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第32話 Vanilla Sky〜Dask Till Dawn

 朝、客がいないカフェVanilla Skyでオーナー手作りの朝食を食べる。他には提供していない、一人のためだけに作られる特別な朝食だ。ガラス張りの店内に差し込む朝の光に輝くオーナーの顔を眺めながら、熱いコーヒーに口をつける。出勤前の穏やかな時間が過ぎていく。  短い夏休み旅行から戻り、いつもの日常が戻ってきていた。陽大(はると)は相変わらず出勤前の朝食をVanilla Skyで食べ、蒼空(そら)も変わらず恋人のためだけにカフェでコーヒーを淹れる。壮介には予想通り文句を言われたが、それも軽口で終われるのは瀬那の存在が大きいのだろう。  陽大が言った冗談に蒼空が笑って言い返す。カフェの外では少しずつ通勤する人の波が増えていき、今日もまた新しい一日が始まろうとしていた。  署に着くなり、陽大は新しい班長の坂本に呼ばれた。  「休暇を終えてすぐで悪いが、検察の取り調べに立ち会ってほしい」  「検察の?」  「ああ。例の事件についてだが……相原元班長が、君の同席を求めているらしい」  「俺の? なぜです?」  「わからないが……君以外には何も話さないと言っているそうだ」  (はた)刑事が撃たれ、しかも捜査課の班長が容疑者だということに騒然となった警察は、早く起訴事実を固めようと躍起になって捜査をおこなった。秦のパソコンに保存されていた花屋Fleur(フルール)の防犯カメラの削除された部分、すなわち薔薇の花束を買う男が写っているところは発見できた。しかし、角度が微妙で、はっきりと相原とは言い切れなかった。だが陽大が旅行に行く直前、秦が撃たれる前まで地道に調べていたバーの別の客が自撮りを撮った写真に、最初の事件当日に赤い薔薇の花束を隣に置いた相原が写り込んでいたのを見つけたのだ。それまで秦が犯人であると仄めかすような供述をしてきた相原もその写真を見せられてとうとう観念したのか、自分が犯人であるということを認めた。しかし、その先は黙秘したまま詳細を話そうとはせず、検察も動機や詳しい犯行の様子を掴めずに苦労していた。  「わかりました」  「うまくいくといいが」  「やってみます」  自分の机に戻り、事件の書類にもう一度目を通していると、壮介がコーヒーを持ってやってきた。  「夏休みぼけは治ったか?」  「していないぞ」  「今朝も相変わらず蒼空くんの朝飯を食べてきたんだろ」  「それはいつものことだ」  「ああ、そうですか」  「おまえこそ夕食を作ってもらってるんだろ」  「これがまた瀬那の料理が絶品なんだよ」  「蒼空だって本職だからな」  「いや、カフェメニューとかじゃなく、ちゃんとした食事だよ」  「蒼空はレストランも開けるくらいの腕前だ」  「瀬那だって……」  「どっちもすごいでいいでしょうが」  後輩刑事が呆れたように割って入る。  「こいつが引かないから」  「先に言ってきたのはおまえだろ」  「はいはい、わかりましたから。それより、たった今、連絡が」  「何だ」  「秦の意識が戻ったそうです」  「本当か?!」  「はい」  それぞれの自分の仕事をしていた他の刑事たちもその吉報に立ち上がり、手を叩いたり抱き合って喜んだ。  「よかった。本当によかったよ」  「ああ。いつ見舞いに行けるかな」  「近いうちに行けそうです」  「これで相原元班長をさらに追い詰めることができるな」  壮介が陽大の肩を叩いた。陽大はああ、と短く答えて頷いた。  「じゃ、行ってくる」  「しっかり頼むぞ」  陽大は気を引き締めるようにジャケットのボタンを締めると、署を後にした。  陽大が取り調べ室に入っていくと、先に座っていた担当の検察官が席を立った。どうやら、陽大と二人きりで話したいという要望らしい。久しぶりに会った相原は、少し痩せたような印象だった。  陽大が椅子に座ると、相原はビデオカメラとマイクを指さした。オフにしろということか。陽大はちらりと斜め上のガラス窓を見ると、ビデオカメラとマイクを切った。  「お久しぶりです」  「元気だったか」  「忙しくて大変ですよ。誰かさんのせいですけどね」  陽大の嫌味に相原はふっと口の端を歪めて笑った。  「なぜ、俺を呼んだんですか」  「おまえなら知っていると思ったんだが」  「何をです?」  「……聞いていないのか」  「聞く?」  相原は意外そうな表情で陽大を面白そうに見つめた。  「俺の不幸は、優秀な部下を持ったことだな」  「みんな優秀な班長の下で働けるのが嬉しくて、一生懸命やってたんですよ」  「そうか」  「秦の意識が戻りました」  「……そうか」  「本当は、秦を撃つ時にためらったんですよね? だからわずかに弾が逸れて、秦は一命を取り留めた」  「買い被りすぎだ」  「そうでしょうか」  「あいつは……」  相原は誰かを思い出すように遠くを見つめた。  「あいつは姉と血が繋がっていないくせに、姉とよく似ているんだ。それが、俺にはどうにも我慢できなかったんだよ」  「だから犯人に仕立てようとしたんですか」  「おまえたちが秦が怪しいと言い始めたからだ。本当はあんなに早く動くつもりはなかったが……」  「早く?」  「最初の被害者を見つけたのは偶然だ。しかし、今となっては俺がそこに導かれたのかもしれないとも思う。何せ、ベッドで死にそうな青い顔をしていた彼女は、俺の恋人……秦の姉にそっくりだったからな。助けてほしいと懇願するあの表情が……」  「あなたは警官として、いやその前に人として、被害者を助ける義務があった。それなのに、なぜ見殺しにしたんですか」  「あれだけ動脈から出血していたら、どのみち助からない」  「それはあなたが判断することじゃない、俺らがやるべきことは、目の前で助けを求めている人がいたら、その人に対しての最善を尽くすことじゃないんですか?」  「あれが俺なりの最善だよ」  「マニキュアを塗り、薔薇を置いていくことが?」  「あの日は恋人の命日だったんだ。だからあの薔薇は俺の恋人に捧げたものだ」  「あの被害者はあなたの恋人じゃないでしょう」  「いや、あの場に確かにいたんだよ……彼女が……」  まるでそこにいる見えない誰かに向かって微笑んでいる相原の行動が、演技なのか本当に幻覚が見えているのか、陽大には判断がつかなかった。  「あのアルバイトの男性も、あなたの恋人に見えたんですか?」  「いや……彼は違う。彼は……彼は美しかった。思うんだが、美しいものに惹かれるのは、人間の性さがだ。誰だって美しいものは眺めていたいと思う。そして、自分のものにしたいと願うのも当然の欲求だ」  「だからと言って、普通は殺したりなんかしない」  「普通……普通とは何だろう。俺はそれまで、もちろん以前の恋人も女性だったし、美しいものは女性だと思っていた。しかし、あの青年は俺が初めて女性以外に美しいと思った対象だったんだ。彼が着ていたキャミソール……どこで買ったものか探せなかっただろう? あれは俺の恋人の遺品だからな、ずいぶん前のものだからもう売っていないんだ。そうそう、マニキュアもね」  陽大は思わず言葉を失った。なんという酷い行為なのか。  「彼はひどく興奮していたよ。キャミソール越しにもわかるくらいに股間を膨らませて。男など抱いたことはなかった俺も、その様子になぜかひどく興奮したんだ。俺のモノをしゃぶる様子は、本当に美しかった。できることなら、ずっとそのまま眺めていたかったよ。だけど、彼の細い首を締めた時……俺は今までにないような快感を覚えたんだ。あの時の俺は、何かに取り憑かれていたんだろう」  「いいや、違う。あなたはわかっていたはずだ。善悪の判断もちゃんとついてたし、今その首を締めれば死ぬということもわかっていた。だから最終的に秦を犯人に仕立てようとしたんだ」  「どうだろう。俺はサイコパスなんじゃないかと自分で思っているんだが」  「そんな言葉で片付けないでください。あなたは自分のやったことをちゃんとわかってるし、それが大変なことだというのもわかっている。その罪は絶対に償わなきゃいけない」  「おまえを呼んだのは、そんなありきたりの言葉を聞くためじゃない。おまえは、俺に聞かなきゃいけないことがあるだろう?」  「聞かなきゃいけないこと?」  「ああ。それはわかっているはずだ。聞きたくて聞きたくて、でも怖くて聞けないでいることがあるんじゃないのか? 俺の部下は優秀だからな」  「……」  すべてを見透かすような微笑みで、相原は陽大をじっと見つめた。陽大は次第に早くなる鼓動を懸命に抑えようと、机の上に置いた拳をぐっと握った。  ああ、そうだ。俺はずっと聞きたいと思っていたことがあった。けれどそれを聞くのがどうしてもできないまま、いっそ封印してしまいたいとさえ思っていた。  あの日、蒼空の電話でVanilla Skyに駆けつけた時、倒れた秦の手に握られていた青い四本の薔薇に陽大は思わず鳥肌が立った。その後、秦だと思われていた犯人像が相原へと変わった時、陽大は思わず聞こうとしたが口に出せない疑問があった。おそらくだが、壮介も同じことを思っていたはずだ。しかし陽大に配慮して敢えて言わなかったのかもしれない。  教えてください、班長。あの日、なぜあなたは青い薔薇を四本注文し、それを秦に持たせてVanilla Skyへ行かせたのですか。  秦を犯人に仕立てようとして、薔薇を注文し、彼に取りに行かせたその意図はわかる。しかし、なぜその行き先が蒼空のカフェだったのか。  「聞かないのか?」  「……なぜあのカフェに行ったんですか」  「質問が違うな」  「……」  「なぜ、彼のところに行ったのか、だろう?」  「……なぜですか」  「わかっているんだろう?」  「……」  「まさかおまえの恋人だとはな」  「……」  「ソラと言ったかな、おまえの美しい恋人は。そう、ああいうのこそ美しいと言うんだ。あの白い柔らかそうな肌やピンク色の唇……彼の腰のくびれも美しかった」  じっと堪えていた陽大は、とうとう我慢しきれずに椅子を蹴って立ち上がった。  「あいつの名前を口にするのは許さない」  「青い薔薇はソラという名前にふさわしいと思わないか?」  「それ以上言ったらぶっ飛ばすぞ!」  相原に掴みかかろうとした陽大を、慌てて入ってきた検察官たちが止める。  「都築刑事、落ち着いて」  「いいか、あんたを精神鑑定なんかで逃したりなんか絶対にしないからな、必ず実刑にしてその罪を償わせてやる!」  顔を真っ赤にして叫ぶ陽大を、相原は揶揄うような眼差しでまるでひとごとのように微笑みながら見つめていた。

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