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Year 9 / Summer Term 「ルカの学校案内」
ウィロウズ寮 を出て少し歩き、木漏れ日を揺らす木々の蔭から抜けるとまず左手に食堂が見える。広大な敷地内に点々と建つ、古めかしい煉瓦造りの校舎をぐるりと囲むように通っている舗道を渡り、ルカはシックスフォームの校舎の脇を通ってその向こうに見えるオークス寮を指さした。
「あそこは面倒臭いからなるべく近づかないほうがいい。あの寮の連中は鬱陶しいんだ……あっちにもビーチズ寮っていうのがあるんだけど、このふたつの寮は仲が悪くて、なにかっていうとくだらない意地の張り合いをしてるんだ。目印はオークスがバーガンディ色のタイで、ビーチズがモスグリーンだよ」
相変わらずまともな返事はかえってはこなかったが、それでもいちおうヴァレンタインはルカのあとに遅れずついてきていて、指をさせばそちらのほうを見ていた。
構内の中心にある広い中庭に沿って小径を歩くと、芝生の上に寝転がって本を読んでいる生徒の姿が見えた。その向こうにある本校舎を指そうとすると、ヴァレンタインが「彼処 には入った」と云ったので、ルカはそのいちばん古めかしい立派な建物と、自分たちにはもう用のないシニアスクールの校舎を通り過ぎ、明日から通うことになるアッパースクールの校舎のなかを案内することにした。
休日なので生徒の姿はまったく見えず、高い天井を見上げながらがらんとした廊下を歩いていくと、微かにピアノの音がしているのに気がついた。
ピアノを弾く生徒はここには何人かいるが、聴こえてきた〝大ソナタ悲愴・第二楽章〟の未熟なタッチには聴き憶えがあった。案内途中じゃなければ冷やかしに行くのにな、と思いながらなんとなく後ろを振り返る。
するとヴァレンタインの姿が消えていて、ルカは呆然とその場に立ち尽くした。
「……どこに行ったんだ?」
きょろきょろと見まわしながら廊下を戻り、まだ案内していないファーストフロアに続く階段を見上げる。ピアノの音がさっきよりはっきりと耳に届き、ひょっとしてとルカは音楽室へ向かった。
階段を上がりきり廊下を折れると、案の定ヴァレンタインがそこにいた。
「ここにいたのか。急にいなくなるなよ、まったく……」
ヴァレンタインは音楽室の扉の前で、ただ立っていた。
ピアノに興味があるのかなと思いながら、ルカはノックもせずにいきなりその扉を開けた。ぎごちないベートヴェンがぴたりと止んで、ピアノの前に坐っていた生徒がこっちを見る。
「――なんだ驚いた。ブランデンブルクか」
「ヴォルコフスキー、ちっとも上達してないな」
ヴォルコフスキーと呼ばれた色白のその生徒は「独学でここまで弾けるようになったんだ、上出来だろう? そんなことを云うならブランデンブルク、君が教えてくれればいいじゃないか」と云いながら、椅子から立った。長めに伸ばしたアッシュブロンドがさらりと揺れる。
「ほら、弾いてみせてくれよ」
ルカはよーしとピアノの前に坐った。そしてふと思いだしたようにヴァレンタインを気にしたが、彼は退屈そうに廊下の壁に凭れ、窓の外を眺めていた。
ルカが鍵盤に指を落とし――弾き始めたのは〝Chopsticks 〟、所謂〝ねこふんじゃった〟のメロディだった。ふざけた選曲に、ヴォルコフスキーが笑いながら文句を云う。
「なに弾いてるんだよ、〝悲愴〟のお手本をおねがいしたんだけどな」
「趣味じゃないし、弾き飽きてるよ……俺はもう自分の弾きたい曲しか弾かない」
「それが弾きたい曲なのか?」
苦笑するヴォルコフスキーを横目に、ルカは大真面目に〝ねこふんじゃった〟を弾き続け――いつ曲が変わったのかわからない自然さで〝Ruby Tuesday 〟のサビの部分に移行した。
廊下でぼんやりと待っていたヴァレンタインが、はっとしたように音楽室のなかを覗く。ピアノの横に立っているヴォルコフスキーは不思議そうな顔をして首を捻っていて、曲が変わったということしかわかってはいないようだった。
ヴァレンタインがまるで魔法でも見たような顔をしてルカの指先をじっと見つめていると、それに気づいたヴォルコフスキーが「やあ」と声をかけた。それが合図だったのようにルカはピアノを弾く手を止め、ヴァレンタインを見た。
「ああ、紹介するよ……こいつはアレクセイ・ヴォルコフスキー。同じ寮の奴だよ」
「よろしく。噂の編入生だね。僕はウクライナからの留学生なんだ……君はどこから来たんだい? えっと……」
自己紹介を期待してヴォルコフスキーはじっと顔を見つめたが、ヴァレンタインは相変わらずだんまりだった。しょうがないなとルカが「彼はヴァレンタイン……、セオドア・ヴァレンタインといったっけ。人見知りが激しいみたいで、ずっとこんな調子なんだ。ま、そのうち喋るだろ」と、フォローを入れつつ紹介した。さすがになにか云わなければと思ったのか、ヴァレンタインが「……よろしく」とだけ小声で云う。
「邪魔したな。今、学校のなかを案内してる途中だったんだ……じゃあな」
音楽室を出て、校舎のなかも一廻りし終えると、今度は入ってきたのとは違う正面の入り口から出て、横手に並んで見える体育館と教会を教えた。体育館からはだん、だんとボールの跳ねる音が聞こえていた。その脇を通り抜け、また舗道に出ると、ルカはその向こうに見えている比較的新しい建物を指さした。
「あれはシカモアズ寮。アジア系の留学生や、移民の子が多くいる寮だ。英語の補習が必要な生徒はみんなあそこに集められてる」
下級生が特定の上級生に仕える|寮弟《ファグ》制度は既に廃止されてから二十年以上経っていたが、有望な下級生を目にかけるなどの名目で上級生が下級生を傍に置くことは、一部で惰性的に続けられていた。
イギリスの寮制学校 では入学申し込みを学校にではなく寮へ届けることが多いのだが、オークス寮の寮長 を始めとする、クイーンズイングリッシュを話すような上流階級 に生まれた監督生 や上級生 たちは上流階級や上位中流階級 、中位中流階級 の家庭から見学に来た入学希望の生徒を勧誘し、下位中流階級 やヌーヴォー・リッシュと侮蔑的に呼ばれる裕福な労働者階級 の家庭の子は、入寮を希望されても定員オーバーだと断ったり、その特性に従って他の寮を勧めたりした。
寮にそれぞれ特色があるのは、そんな習慣が未だに続けられている所為である。
「ウィロウズ寮はまったくわからないんだ……なんでかいろんな奴がいるんだよな。俺みたいな移民や留学生もいるし、成績のいいガリ勉 も、ここじゃめずらしい不良きどった奴もいるしって具合でばらばらなんだ。まあ、いちばん気楽でおもしろい寮だと思うよ」
話しながらずっと道なりに進んでいくと、小さな森のように木々が生い茂ったその奥に古い建物が建っていた。少し間を空けて二棟並んでいるその建物を、ルカが指さす。
「あれがエルムズ寮、奥に見えるほうがビーチズ寮だ。最初に云ったオークス寮と仲悪いところな。エルムズの連中はそういう鬱陶しさはないけど、あそこにも近づかないほうがいい……理系のギークな秀才が多くて、前に爆弾騒ぎを起こしたりしてるんだ」
爆弾と聞いて、ヴァレンタインがぎょっとしたようにルカの顔を見た。その反応がおかしくて、ルカはふっと吹きだした。
「いや、俺が入る前の話なんでよく知らないんだけどさ。作っちゃった奴がいたらしいよ……窓が吹き飛んだだけで済んだとか聞いたけど。……ま、今でもなんか妙な実験はしてるみたいだから、近づかないに越したことはないよ」
アッパースクールの校舎の裏手へ出て小径を中庭に向かって歩くと、本校舎が右手に見えた。さっきヴァレンタインはもう入ったと云ったので説明を省いたが、あのなかには大ホールや教職員室の他にも医務室や談話室、購買店 があるということを教えておく。
「日曜の夜の食事は決まってグリルドチーズサンドウィッチだけなんだ。だから家に帰らないで残っている奴らはみんな売り切れないうちにパンやお菓子を買っていく。週に一回近くの商店で買い物をすることが許されてるんだけど、そこでスープの缶とかショートブレッドを買い溜めする奴も多いよ。それ以外は三週間に一回くらい外出日があるけど、保護者か上級生と一緒にとかって、ちょっと煩いんだ」
小径を逸れて、芝生の上をまっすぐウィロウズ寮に向かって横切る。この日は天気がよく、陽が高くなってきて気温も上がり、ブレザーを着ていると汗ばむほどだった。ルカはブレザーを脱いで手にかけ、その手をポケットに突っこむと「あとは寮のなかだけだけど、あるのはコモンルームやプレップルームくらいのもんだからもういいよな……もうじきランチの時間だし、それまで部屋でゆっくりしてるか」と振り返らず、独り言のように云った。もう返事がないのにも慣れて、そんな云い方になったのだったが――「うん、……ありがとう」と、不意に後ろから声がして、ルカはぴたりと足を止め、振り向いてヴァレンタインの顔を見た。
「……なんてことないよ。どう、なにかわからないことはある?」
照れたようにおどけて肩を竦め、そう尋ねると、ヴァレンタインは小首を傾げてルカをじっと見つめた。なにか云いたげに揺れている大きな灰色の瞳から目を逸らせずに、ルカはやっぱり綺麗な顔をしてるなあ、などと考えていた。
人見知りとか無表情とか、愛想の無さはひょっとするとバランスをとるために必要なことなのかもしれない――わざとそうしているとは思わないが、この顔で愛想よく、表情豊かにぺらぺらと喋りだしたら、とんでもなく軽薄で厭味な奴になりそうだ。想像してルカは吹きだした。
すると、なにか云いかけていたらしいヴァレンタインが、眉をひそめてむっと口を尖らせた。
「ごめんごめん、ちょっと……考え事をしてたんだ。くだらないことをね……気を悪くしないでくれよ、なにか質問があったんだろ?」
「……もういい」
膨れっ面をしたまま自分を追い越して寮に向かって歩いていく後ろ姿を見ながら、まずったな……とルカは頭を掻いた。
まあいい。これから否というほど一緒に過ごすことになるのだから――ルカはふわりと揺れるダークブロンドを見やりながら、まだほとんど口を利いていないのに、この新しいルームメイトを結構気に入っているらしい自分に驚いた。
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