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 イチの部屋は中層階のワンルームだった。そこそこの広さに見えた。キッチンカウンターに椅子、部屋の真ん中にソファとローテーブルと大きいテレビ、窓際にこれも大きいベッドがあった。奥にバルコニーが見えた。南のてっぺんを越えてたいぶん西に傾いた太陽の、濃い光が射していた。  イチの実家もイチが家族と暮らしていたマンションも、外から何度も見たことがあるけれど入ったことはない。勝手に見に行ったからだ。  はじめてイチの実家に行ったのは大学3年の秋だった。どんな街のどんな家で育ったのかを確認しておきたかった。庭付き戸建て、両親と姉。そのあたりまで聞いていた。大きな白い犬がいたりしたらどうしようと思いながら家の前を通ったら、ちょうどお母さんらしき女の人が大きな白い犬を連れて出てきた。おかしかった。  結婚して、イチは家を出た。最初に住んだ駅近の3LDKも、外観と間取りは知っている。子どもができて引っ越した超高層マンションも知っている。ここはイチもイチの元奥さんも2人の友だちも皆インターネットに写真を出していたので、使っていた家具も食器も知っている。いい物件だったけれど離婚のタイミングで手放したらしい。元奥さんのInstagramで確認した。  イチの住むところに正式に入れてもらうのははじめてで、僕は緊張していた。手土産のジェラートまで持ってきてしまった。イチは僕の渡した箱を冷凍庫に入れたあと、近所にうまいピッツェリアができたと言って宅配を呼んだ。マルゲリータとニョッキと生ハムサラダと瓶のイタリアビールがきた。  食べ物をローテーブルに並べて、僕たちは顔を見合わせた。 「映画でも見るか」  イチはテレビをつけて、ストリーミング配信の画面を見始めた。 「全然知らないの見るのもめんどくさいよな。何がいい」 「笑えるやつか爆発するやつ。あんまりエロくないの」 「飯食いながら血見るのはやだな」 「イチちょっと前の映画のが好きだよね」  だらだらと話しているうちにピザが冷えるのをイチは気にしているようだった。タイムマシン出てくるのにしようと僕が言って、バック・トゥ・ザ・フューチャーを選んだ。 「字幕で見るのはじめてかも」  イチはそう言ってビールを開けた。 「そうかも、テレビで吹き替えの見るイメージしかない」 「金曜ロードショーだっけ。日曜洋画劇場?」 「わかんない」  イチはグラスにビールを注いだ。僕はそれを取って舐めた。 「なんかでも結局、映画ってテレビでやってるの見るもんな気がしてる」  イチの実家には4回行った。2階の東の角がイチの部屋だと、1回目にあたりをつけて2回目でわかった。出窓のきれいな、息子のためにテレビを置いてありそうな部屋だった。 「俺SFとかタイムマシンとか子どもんとき好きだったんだよな。ドラえもん見て、親父の持ってる小説読んで」  イチは映像の中の、車の形をしたタイムマシンを上目で見て、マルゲリータの先端を食べた。 「へえ」  僕はトマトクリームのかかったニョッキをイチの皿に載せた。何分ある映画なのかちっとも覚えていないけれども、早々にトラブルが起きているようなのでわりとすぐに終わってしまうかもしれない。その後はどうするだろう。 「どっちかというと未来に行きたかったんだよな。過去はほらいろいろ怖いだろなんか、変なことして自分が生まれなくなるとかそういう言葉あんだろ」 「この映画いまその話してる」  家で映画を観ると茶々を入れるだけで時間が潰せて楽だなと思った。名画座に行ったときは、イチがあまりにかちかちに固まっているのが気になって、だからといってはっきり顔を見る度胸もなくて、ただ息苦しかった。 「にしてもこれ絶対1回観たことあるのになんにも覚えてないな。自分で観たんじゃなくて親がつけてるの横で見ただけかな」  イチの家族が揃っているところは結婚式で見た。お母さんは顔がきれいでお父さんは体がきれいで、うまいこといったもんだなと思った。 「あー、そういやおまえ実家帰ったりするの。愛媛」 「たまに。弟の子に小遣いやりに」  息子を外の大学に出すだけの余裕のある家に生まれて、親孝行の弟がいて、僕は運が良かった。おかげで、金にならない研究仕事に就いて婚期を逃したボンクラ長男の設定で押し切れている。1本のちんこについて考えているうちに中年になってしまったことはたぶんバレていない。 「どんなとこ」 「温泉と城があって、海が近い」  育った町について覚えていることはあまりない。はじめて触ってくれたおじさんの顔も忘れてしまった。  映画は2時間ももたずに終わった。タイタニックにしといたらよかったかなと言ってみた。イチは笑わなかった。少し残っていたニョッキをイチが食べた。皿洗うわとイチは言った。何もかも食洗機に突っ込んだ。僕はソファの上で肩を抱えた。イチはキッチンに突っ立ってほとんど瞬きをせずに部屋を見渡したあと、あ、と言った。 「バルコニー出る?」 「なんで?」 「日が沈むから」  バルコニーも広かった。ラタンのソファとテーブルがあった。結婚していたころのイチならここでコーヒーを飲む写真をSNSに出すこともあったのだろうけれど、最近はとんと更新がない。2人で柵にもたれた。夏の日は長くてまだ本当に沈もうとはしていないのだけれど、ほらとイチが指した西の空では、確かに雲が茜色に染まりつつあった。光が濃くなって、雲の陰が暗くなって、赤と藍と紫とが混じりあって流れていくのをしばらく見ていた。イチの腕が僕の腰に回った。僕は言った。 「ここ7階だけど」 「知ってるって」 「わりと丸見えだよ」 「柵で隠れる」 「じゃあキスする?」  イチは僕の顔を見て小鼻を膨らませた。 「ごめんって。そんな顔しないで」  イチは腰に回していた腕を無理やり引いて、僕を、引き寄せた肩を突き飛ばすようにして部屋に押し込んだ。僕はよろめいて窓に手をついた。イチが覆いかぶさってきて、口に舌が押し込まれた。僕はイチにむしゃぶりつきながら、これもたぶん丸見えだなと思った。  キスが終わってから、僕は窓とカーテンを閉めた。なに落ち着いてんのとイチが言った。 「落ち着いてないよ。やる気満々だよ」  イチはベッドに腰掛けた。僕は窓際のリモコンで部屋の明かりを消した。まだ本物の夜ではないから、カーテンの隙間から赤く陽が射す。 「それは触ったらわかったけど」  僕は服を脱ぐことにした。 「またやれるなんて最高」  2人でベッドに入った。イチは僕が脱がそうとすると体をよじった。仕方がないから自分で脱いでもらった。シーツの上で裸で抱き合った。今すぐ入れてほしかったけれど、イチがあまりに強く抱きしめてくるのでどうしようもなかった。イチの体はかたくて重くて熱い。とりあえずこの体の下にいられた瞬間があるだけで僕の人生なんだっていいと思う。  イチは目も唇もきつく閉じている。名前を呼んでみた。イチ。イチ。繰り返しながら背中を撫でてみたり、頬に唇を押し当ててみたりする。そのうち、肩に食い込んでいた指が離れて、僕の頬に触れた。僕はそこに指を重ねた。イチが目を開けた。涙の膜が分厚かった。 「はやく入れて」  僕たちはセックスをした。もう5回目なのに、奥を突かれるたび死んでもいい死にそう死にたいといちいち思う。あまりに単純で笑ってしまう。  終わったあとの腕枕は拒否しないことにした。それどころかイチの腕に頭を預けてイチの腹にしがみついて、イチの胸にキスした。イチは僕の髪に指を絡めて言った。 「おまえ、毎月俺と会うのきつい?」 「俺はいいんだけど、イチが辛そうで気の毒」 「俺そんな顔してるか」 「顔っていうか、1回やったからには定期的にデートに誘おうってがんばってるのがかわいそう」  イチは口角を少し下げて、下唇を突き出した。いつかこの唇で僕をくわえてみたりもしてほしいと思う。ずいぶん図々しくなってしまった。 「おまえの意見も入れて柔軟にやるつもりで、毎月きついかって聞いてんだけど」 「だから俺はほんとになんでもよくて、ただイチがかわいそう」 「何が」 「俺なんかに時間使わなくていいのに」  イチの指が僕の髪をぐちゃぐちゃに掻き回す。 「じゃあおまえ、どうなるつもりで俺とやろうとしてたの」  イチの手を振り払って布団に潜った。イチの胸から腹にかけての筋肉の線を鼻の先でなぞった。こういう体に抱いてほしかった。僕の人生はおおむねそれだけだ。 「やりたくて仕方なかっただけで、その先なんて考えてないよ」  イチは僕に背中を向けた。たぶん、カーテンの隙間から窓の向こうを見ている。 「イチは100パーのへテロじゃないけど、だからって萎びた中年男性専門でもないでしょ。きれいなのが好きだし男相手にするったってもうちょっと選択肢あるし」 「何を根拠に」 「元奥さんも元彼女さんたちもみんな普通にきれいだし。イチまだ40になるとこだし」 「萎びた中年のおまえと同い年」 「若さって相対的なもんだからさ」  イチの萎んだペニスに触ってみると、踵で脚を蹴飛ばされた。仕方がないから首に腕を回して肩越しにキスした。 「恋愛しないままセックスすると傷つくからせめてセックスしたあと恋愛しようとするのは理屈が通ると思うけど、でも、いくらイチが俺のこといいものだって思おうとしても、俺は結局つまんない相手だよ。つまんない相手と寝て後悔した経験として受け止めたほうがいいと思うよ」  つまらない相手と寝て後悔した経験なんて僕にはないけれど、適当に、それらしそうなことを言ってみる。 「なんでそうちょいちょい俺をバカにするの」  しがみついていた体を押し退けられた。こっちを向いたイチは眉を吊り上げたあと、急に頬を緩めてため息を吐いた。 「付き合ってないのにやるとテンション下がるけど、やった相手はかわいく見えてくる」 「イチはいつもそうだね」 「知ってるみたいに言う」 「知ってるよ。大学2年の夏から今日までにイチが持って帰った女の子は、まあさすがに単発の子は全部ではないかもしんないけどだいたい把握してるよ」 「単発とか言うなよ」  イチが僕の腕を掴む。指の先が骨の隙間に入ってきそうだ。僕はイチの指が好きだ。太くて長い。 「さすがにちょっとは気持ち悪いと思った?」 「いや気持ち悪いのは知ってたから別にいいけど」 「いいんだ」  イチの指が僕の腕を辿って手のひらについた。僕はイチの指を握った。ささくれをなぞる。 「おまえほど俺に執着してる人間はいないだろ」 「うん、自信ある」 「なんでそうなったんだ」 「夢みたいなちんこだったから。もう1回やりたかっただけ」  その後しばらく、2人とも黙っていた。イチは僕の首の下に腕を敷き直した。僕はイチの腕の上でうつらうつらとして、目が覚めて、ベッドから下りた。脱いだ服を拾い集めた。イチは、シャワーくらい浴びろよと言った。 「部屋で浴びる。ありがとう」  外に出ると太陽はすっかり落ちていた。そのくせ風が重苦しくて、夏だなと思った。

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