3 / 42

第3話

(レジの締めも今日は僕がやるって言ったし、任せてる新作ケーキの宣伝用のチョークアートは次の出勤日に描くのでいいって言ってたし、なんだろう?) 「透さん、俺」  思い当たることがなく小首を傾げている間にも、伏見の髪から滴る雨粒が彼の頬をつうっと流れていく。  慌てて施錠し直すと、幼子がするように伏見の袖を引っ張った。 「あとで聞くからこっちきて。本当に風邪ひいちゃうよ」  彼は驚いた顔をしたが、黙って透についてくる。透は大人しい大型犬を散歩させるように彼の腕を引いたまま、店の奥にある厨房とショーケースの間にある二階の住居スペースに続く階段を登りはじめた。 「ちょっと待ってて」  玄関で伏見を待たせて透は部屋の電気をどんどんとつけていく。空調が音を立てて部屋を急激に暖めはじめた。  帰りたくなかった自室はあっという間に温もりと明るさを取り戻し、透は彼の突然の来訪をどこか喜んでいる自分に気づいた。 「どうぞ、入って」 「お邪魔します」  店舗と同じだけの広さがあるリビングダイニングに寝室にしてる洋室が一つ。家具など叔父が使っていたものをそのまま利用しているので店舗と同じアンティークな雰囲気が気に入っている。洗面所からタオルを手に戻るとリビングのテーブル前で上着を脱いでいる最中の伏見に手渡した。 「これ預かるね」  ダウンジャケットはぐっしょりと湿っていた。雪になる前の雨ですでにこれほど濡れてしまったのだろうか。風呂場に運ぶと浴室乾燥をかけ、追加のタオルをもって彼の元へ戻った。 「これでふいて……」 「ありがとうございます」 「冷たっ」  タオルを差し出した手ごと冷たい手でそっと握られ、透は驚いて身をすくませた。 「すみません、俺、手冷たかったですよね」  真っすぐに澄んだ眼差しが透に注がれているのを感じながら、名残惜し気に手を離された掌にタオルだけを押し当てる。 「そんな冷たい手をして……。風邪ひきそうだよ、伏見くん」 (手が触れたぐらいで……。学生でもあるまいし)    だけどただそれだけで、透の胸の奥で、とくん、とくんっとまた鼓動が高まる。若い彼との交流はいつもどこかきゅんと切なく甘いのだ。  シフトの確認をするためにメッセージを送ると、すぐに通話で返してくれて、続けて他愛ない会話を強請るような素振りを見せてくれる。  ケーキの箱を手渡す時に僅かに指先で触れたあとに見せる、いたずらっ子のような笑みはとろりと甘い。  買い出しで路上を歩くとき、さり気なく車から護るように引き寄せられる。その腕の逞しいさは心強いとすら感じる。  そんな小さな好意が今日の雪よりもずっと白く深く降り積もっていたから、透は彼からのわかりやすい愛情表現に寧ろ戸惑った。  幾ら相手から好意を感じているとはいえ、学生と社会人、アルバイトと店主。その線を崩してはいけないと常々自分に言い聞かせてきた。  しかしこの距離感、シチュエーションではその境界が曖昧に揺らぎそうだ。 (今日は駄目、今日みたいに人恋しい日に、これ以上踏み込まれたら駄目) 「とりあえず、温まらないと」 「ありがとうございます。……透さんの部屋、初めて入りました。思っていたとおり、綺麗な部屋」 「恥ずかしいな……。生活感があんまりないって言われる。僕はインテリアにこだわりがある方じゃないから、店舗と同じでこっちも叔父さんの趣味そのまま。それより、伏見君、こっちもひどいよ」  よく見ると履いていたダークグレーのズボンもすっかり濡れてしまっているようだ。僅かに背伸びをした透は、手にしていたバスタオルを彼の頭から肩下までを覆うようにかぶせる。そのまま幼い従妹にそうする様に濡れた髪を拭き上げてやった。 「後で着替えも持ってくるね。どうしたの? 雪がひどくなるって予報だったのに、傘買わなかったの? 君らしくないね」    咎めながらも世話を焼く手を止めぬ透に、伏見は眉を下げて、どことなく嬉しそうにしているのが呑気で困ってしまう。 「すみません」 「すみませんって……。寒い思いしたのは君だからいいけどさ、風邪でもひいたりしたら親御さんが心配される……、って一人暮らしだったよね。お母さま海外だっけ」  そもそも彼は母親が暮らすアメリカから自分一人だけ帰国し、わざわざ日本の大学に編入してきたのだそうだ。そのあたりの事情は透も詳しくは知らない。ゆったりと伏見は首を振った。 「……母は、こっちにいたって息子の心配をするような人じゃないです。仕事が忙しくて自分のことは自分でなんとかするというのが、我が家のモットーでしたから」 「そっか。だからこんなにしっかりした息子が育つんだね。他の学生さんよりずっと、受け答えがしっかりしてるもの、すごいなあって思う」 「それでも小さい頃は何かと世話を焼いてくれる人が傍にいるのが羨ましかったな」  綺麗な顔でちらりと意味深な視線を送られると、胸がどうしようもなくざわめいてしまう。 「意外だな。君みたいに何でもできる人は、そういうの煩わしいのかと思ってた」 「そんなことないです。それに俺のことを心配して、こんな風に世話を焼いてくれるような人は、透さんだけですよ。俺はそれが嬉しい」  再び、タオルを持つ手をきゅっとしっかり握られて、透はその冷たさにだけでなく驚いて彼を見上げた。 「伏見君? 離して」  頬を赤らめ身をよじるが、彼は何故だか離してくれない。視線をじっと透からそらさぬまま、そのままぐいっと彼に身を引き寄せられた。手は離されたが、変わらず距離は近いまま。透は離れる訳にも行かずにただ抱き締められる寸前のようなごく近い距離感に戸惑うばかりだ。

ともだちにシェアしよう!