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Year 9 / Summer Holidays 「慰み」

 屋敷のなかは途轍もない広さだった。ルカは宿泊に使用されている一角から真っ直ぐ歩いてエントランスとラウンジを通り過ぎ、まだ行ったことのない屋敷の反対側へ向かった。すると、程無く臙脂色の絨毯が敷かれた広い廊下に出た。  『立ち入り禁止』と書かれた立て札を無視して張られているロープを跨ぎ、先へ進むと今度は階段があった。長い年月をかけて磨き込まれた感じの色艶をしたその階段の踊り場には、何枚もの肖像画が飾られていた。頭上にはシャンデリア、手摺りの端にはランプがあったが、今は当然灯っておらず辺りは暗かった。折り返して上がりきるとまた広い廊下に出たが、正面の奥に窓があるのが見える以外は真っ暗で、足許さえも見えなかった。  蒼く滲む窓の周りはうっすらと物の影が見えたが、そのため何人もの人が並んで立っているように見えてぎょっとする。目を凝らしてよく見ると、それはどうやら甲冑のようだった。階下(した)に飾られていた物を子供が触って壊したり、怪我したりしないようにここに運んだのだろうか。なんにせよ、暗がりで見たいものではなかった。今にも動きだしそうで、ただ不気味だった。  テディがバスルームから出てくる前にと部屋を飛びだし、そのままなにも考えずにこんなところまで来てしまったが、もうそれ以上進む気がせず踵を返す。  すると、廊下の片隅になにやらぼうっと白っぽい影が動くのが見え、ルカはびくりと足を止めた。 「あ、みつかっちゃった」  声がして、幽霊の類いではなかったのだとほっとする。柱の陰から姿を見せたのは、よく何人かで自分たちに付き纏っていた女の子のうちのひとりだった。 「こんなところでなにしてるの?」 「こっちの台詞だよ。尾けてきたのか?」 「偶々、ひとりで歩いていくのが見えたから……どこに行くのかなって思って。テディは?」  そう訊かれてルカは苦々しげに云った。 「知らないよ、あんな奴」 「え……なに、喧嘩したの?」 「そういうわけじゃないよ。いいだろ別に。そんないつもいつも一緒じゃないってだけさ」 「ふうん……?」  ルカがまた歩きだすと、女の子は辺りをきょろきょろと見まわし、手近なドアを開けようとした。暗い空間にぎいぃっとドアが軋む音が響き、ルカがぎょっとして振り向く。 「おい、なにやってんだ」 「わあ……ねえルカ、部屋のなかのほうが明るいよ。今日は満月だったのね」  女の子はそう云って、部屋のなかへと入っていった。  ルカは呆れ、もう放っておいて行こうと思ったがなんとなくそうもできず、しょうがなくその部屋に入った。  確かにカーテンが取っ払われているその窓からは淡い月の光が射しこんで、なにもないがらんとした部屋のなかを明るく照らしだしていた。まったく使われていないその様子から埃が積もっているのではないかと思ったが、きちんと掃除はされているのか空気が淀んだりはしていなかった。 「なあ、おい……もう俺は戻るぞ。おいていっていいのか?」 「なに、なあおいって……。ひょっとしてルカ、私の名前憶えてないの?」  図星を指され、ルカはぐっと言葉に詰まった。 「まったくもう……ほんとに女の子に興味ないのね。マーシャよ。一日めからアタックしてるのに、名前も憶えてもらえてなかったなんてショックだわ」 「ああ、マーシャであってたのか。何人もいたから自信がなくってさ、ごめんよ」 「ほんとかしら。調子いいんだから」 「とにかく、もう戻ろう。こんなところにいたってしょうがないだろ」 「あら、そうでもないわよ。ほら見て」  マーシャが指をさしたほうを見ると、さざめく海が月明かりに照らされて、きらきらと輝いている見事な景色が見えた。その闇に溶けこむ寸前の深い青を見て、ルカは川ではしゃいでいたテディの姿を思い浮かべた。  お互いにファーストキスだと思っていたのに、あれは嘘だったのだ。  あんなふうに初々しい反応まで見せておいて、まさかあんなことをしようとするなんて――あんなことをもう、他の誰かとしていたなんて。 「ねえルカ……、なんだかこうして一緒に夜の海を見てると、ロマンティックね」  マーシャが腕に手を絡めてきた。ルカはまったく気にも留めず、ずっとテディのことを考えていた。  そうだ、テディは鎮痛剤を乱用したりもしていたのだった。しかも、万引きをして――初めのうちは、人見知りでおとなしくて、なんだか放っておけない感じだったけれど、苛められてもまったく負けてなかったり逆に脅しをかけたり、見かけとは違う奴なのだと思った。  不良とか、やんちゃとか、そういうのとは違う。無理に背伸びしているのでも強がっているのでもない。擦れている、というのだろうか。眠っていると思って頬にキスしたときも、勃起してしまっているのをごまかして離れたのも、テディは全部わかっていながらまったく動じず、知らない振りをしていたのだ。  それを考えるとただ一緒にいるだけで幸せだとか考えて蕩けていた自分が莫迦らしく、恥ずかしくて居た堪れない気持ちになる。 「ルカってば……こんなにロマンティックなのに、なんとも思わないの? やっぱりほんとはテディとつきあってるんでしょ。もしそうならそう云って。私、偏見とかないから」  テディの名前が聞こえて、ルカはやっとマーシャの言葉に注意を向けた。マーシャは少し頬を膨らませて小首を傾げ、じっとルカの顔を見上げていた。  差しこむ月の光に溶け合いそうなその長い髪を見て、ああ、金髪(ブロンド)だったんだと初めて気づく。 「……俺は、ゲイじゃないよ。テディとつきあってなんかいない。それを証明しようか?」 「証明?」  ルカはマーシャのその長い金髪に手を伸ばし、耳にかけるとそのまま頬に触れた。柔らかい。マーシャはルカを見つめていたが、ルカはマーシャの姿を目に映しているだけで、マーシャを見てはいなかった。ゆっくり顔を近づけ、ルカはその唇にキスをした。マーシャはうっとりと目を閉じ――ルカはするりと舌を忍ばせた。 「んっ……、待ってルカ、あ……」  ルカは何度も何度も思い浮かべたことをそのままなぞるように深く口吻けし、頸筋に吸いつき、そして耳朶を喰んだ。躰の力が抜けたように壁伝いにずるりとへたりこんだマーシャの背中を支えながら横たえ、上から覆いかぶさるようにして愛撫を続ける。  マーシャは嫌がらなかった。嫌がるどころか、ルカ、ルカと背中に手をまわしながら悩ましい声をあげていた。頭のなかで名前を呼んでいるのはテディの声だった。  頭のなかで、夢のなかで。こんなふうにキスをして、躰に触れて抱きしめる自分を何度軽蔑しただろう。こんなことは許されない、絶対にできないし、してはいけないと思っていた。自分たちはまだそれほどおとなではないし、しかも男同士だったから――でも違ったのだ。テディはルカが思っていたような純真な、なにも知らない子供ではなかった。自分が妄想していた以上のことを、もう既にどこかの誰かとしていたのだ。自分が思っていたよりずっと、擦れて汚れた――そう、この女のように――  ルカはマーシャのTシャツを捲りあげ、愛撫を続けた。捲りあげたシャツのなかにもう一枚、レースで縁取られた小花模様の下着があることだけが、想像と違っていた。  あれからテディとほとんど口を利くこともないまま、サマーキャンプは終わりの日を迎えた。  その日は朝食が済むと参加者は皆それぞれ帰り支度を始め、慌ただしい朝を過ごした。いつもの休憩の時間には最後のティータイムとしてスコーンとアイスケーキを楽しみ、指導員たちの長い話を聞いたり記念品が渡されたりした。  バスに乗りこむ時間が近づくと、皆親しくなった相手との別れを惜しみ、写真を撮ったり連絡先の交換をしたりした。二台あるバスにそれぞれ荷物を積み込み、乗る前にハグをし、泣いている子もいる。バスの窓から見える顔に何度も手を振り、後ろ髪を引かれるようにもう一方のバスに乗る女の子も、帽子を交換する男の子たちも――。  昨日まで名前も知らなかった仲間と共同生活を始め、こうして別れるまでの経験すべてが、サマーキャンプで得る成長の糧である。  そんななか、マーシャが小さく折りたたんだメモを手に、ルカのいるほうへと歩いてきた。それに気がつき、ルカは同じバスに乗るために傍にいたテディを気にし、ちょっと離れようと動いた。が、充分距離を置く前にもうマーシャがルカの前まで来てしまった。 「ルカ」  テディがちらと一瞬だけそっちを見、そして目を逸らす。 「これ、私の電話番号とメールアドレス。絶対連絡ちょうだいね。私、待ってるから」  そう云ってマーシャは手にしていたメモをルカに手渡そうとした。  だが、ルカはそれを受けとろうとはせず、無表情に目を伏せマーシャと目を合わせようとさえしなかった。  マーシャが怪訝そうな顔をして、ルカを見る。 「ルカ?」 「そんなのもらっても困るよ。連絡とか、する気ないから」 「え? なんで、どうして? だって……」 「……そっちが付き纏うから相手したんだ。想い出にだけしておけば」  ルカは淡々とそう云った。  マーシャの顔色がさっと変わり、手のなかのメモがくしゃっと握りしめられた。震える手でそれがルカの顔に叩きつけられる。そして、次の瞬間―― 「最っ低!!」  ぱんっ! とマーシャの手のひらとルカの左頬が、派手な音を響かせた。 「――ルカ……、大丈夫?」  発車したバス内のシートで、テディがおずおずとルカに話しかけた。  だがルカは窓枠に肘をついて外を眺めたまま、まったく返事をしなかった。隣でしゅんと項垂れたテディをちらりと横目で盗み見て、ルカはこれ以上ないほど滅入った気分で深く溜息をついた。  よくもまあ、あんな酷い仕打ちができたものだと思う。このところいろいろな場面で何度も自己嫌悪に陥っていたが、今回のは最高に最低レベルのそれだった。  思わず口にだして「最低だ……」と呟くと、テディがまたちらりとこっちを見たのに気づいた。  思ってたように純真じゃなかったから? 自分が考えもしなかったことをやろうとしたから? くだらない――ルカは思った。確かにそれは驚きだったし、ショックだったけれど、よくよく考えてみれば自分の行いは、思い描いたイメージを勝手に押しつけて、それと違ったからと今度は文句を云っている、まるで質の悪いクレーマーのようなものなのだ。  テディが純真だとか、なにも知らない子供のようだなどと思っていたのは、実は自分の願望だっただけなのではないか。なんとなく放っておけないというか、ついつい庇いたくなる雰囲気は確かにあるが、コネリーやマコーミックを自分でちゃんと牽制するだけの甲斐性は持っていると、自分は知っていたではないか。  それに、あんなことをしようとしたからって――擦れてるからといって、それがなんだというのだろう。自分がやったことに比べれば、あのくらいはなんでもないような気がしてきた。拒まれなかったとはいえ、女の子と勢いでセックスしておきながらあんなふうに突き放して、傷つけてしまうなんて。 「……ほんとに……最低だ、俺……」  もう一度呟いたルカを、テディはなにも云わずに、じっと見つめていた。

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