1 / 1
欠片
その手帳を見つけたのは、叔父の一周忌の前夜だった。会場付近の実家に前乗りしていた私は、数珠を探して物置を漁っていた。
「良かった、あったあった」
ようやく見つけた小さな木箱を持ち上げると、下から年季の入った革製の手帳が出てきた。表紙には、「Kiyoshi Takayanagi」と筆記体で丁寧に書かれていた。──高柳清。叔父の遺品だった。奥さんに先立たれ、子もいない叔父の遺品は、弟である私の父が保管していたらしい。
勝手に読むのは野暮だと知りながらも、好奇心からつい、パラパラとページをめくってしまった。それは日記のようで、几帳面な字で日付とその日の出来事が綴られていた。私の名前も何度か出てきて、懐かしさに笑みがこぼれる。
その中のあるページでふと手が止まった。1日だけ非常に長文だったのだ。他は1日あたり1ページで収まっているのに、その日だけ3ページにも渡ってびっしりと思いが綴られていた。前のページから急に7年ほど飛んでいるその日──叔父が奥さんを亡くしてから7年後の日記だった。
--------------------
××年××月××日
人生、何が起こるか分からない。
この言葉には大いに同意する。なぜなら私もあの日、妻が事故で亡くなるとは夢にも思わなかったからだ。
「奥様が交通事故に巻き込まれまして──」
晩飯はなんだろう。昨日の残りのシチューだろうか。そう呑気に考えながら、会社で帰り支度を整えている最中だった。警察から連絡が入った。後のことはよく覚えていない。全てにぼんやりと霞がかかったようで、自分がどんな言動を取ったのか、まるで思い出せない。
ただ一つ、白装束を着せられ、花で埋められた棺の中の妻を見て、結婚式を思い出したのは覚えている。20年前のあの日も妻は、白い衣装に身を包み花に囲まれていた。はにかむ彼女を見て、私は世界一の幸せ者だと確信したものだ。その幸せがこんなにもあっけなく奪われてしまうとは、あまりにも残酷すぎやしないか。
最愛の人を失ってなお、生きていく意味などあるのだろうか。
初めの2、3年は、この考えが頭から離れなかった。しかし脱け殻になってなお、私の足は自然と会社へと向かった。普段通りに出社し、メールをチェックし、会議に出て、部下を指導し、同僚と飲みに行き……。そうして毎日繰り返してきたサイクルに運ばれているうちに、あれほど深かった悲しみはいつしか、少しずつ少しずつ凪いでいった。
かといって孤独が完全に晴れることはなかったし、ましてや再び恋に落ちることなどあり得ないと思っていた。片割れを無くしてなお指に光る結婚指輪が、独りで生きていく諦念と決意を物語っていた──君に出会うまでは。
察していたとは思うが、君は私の最も嫌悪する類の人間だ。チャラチャラした外見と、配慮に欠けた言動が気に食わない。とんだ外れくじを引かされたものだ、というのが率直な感想だった。
「奥さん、美人ですかー?」
新人歓迎会で横に並んだ君は、結婚指輪を指し、へらへらと尋ねてきた。
「そうだね、美人だったよ」
過去形であることと私の顔色から、大半の人間は顔をこわばらせる。そして焦りながら話題を変える。しかし君は、「いくら老けたからってひどーい」と無神経に続けた。早速クビにしてやろうかと一瞬よぎったがなんとか踏みとどまり、「死んだんだよ」とぶっきらぼうに答えた。
「へぇ、なんで」
さすがに黙るだろうと思っていた私は、驚き君の顔を見た。さっきまでとは打って変わって、君はひどく静かな目をしていた。
なんで、と私はオウム返しに君に尋ねた。すると、だって、と君は私を真っ直ぐに見据えながら言った。
「ちゃんと口に出さなきゃ忘れちゃいますよ」
思えばこのときから、私は君を意識するようになったのだった。後から知ったが、君も大事な人を亡くしていたそうだね。
生きるとは即ち、想像に裏切られ続けることであるらしい。君は、私が思っていたような軽薄なだけの人間ではなかったし、あれほど愛していた妻のことさえ、君の言う通り、こうしている今も忘れつつあるのだ。川底の石が、少しずつ水流に削られて小さくなっていくように。
全ての命はいずれ失われ、誰の記憶からも消えてしまう。確かにとても悲しいことだが、ならそこに意味などないのだろうか。
人生、何が起こるか分からない。
この言葉には大いに同意する。なぜなら私はあの頃、君に恋するとは夢にも思わなかったからだ。
「遅くまでどうもご苦労様でーす」
君が差し出してくれた缶コーヒーを受け取る私の手には、僅かに汗が滲む。
「ありがとう。しかしご苦労様、ではなくお疲れ様、だよ」
「オツカレサマデース」
諌めながらも君の声を聞くたびに、顔を見る度に胸がじんわりと温かくなる。
報われたいなどとは思わない。ただいずれ互いの人生が交わらなくなったとしても、君には事故や病気にならず、少しでも幸多き人生を歩んでほしいと願う。
私も独り生きていくのだろう。君と妻のくれた光を胸に。
--------------------
「あの、少しよろしいでしょうか?」
翌日、無事に一周忌を終え参列者が帰ろうとする中、私はある人を呼び止めた。
「はい?」
不思議そうに振り向いたその人は、部下として叔父と長年共に働いてきたらしく、もしかしたら日記の"君"ではないか──そう直感したのだ。
「……本日はお忙しい中、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそお招き頂きありがとうございました」
「それで、その……」
この人に日記を読んでほしい。そう思うのに私は躊躇してしまう。故人の秘めた想いを勝手に暴露することなど決して許されない。けれど何も伝えられずただ忘れられてしまうのは、あまりにも寂しいじゃないか。だって、叔父はあんなにも"君"を大切に想っていたのに。
日記の入った手提げ鞄が、ずっしりと重みを増した気がした。
「……納豆」
「えっ?」
「納豆に何かけます?」
口籠る私を見かねたのだろう。その人は唐突に尋ねてきた。
「……塩とラー油です」
意図が汲み取れず、おずおずと答えた。塩とラー油。一風変わった食べ方は、叔父に教わった裏技だった。幼い私の納豆に塩とラー油を勝手にかけてきた叔父の、得意げな表情が脳裏に浮かぶ。
「一緒ですね」
その人は柔らかく微笑んだ。
「消えゆくものには意味がないのか。……昔、高柳部長とそんな話をしたことがありました。部長に教わった納豆の食べ方を、部下に教えるんです。その部下は、部長の顔も名前も知りません。でも、なんというか、そうやってその人の生きた欠片みたいなものが、いなくなってからも散らばっていく。……なんかいいなーって思うんです」
「生きた欠片──」
口の中でそっと言葉を転がしてみる。
「それは、確かに素敵かもしれませんね」
その人は何も言わずに、ただ小さく頷いた。
私は結局日記を見せなかった。見せる必要などなかった。
叔父の日記は、今は私の引き出しの中で静かに眠っている。
ともだちにシェアしよう!