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第一章 勇者の求婚  第五話 勇者を守るための戦い

 何の前触れもなかった。穏やかな初夏の日射しの中、その魔族はとても静かに、けれどひどく邪悪な魔力を持ってふらりと村を訪れた。  ニコがそれに気づいたのは、村中に探知結界の魔術を張り巡らせていたからだ。ニコは植物属性の魔力を持っていて、そこら中に生えている木々に魔力を付与し結界にすることが出来た。  全身が粟立つような不快感とすぐにでも逃げ出したいほどの恐怖。  黒い髪に赤い目をしたその魔族は、頭に大きな角が生えていた。  ニコが駆けつけたとき、魔族がハロルドを見つけて攻撃しようと構えた瞬間だった。  とっさに身体が動いてハロルドをその背中に庇う。穏やかな生活で忘れかけていたが、ニコは王の勅命を受けてこの村に来たのだった。  王からの命令は簡潔で、単純だった。――命に代えても勇者を守れ。  ニコは王国軍の魔術師で、王の命令を受けた勇者候補の護衛だ。  けれど、そんな命令がなくたって、きっと命がけでハロルドを守っただろう。ハロルドはニコにとって愛しい養い子で、それから少し生意気な可愛い弟子だった。  魔族はハロルドのことを「愚かな女神の使徒」と呼んだ。世界にいくつか産み落とされた女神の使徒を殺すことが魔王の命令で、魔族はその命令を受けてハロルドを殺しに来たらしい。  無気力に告げられるそれらの説明は、聞けば聞くほどニコに絶望を突きつける。  何故ならば、目の前の魔族は魔王から勅命を受ける地位にあるということだ。  生まれや育ちがその地位に関係してくる人間とは違い、魔族は完全なる実力主義だと聞く。つまり、目の前の魔族は魔王に認められた実力者なのだ。  そして、実際にその攻撃を受けてニコは魔族の正体を知ることになる。魔族が繰り出した森を舐る黒い炎。その噂をニコは軍で聞いたことがあった。  ――黒焔帝。  魔王軍の四天王のひとりであり、たったひとりで国をひとつ滅ぼせるほどの実力を持った最強最悪の魔族だ。  黒焔帝はその名の通り、全てを燃やす黒い炎を操った。無詠唱で繰り出される黒い炎はニコの魔力すら焼き、緑の美しかった森はあっという間に焼け野原になった。  ニコはもちろん死力を尽くして戦った。けれども炎を使う黒焔帝と植物を操るニコでは、魔力の相性からして最悪の相手だった。ニコの美しかった群青の髪は燃え、白い肌は焼け爛れた。それでも何とか戦えたのは、場所が深い森の中だったからだ。  ハロルドに与えられた女神の加護に惹かれてか、それとも元からなのか。ハロルドとニコが共に住んだ村を囲む森には、水と植物の精霊たちが溢れていた。精霊は気に入った人間に気まぐれに手を貸してくれるが、幸運なことにニコは精霊に好かれる体質で、自分の魔力とは別に精霊の魔力も使うことが出来た。  木を焼く炎を収めるために、ニコは燃えない樹木を生やした。広大な森全てがニコの味方で、大気に満ちる魔素は精霊たちを通じニコに流れ込む。それでも魔族による破壊を止めることは叶わなかった。  迫りくる炎を防ぐために作った木の壁は呆気なく黒炎に飲まれ、村の家々は火に包まれた。  こちらの攻撃は次々と防がれて、相手には木の蔓ひとつ届かない。どれほど魔力を練っても、どれほど術式を展開しても戦況は悪化するばかりで、そのとき初めてニコは「人間」の限界を悟った。  四天王と呼ばれる魔族は災害と称される魔王に匹敵するほどの強さなのだ。ひとりの魔術師が戦って勝てるような相手ではなかった。  けれど、ニコは負けるわけにはいかなかった。ローブの中に庇ったハロルドは、ニコが負けた瞬間殺されるだろう。背後の村は跡形もなく破壊され、当然村人は皆殺しにされる。  それが分かっていて、退くわけにはいかない。杖を握りしめた右手に力を込めて、足は熱風に吹き飛ばされないように地面を踏みしめた。 「ハロルド」 「ニコ……?」 「生きろよ」  それだけを言って、ニコはハロルドの腕を掴み素早く詠唱を唱えた。そして、魔術を学び始めてからの十数年間、杖に溜め続けた魔力を全て解放する。魔術の発動対象はハロルドとまだ生きている村人全員。魔術の内容は転移魔術だ。  これはニコがこの村に派遣されて来たときから、研究していた魔術だった。  転移魔術は特定の座標を魔方陣で繋ぐことで遠距離の移動を可能にする魔術である。  汎用性が高く軍事にも生活にも使える便利な魔術だが、発動するためには稀有な空間魔術を扱える魔術師が必要な珍しい魔術だ。当然、植物魔術の使い手であるニコには扱うことが出来なかった。  しかし、ハロルドの住む村は王都から遠く離れた辺境の村だ。いつかニコだけでは防ぎきれない魔族に襲われたとき、援軍は到底望めない距離にある。  だからこそ、万が一の際にハロルドだけでも逃がせるようにと日々試行錯誤を重ね、ようやく自らの植物魔術を利用した転移魔術を作り上げることに成功したのだ。  ニコはこの魔法を今こそ使うときだと判断した。一度の転移で多量の魔力を使うため、戦いの最中に発動するのは悪手とも言えた。しかし、迷っている時間はなかった。  ニコが詠唱を唱え終えるとハロルドの足元に魔方陣が出現する。光り輝くそれは大きな花の形になって、人の身の丈ほどもある巨大な花弁でハロルドの身体を包みこんだ。  ニコの作った転移魔術は座標と座標を繋ぐものではない。ひとつの大きな植物の花と花を繋ぐのだ。  植物が根から吸い上げた水や栄養を自らの中に行き渡らせるように、ニコの花は人を運ぶ。本体は王宮にある女神の加護を受けた神樹の根元に植えて来たから、ハロルドと村人たちは瞬きをする間に王宮へと移動していることだろう。  また、この魔術のよいところは、一度人を運んだ花は魔力を使い切ってすぐに枯れてしまうところだ。つまり、転移対象を追跡することが難しく、緊急脱出用の魔術として使い勝手がいい。 「待って、ニコ!」  いやだ、俺も一緒にいる! と叫ぶハロルドの方を見る余裕はニコにはなかった。  魔術を発動した僅かな隙を突いて、黒い炎がニコの目の前まで迫っていた。杖に火が移り、杖を握っていた右手にまでその熱が届く。皮膚が焼け、手があっという間に燃え上がった。  その激しい痛みに悲鳴を上げそうになったけれど、ニコはそれを飲み込んで無理やり笑顔を作る。背後のハロルドに、無様な姿を見せるわけにはいかなかったからだ。  たぶん、これでニコは死ぬ。それならば、ハロルドが最後に見たニコは今、このときの姿だ。だから、せめて笑っていたかったのだ。  ニコはこのとき、ハロルドの望みを叶えなかった。それはおそらく、彼と出会って初めてのことだった。いつもであれば、ふたりの意見が分かれればニコはハロルドの考えを尊重していた。例えそれが間違っていても、失敗から学ぶことがあると教えればいいと思っていた。  しかし、今間違えば全てが終わってしまう。  ハロルドの叫びを無視して、ニコは花を咲かせ続けた。ハロルドを飲み込んだ花は地面の中に吸い込まれるように消え、その魔力の気配がどんどん遠退いていく。  ――よかった、これであの子は無事だ。  燃える杖を掲げて、ニコは黒焔帝に向き直った。  全身に巡る魔力を限界まで練り上げ、魔術を作り上げていく。このときニコは、このまま死ぬつもりだった。ハロルドは無事に逃がすことが出来た。勇者候補であるハロルドを守り、四天王のひとりを足止め出来たなら一介の魔術師としては上出来だろう。  生きることを望まなければ、満身創痍のニコにだってやれることはある。  自分と黒焔帝の間に、ニコは一本の巨大な木を生やした。  黒い炎でも燃えない、魔力で作り出された魔法の木だ。その枝は全ての悪意を跳ね返し、その葉は新しい命を芽吹かせる。生きとし生けるものを守り育むその魔術は、植物属性の魔術師が使える最も高度な極大魔術だった。    ニコは自分の命を燃やして木を芽吹かせ、精霊たちはニコの呼びかけに応えてその木をさらに大きく成長させた。根は一瞬で大地に深く根ざし、その幹は黒焔帝の身体を飲み込んだ。太く伸びた枝は幾重にも黒焔帝に巻き付いてその動きを封じていく。  聞こえた苦悶の声は自らのものか、それとも黒焔帝のものだったのか。  薄れゆく意識の中で精霊たちが忙しなくニコの周りを飛び回って、さらなる力を与えようとしてくれているのが分かった。しかし、ニコには精霊の加護を受け取るほどの力は残っていなかった。

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