人様ですねどうぞこちらへ」  食べたいものなんかない。  食べる必要がないからだ。  ヒトに見えるのは外だけ。内は。 「また来たの?」 「お疲れと違う?初めてやけど」 「そう?どっかで」 「気のせいやろ。職業病やわ」  繰り返し。  永遠リピート。一見、馴染み、お得意、他人。  無理して食べる。  帰って吐く。美味しいか美味しくないかもわからない。  不味いから吐くわけじゃない。  不必要だから身体が拒否する。 「早く自分の店が持ちたいなあ」  叶える。 「全然お客さんが来なくてね」  叶える。 「やっぱ最初だけみたい。もの珍しくて」  叶える。 「なんかここだけの強み、みたいなのがあると」 「ほお、せやね」  叶える。  やみじふは底を尽かない。  ヒトの不幸の分だけ追加される。キサの願いを叶えるために。  他のニンゲンを不幸にしなければいけない。  なんてことはない。罪悪感も消えた。 「また来たの?」 「気のせいやて」 「ちょっといい?」  スタッフオンリ。 「やっぱり知ってる気がするよ。こんなにとんとん拍子でうまくいってるの、なんとなくだけど君のおかげのような。ねえ、君って」  カネとコネ。  肯いておこうか首を振っておこうか。どうせ、  忘れるんだ。 「美味いやん」 「失礼なこと聞くけど」 「店長が目当て、とかか」 「違うよね?」  冗談だと思ってる。だったら冗談で。 「あ、君だけに報告しようと」  冗談だろ。 「オープンのときから働いてくれてる子なんだけどね」  冗談だ。  帰るなりやみじふを飲み干した。 「また来たの?」 「美味いやん」  くるくると気の利く看板娘的な若い女の姿が見えない。  笑いが止まらない。 「付かぬことを」  だったら訊くな。 「不死身なのか」  逆。 「ああ、驚いた。不死身を扱っているのかと。まさかね、不死身なニンゲンが」 「そのまさかやったら?」  研究?  おかしなずあほおがやってきた。 「そんなこともあったかな」 「お前も忘れさすか」 「無駄だね。僕は絶対に忘れない自信がある」  学会が近いとかで。その割には慌てていない。こつこつ準備してきたのだろう。 「笑われるんが落ちやぞ」 「眼の前でやってみれば話も変わってくる」 「見返りは?」 「全世界」 「いらんいらん。しょーもない」  不死身になったのは。  死に損ねたからだ。神社仏閣が好きなのは。 「ウソまみれ」 「そっくり返そか」 「戻して」 「どっち?」  ぬいぐるみ。 「あとでな」 「今日中」  自分で何とかできるくせに。押し付けるのは。  愛想笑い。  不死なら先にガタが来る。 「どっち?」  やみじふ。 「キサに決まっとるやろ」

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