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ホワイトスター
「――亦、次の、……?」
其の言葉が何故か懐かしく、そして迚も重要な言葉の様な氣がして手を伸ばす。
無意識に天高く伸ばされた手、何を摑もうと為て居たのかも解らないが其れは自分にとって迚も大切な物で在った氣が為た。
白い天井、見慣れた自分の部屋では無い。見飽きる程に何度も見た、灰色の世界に浮かび上がる白い縦長の蛍光灯。開いた窓から吹き込む風が白い遮光布を靉靆かせていた。
腕に走る痛みへ視線を向けると、此れも亦見慣れた点滴の針が露出した肌に刺さっていた。
そして、傍らで突っ伏して居る小さく黒い存在。
「――ッ!?」
驚いて太宰は寝台から身を起こす。すると頭上から何かがはらりと落ちる。
小さな楕円形をした白い花弁の様なものだった。太宰が其の花弁を拾い確認する中視界の隅の異変に気付き周囲を見渡す。枕元に拡がる同じ様な花弁で構成された複数の花、それはまるで夜空に煌く星の様だった。
枕元を埋め尽くす程の白い星、そして白で統一された寝具に此の場所が病室で在る事が分かる。
突っ伏す中也の手の中には同じ白い花が握られており、太宰は瞬きをして其の姿を見遣る。
行動を制限する針を徐ろに引き抜くとぷっくりと赤い液体が球状に現れ、そして腕を伝い流れ落ち包帯を赤く染める。
眠る中也へと手を伸ばし、指先で其の頬に触れる。
常日頃から気を張り続け微かな気配にすら敏感な中也が珍しくも起きる兆候を見せない。それだけでも疲れ果てる迄に心労が重なっている事が解る。
指先で中也の体温を感じて、少し乾燥で荒れている其の頬を詰んで限界まで捩じ上げる。
弾力の在る頬を抓り続けると長い睫毛を讃えた瞼が持ち上がり、海の様に蒼い眸が覗く。
「……痛ェんだよ、糞が」
普段の中也からは想像も出来ない程低い調子で唸る様な声が訊こえる。
「夢かなと思って」
不機嫌な中也に払われた手を空に浮かせた間々、太宰は呆けた様に中也を見る。
「だったら手前の頬抓ってりゃ善いだろうが! 俺の抓んじゃねェ!」
其れは太宰が知る普段通りの中也だった。
ひりひりと痛む頬を圧える中也の手から白い花々がはらりと落ちる。
其の花が誠に星と見え、太宰は思わず其の一つを手に取る。
「夢では……無いの?」
「漸く御目褪めかよ糞眠り姫」
中也の言葉、腕に刺されて居た点滴、此処が病室で在る事から太宰は自分の置かれている状況を徐々に理解する事が出来る様に成って来た。
理解した太宰の頬を伝う一筋の涙。
「あ、れ……?」
迚も悲しい夢を観て居た氣がするのに、今と成っては其れが何で在ったのかも思い出せない。
抑圧された感情が涙と成って流れ落ちる現実を理解出来ぬ太宰の目許に中也の唇が触れる。少しだけ熱い舌先が太宰の涙を拭い取り、烟草と香水の混ざった香りが鼻腔を擽る。
ふらりと意識が遠退き再び寝台へ逆戻りしそうに為った太宰の背中へ中也が手を回して支える。
何故だか迚も哀しくて、苦しくて、太宰は無意識の間々中也の背中へ両腕を回して居た。
「――俺の勝ちだな」
普段ならば中也に負ける事など有り得ない筈だったが、今回に限っては敗北でも構わないと太宰は感じて居た。
惨めに縋り付いてでも、二度と中也を失いたく無いと言う強い気持ちが太宰の中に芽吹き始めて居た。どんなに格好悪くとも、中也を失う依りはずっとましだった。
「……もう何処にも行かないで」
「初めから何処にも行ってねェよ」
中也は絡み付く太宰の左腕を取り、其の手首に口吻ける。
太宰の自殺嗜好は今に始まった事では無かったが、其の原因が中也に在った事は此れが初めてだった。
何時だって自信と余裕が在った。文句を云いつつも結局戻る場所は一つしか無いのだから、其れを中也も理解為て居ると油断していた。
引き裂かれる程に心が痛く為った。自分は何度も繰り返して居た浮気なのに、自分が其れをされる側に為ると一度で在っても耐えられ無かった。
まるで親と逸れた子供の様に、ぼろぼろと涙を流す姿は只奇麗だった。敷布へ押付ける様に手を重ね、指を絡めて愚図る子供を宥める様に顔中に口吻けを落として行く。
「――行かないで」
〝先に逝こうと為たのは手前だろ〟と云う言葉を中也は呑み込んだ。此方の想いも知らず平気で浮気を繰り返し、其の癖される側に為った瞬間心の均衡を崩し呆気なくも凡てを擲って終わりにしようとする。
全く只の大きな子供で、振り回される此方の気持ちも少しは考えて欲しいと願ったのは一度や二度の事では無い。
然し其れこそが太宰治と云う人間で在り、拗れた情緒は今更矯正出来る物でない。
「愛してるのは手前だけだよ」
耳元で囁く其の言葉にどれ丈の意味が有るかは解らない。今安心させる言葉を告げた処で、安心すれば太宰は亦浮気を繰り返すかも知れない。
其れでも善いと想える程に、此の弱い生き物が自分だけを欲したと云う事実が中也を満たす。
「他の人の処、行かないで……」
「噫解った、もう行かねェよ」
病院着の首許から首筋、鎖骨へ、包帯の上から口吻けを落として行く。
太宰は迚も弱い力で中也の手を握り返す。
「中也じゃないと厭だ」
「俺もだよ」
顔を上げて視線を向け、此の状況でも未だ愚図々々と泣言を垂れ流す唇を唇で塞ぐと幽かに太宰の背中が跳ねる。
太宰依りも窮地に立たされて居たのは中也の方だった。
――若し太宰が中也の浮気を一言も責める事が無かったならば。
お互いが不特定多数との関係を持ち続け、二人の関係はそう悠からぬ内に破綻為て居ただろう。
予想外の方向へ転がった太宰の激情は、中也に太宰からの深い愛情を厭でも思い知らせた。中也にとっても太宰を喪う事等考えられず、其の点丈で云うのならば太宰が奥深くに隠して居た想いを知る事が出来た中也は勝利為たとも云える。
一向に覚醒めぬ太宰の枕許を、勝利を表現する白星の花で埋め尽くした。其の花々も軋む寝台と引かれる敷布に依ってもう幾つも残っては居ない。
此の間々覚醒めない可能性も考慮為て居た。長い睡りに堕ちた寓話の姫君の様に、何年だって傍で待ち続ける心算だった。
陶器の様に真っ白な頬を淡い桃色に染め、未だ眸を揺らして居る涙は扇状的にしか受け取れない。此の場所が病室で無ければ今直ぐにでも掻き抱きたい気持ちを抑え、中也は額同士をこつんと合わせて眼を細める。
「手前の忌々しい生命力を信じてた」
仮令其れが横向きの躊躇い傷では無かったとしても。
「随分と……乱暴な起こされ方だった氣がするけれど」
何方からでも無く、視線が交錯すれば再び其の唇は重なり合う。
永い永い夢の中で何度も中也の喚ぶ声を訊いた氣が為た。太宰はもう、自身の倖福が何処に在るのかを理解為て居た。
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