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 玄関のドアを開けて、イチは少し笑った。僕は言った。 「元気にしてた?」 「まあまあ」  部屋に上げられてすぐ、腕に抱えてきた紙袋をそのまま、中身を出さずにイチに押しつけた。 「なに」 「ケーキ。誕生日の」 「ありがとう。もう春だけど」 「1月にやりそびれたから。おめでとう。あとプレゼントありがとう」  イチはケーキを箱ごと冷蔵庫に押し込んで、僕に座るよう促した。僕は床に鞄を置いてソファに腰かけた。隣にイチが来た。 「そういやおまえが前置いてったジェラートもうまかったわ」 「よかった。イチ結構甘いもの好きだよね」 「まあな」 「俺、イチの体目当てだけどそれでも大丈夫?」 「突然だな」  イチの膝に脚が触れてしまわないように、ソファの端に体を引いた。考えてきたことを正しく口から出せるように、イチの向こうの壁に視線を合わせて喋る。 「俺たぶん、小さいときから、きれいな男の人が好きだった。で、男の人が好きってことより嫌だったのが、きれいな男の人は俺のこと好きにならないってこと」 「ふん」 「だから、きれいな子だなって思ってたイチと1回やれて嬉しかったし、2回やれてびっくりしたし、欲が出て3回目もやりたくなっちゃったんだよね。3回やったら満足できるつもりだったのに4回目があって、もっと欲が出ちゃって今もやりたいし、今やってもきっとまたやりたくなると思う。イチがそれでもいいなら、俺としてはこの間の提案はありがたいんだけど、どうだろ」  イチが首を横に傾けるのが視界の端に見えた。今すぐキスしたいなと思う。 「俺も、俺のことが必要な人間がほしいからおまえって言ってるだけだからな」  また壁に視線を集中して、いま言われたことについて考えた。 「それでもよければセックスしてくれるって言ってる?」 「セックスもな。外誘うこともある。もしよければ。俺はフミのこともう少し知りたい」  勇気を出してイチを見ると、イチは僕を見ていた。40歳になって、体に脂がついて皮膚が柔らかくなって、それでもきれいなイチだ。僕は頷いた。  イチは右手を持ち上げて、肩の高さで止めて言った。 「触っていい?」 「は」 「体触って平気?」 「嫌って言うと思う?」 「確認は大事だろ」 「嫌なわけないでしょ」 「わかった」  イチの指が僕の腕に絡んだ。 「なに考えてうち来たの」 「よくわかんない、会いたくて我慢できなくなったから来た」 「まあまあわかってるな」  腕を引かれて屈み込む。顔が近い。キスがしたくて口が開いた。イチが唇を押しつけてきて、すぐに離れた。肺のあたりが痛くて、イチにしがみついた。大丈夫かとイチは言って、僕の頭を撫でた。ぐずぐずと涙が出てくるのがわかった。イチは驚いたみたいに手を引いた。 「なに、なんで泣くの」 「だから泣きたいから泣くんだって。当たり前のこと聞く」 「俺、最後に泣いたのいつかも覚えてない」  イチは、ローテーブルの上のティッシュペーパーを箱ごと取って、僕の膝の上に置いた。僕はずびずびと鼻を噛んでは、丸めたティッシュをゴミ箱に向かって投げた。イチは僕の頭や腕や背中をやみくもに撫でる。 「おまえのその変に堂々としたとこはいいところだよな」  泣くことに堂々もへったくれもあるか。思ったけれど言わないで、涙が止まるまでイチに撫でられていた。  ようやく一通り泣き終わって、最後の鼻水を盛大にかんだ僕の頬を、イチは人差し指でつついた。 「顔洗ってこいよ。目ぇ腫れるぞ」 「別にどうでも」 「よくないから洗ってこい。洗面所玄関側、右」  仕方がないので立ち上がり、言われた通り洗面所のドアを開けた。ダークグレーで統一された清潔な部屋だった。ここでイチは顔を洗ったり歯を磨いたり洗濯をしたりしているんだなと思った。鏡に映る冴えない男の目が腫れようが腫れまいが本当にどうでもよかった。  部屋に戻ると、イチはソファに座って天井を見ていた。僕は背もたれの後ろまで歩いていって、言った。 「俺も触っていい」 「いい」  背中から腕を回して、イチに抱きついた。イチの頭に鼻を押し付けた。両方の手のひらで、イチの頬をくるんだ。 「おまえ、このあと予定ないよな」 「もちろん」  イチが体ごと振り向いた。今度は長いキスをした。  僕はイチの襟から指を入れて、鎖骨を直接なぞった。イチは僕のシャツのボタンを全部外した。いったんお互いに体を離した。僕は床に置いた鞄を足で押して、イチの側に口が向くように倒した。 「いるもの全部これの中」 「ばきばきに期待してんじゃないか」 「当たり前だよ」  僕はイチの隣りに座った。イチは僕をソファに押し倒した。服を脱がし合いながら、狭いなと僕は思った。狭いから、裸の体どうしがずっと触れていた。イチは背中にも胸にも汗をかいていた。  イチの手が僕のペニスを握ったので、僕はイチのものに指を絡めた。ちょうどよくなるように2人で手を動かした。そのうちイチの手がもっと下に伸び始めたので、僕は上半身を肘掛けの上にずらして、できる限り大きく足を広げた。片足はイチの背中に絡めないとどうしようもなかった。たぶん明日ものすごく痛くなるけれど、どうでもいいと思った。  濡れた指が僕の中をかき回した。イチは僕の気持ちのいいところをもう知っていて、僕はひたすら喘ぎながらイチにしがみついた。目の前の頬や唇やつむじにキスをした。ゆっくりと開いたあとで、イチは僕に入ってきた。何度してもこのときの圧迫感に慣れない。浅いところで息を止めているとイチが動き出して、それでやっと、僕はイチの体に馴染んでいく。僕たちはお互いに絡まりあったまま体を揺らして、時間をかけてセックスをした。  イチは体を起こして、裸のまま背もたれに全身をもたれかけた。僕は肘掛けに上半身を載せたまま、両膝を抱えた。イチは目を閉じて、深く呼吸をしている。 「おまえ、俺いなかったら人生どうするつもりだったの」 「別に、普通に仕事して普通に1人で生きてたと思うよ」 「恋愛したいとか結婚したいとかなしで?」 「世界中みんなが恋愛とか結婚とか必要なわけじゃないんだよ」  イチは目を開いた。僕を見た。 「俺は、俺のこと好きな人間がいないと生きてける気しない」  僕は片足を伸ばして、イチの膝の上に載せた。足でイチのふくらはぎを叩いた。イチがそういう人間だということくらいずいぶん前から知っていた。 「とりあえず、俺当面おまえ以外としないからおまえもそうしてくれると助かる」 「問題ないよあてもないし」 「そう」  イチが立ち上がった。ソファの周りに脱ぎ散らかした服を順番に拾って身につけていく。 「おまえも着ろよ。ケーキ食おう。カットだよな」 「さすがにホールは買わないよ」  僕は横になったまま、両方の足を真っ直ぐに伸ばした。イチは1度洗面所に消えて、しばらく水音を立てたあと、タオルを持って戻ってきた。僕の胸の上にタオルを放り投げた。  冷蔵庫を開けるイチの背中を見ながら、今、イチが好きだと言えればいいんだろうかと考えた。考えたけれど、そんな大それた考えを持てる日が来る気はしなかった。 「イチ」 「なに」 「俺イチの体ほんと大好き」 「ありがとよ。あ、マジのいちごのショートケーキ」 「誕生日っぽいでしょ」  体をタオルで拭いて、床に落ちていた下着とズボンを拾って穿いた。これから先どうしたらいいのか相変わらず皆目わからないけれど、僕ひとりがそうなわけではないとわかって気が楽になった。

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