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第一章 勇者の求婚  第二話 勇者の主張

 入り口の扉が叩かれたのは、ちょうどニコが薬鍋をじっくりかき混ぜているときだった。  作っているのは腹痛の薬で、数日前、村に行った際に卸したため在庫がなくなったのだ。  真っ白なリリードロップを細かく刻んで、磨り潰したロムの実と混ぜる。  そうするとよく効く腹痛の薬になるのだが、ひどく苦い。その苦みを取るために一度低温でじっくりと火を通し、蜂蜜を混ぜる。ニコは苦み取りの真っ最中だった。  扉を叩く音を聞いてニコは最初、気のせいかと思った。  こんな深い森の中にある家をわざわざ訪ねてくる者などいない。  ニコに用があるものもいないし、そもそもニコが買い出しに行く村の人々ですら、この家の詳しい場所なんて知らないだろう。もしくは風の音か、獣の悪戯か。なんにせよニコは出るつもりはなかった。  けれども、しばらく間を空けてもう一度扉を叩く音がした。どうやら気のせいではないらしい。先ほどよりも幾分か大きな音で響いたそれは、間違いなく扉の向こうの来訪者を知らせる音だった。  ニコは鍋を火からおろし、ゆっくりと席を立った。椅子の傍らに立てかけていた松葉杖を右脇の下に挟んで、思うように動かない左側を庇いながら扉の方に向かう。  実のところ、この家にお客が来たのは初めてのことだった。六年前にこの小屋を買ってから、一度だって誰かがニコを訪ねて来たことはない。だって、ニコの古い知り合いは誰もここにニコがいることを知らない。  もしかしたら、ニコがまだ生きていることだって知らないかもしれない。だからきっと来訪者の目当てもニコではないだろう。  ひょっとして、旅人でも迷い込んできたのだろうか。なんて、思って扉を開けた。そして、冒頭に戻る。  そこにいたのは、どこか見覚えのある精悍な青年だった。  扉を開けるなり愛の告白をしてきた勇者ハロルドは許可も出していないのに、ずかずかと小屋の中に入ってくる。あげく、一脚しかない椅子をニコに勧めて何故かお茶を入れてくれた。  がたつく食卓に、お茶の入ったカップと薬の調合に使う小さな鉢が並んでいる。食器は当然ニコの分しかなく、ハロルドは鉢で茶を啜るしかなかった。  帰れ、と何度言っても彼は帰らなかった。それどころかここに住みたいと言う。この狭くて古い小屋に。 「ここに住むって? この小屋に?」 「そう。だって、ニコはここから動くつもりはないんだろ」  なら、ニコと一緒にいる、と言われてニコは閉口する。  口で言っても聞かないが、ニコには彼を力づくでどうにか出来る力量はない。というか、世界中どこを探したってハロルドをどうにか出来る人物なんていやしないのだ。なんせ、ハロルドは世界を救った勇者である。 「勇者がこんなところにいていいのか」 「さっきからそれ何度も言うけど、俺がニコと一緒にいたいんだからいいんだよ」 「王の勅命とかは」 「そんなの、知らない」  と、そっけなく答えたハロルドは、火からおろされた薬鍋に目を留めた。そしてこれ、途中? 火にかければいいの? なんて言いながら手に持とうとする。 「あー、うん。もう少し煮詰めるかな」 「ふぅん。で、ニコ。今は何やってんの?」 「薬作ってる」  お前が手に持っているそれを売って、生活している。そう言えばハロルドはへぇ、と返した。 「薬草は森で取ってんの?」 「そうだよ。それを加工して、飲みやすくして、近くの村に卸してる」 「そっか。ニコ、昔から薬草詳しかったもんな」 「いくら教えてもお前は全然覚えなかったけどな」 「だって全部同じ草に見える」  かつてのハロルドは、薬の作り方どころか必要最低限な薬草の種類すら覚えなかった。  街を出て何かあれば困るのはお前だぞ、と何度も口煩く言った当時のニコだったが、ハロルドにはそんな知識は必要なかったのだ。  薬草なんて知らなくても、勇者は魔王を討った。それが全てだ。  ハロルドはでもさ、と続けた。 「今からはちゃんと覚えるよ」  薬鍋を持ってハロルドはニコの方を見ていた。青い瞳は別れた六年前と変わらず、けれどもニコは気づいてしまった。  ハロルドの首には大きな傷があった。着ている服の中まで続く大きなそれは、治癒魔法で癒したはずなのにくっきりと痕が残っている。きっと彼はニコと離れている間、死に物狂いで戦って、戦い続けて魔王を倒したのだ。 「なんで?」 「だって、ニコは薬草を取って生活してるんだろ。なら俺もここで薬草取るよ」 「いやいやいや」  満面の笑みで言った勇者に、ニコはうんざりとした様子で首を振る。しかし、当のハロルドはそんなニコをまるっと無視して薬鍋を火にかけた。  ニコの知るハロルドは、一度決めると何を言っても人の意見は聞かなかった。少し大人になって丸くなったかと思ったがそれもなさそうで、むしろ勇者となってその頑固さに磨きがかかっているようだった。  きっと「ニコと暮らす」ということも彼の中では決定事項で、ニコの意見など求めてもいないのだろう。それにハロルドはニコが彼を強く拒否しないことも分かっているのだ。ニコは昔からハロルドには弱かった。 「俺はやらなきゃいけないことはきちんとやって来たよ。それは王も分かってる。仲間たちもいいって言った。だから、ニコと一緒にいる」  きっぱりと言われてニコは頭を抱えた。  何度も言うが、ハロルドは女神に選ばれし勇者だ。こんな田舎にいていいわけがない。成し遂げた功績は大きく、どれほどの褒美を貰っても決して足りないと言うことはないだろう。  しかし、ハロルドの言うことももっともではあった。彼の使命は魔王を倒し、世界を平和にすること。――で、あるならば、確かに彼の言う「やらなければいけないこと」は果たされている。  そこまで言われて、彼を追い出せるほどニコは無情ではない。薬鍋の中身をかき混ぜるハロルドに、ニコは盛大に嘆息した。ハロルドは七年前の約束を果たしてもらいに来た、と言った。その約束についてはニコも覚えている。  ニコたちにとって約束は契約に等しい。言葉に乗せられた魔力は、魔術師を言霊の力で縛るからだ。それは持てる魔力のほとんどを失い、おおよそ魔術師とは呼べなくなった今のニコにも適用される。 「……分かった」 「じゃあ!」 「でもハロルド、七年前の約束をちゃんと一言一句間違えず思い出してみろ」  ニコは左手の人指し指をたてて、そっと自らの唇の前に持っていく。七年前、確かにニコとハロルドは約束を交わした。けれども、その内容は。 「「ハロルドが俺より強くなって、それでも俺のこと好きな気持ちが変わらなかったら、……――もう一度、告白して欲しい」」  ニコとハロルドの声が重なって、七年前の言葉を繰り返す。かつて交わした約束は、未だ果たされていない。けれども約束を果たすのはニコではなかった。 「約束を果たすのは、ハロルドの方だよ」  にこりと微笑んで言えば、ハロルドの頬が赤く染まる。七年前ならいざ知らず、今のニコの顔は決して美しくない。それどころか顔半分は焼け爛れていて、見るに堪えないはずだ。それなのに、ハロルドはニコをまるで眩しいものを見るように見つめて、愛おしそうに目を細めた。 「好きだよ、ニコ。俺と結婚して」  いつの間にか床に膝をついていたハロルドがニコの手を取る。傷と火傷痕だらけの手に恭しく口づけて、ニコを仰ぎ見た。それに答えるように、ニコはそっと手を離してハロルドの頭を撫でる。 「ありがとう、ハロルド。気持ちは嬉しいよ。結婚はしないけど」 「はぁ!? なんで!?」 「逆に聞くけど、なんで俺がお前と結婚すると思ったんだ?」  頭を撫でたまま、呆れたようにニコは言った。  七年前、まだ子どもだったハロルドに想いを告げられたとき、ニコは大怪我を負ったばかりで、言葉を話すことすら難しい状態だった。  そんな状態で当時から頑固だったハロルドを諦めさせる自信がなかったニコは、とりあえず誤魔化すことにしたのだ。ニコにとってハロルドは、愛しく可愛い存在だったが、守るべき子どもでしかなかった。  正直、ハロルドの気持ちを舐めていたのもある。齢十二歳にすぎないハロルドの想いなど、これからたくさんのことを経験するにつれて薄れていくだろうと高をくくっていた。  それに、同年代の子どもたちよりも一等小柄で弱々しかったハロルドが、まさかあの頃の自分より強くなるとは思っていなかったのだ。  けれどもハロルドはニコの前に再び姿を現した。ならば、しっかりと断ってやるのが親心というものだろう。 「だ、だって、ニコが強くなったらいいって」 「強くなったら告白していいって言ったんだ。結婚を了承するなんて一言も言ってない」 「屁理屈だろ! それ!」 「お前の考えが浅はかなんだろ」 「ニコ……!」  冷たくあしらうニコにハロルドは食い下がった。  絶対に出て行かない。結婚してもらうまで、ここに居座ってやる! そう宣言した勇者は、本当にこの狭い小屋に居座ることにしたらしい。椅子に座ったままのニコの膝に縋りついて、梃子でも動かない。  何度も言うが、ハロルドを力づくでどうにか出来るニコではない。ハロルドがここにいたいと思えば、ニコの許可などなくても居座ることが出来るのだ。  けれどもこの家はひどく狭くて、ニコひとりで住むことしか想定されていないのも事実だった。  寝台も椅子も、食器も、何もかも一人分しかない家でどうやって生活するのだろうか。  椅子に座ることも出来ない生活なんて、いくら勇者でも耐えられないはずだ。そのうち音を上げて出て行くだろう、なんて。このときのニコは呑気に思っていた。

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