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第二部 兄が来た! 10
卯乃の自宅まで自転車を飛ばして四十分ほどかかる。現在夜の22時を回ったところで、門限の24時までに寮に帰るとすれば、卯乃の傍に居られるのは一時間足らずだ。
本当は何か手土産を買っていきたいが、コンビニによる時間すら今は惜しい。まずは卯乃の無事を確かめたい。
深森は自転車を降りると、古めかしい鉄の門を手前に引く。遅い時間だから静かに開いたが、それでも錆びのせいか、ぎいっと軋んだ音がする。
小さな傘の玄関灯はちゃんと灯っていた。すりガラスがはまった玄関の引き戸の向こうにぼんやり灯りが透けて見える。だが深森が来ると共に寝泊まりする真上の部屋は雨戸が閉まっていて様子がうかがい知れない。
スマホを取り出すが、まだ返信はないし、既読にもならない。
(電気をつけたまま眠っているのか?)
早く顔を見て安心したい。深森は呼び鈴を鳴らすため音符のマークの指を置くと、一呼吸してからビーっと呼び鈴を鳴らした。すると程なく、扉の向こうに人影が現れた。
しかしなんとなく違和感を感じて、深森は自然と身構える。
卯乃が玄関に向かってくる時の音は本当ににぎやかだ。二階からでも一階からでもとんっととんっと脚を踏み鳴らすように軽やかにやってきて、最後は上がり框から飛び込むように三和土に乗ったサンダルに着地して、待ちきれないように鍵を上にあげて、ガラガラと戸を開けてくれる。
だが待っても扉は開かれない代わりに、深森と変わらぬ大きさの人影が、誰何の声を上げた。
「こんな時間に、どなたですか?」
艶のある若い男の声だ。頭を過るのは写真で見た卯乃の家族の面々の顔だ。卯乃の両親か、それともなくば兄だろう。
(卯乃、秋には兄さんが帰ってくるといっていたが……。今日帰ってくるとは言っていなかった)
何も知らされていなかったことに対して、胸に少しだけもやっとしたものが広がったが、深森は居住まいを正して戸の向こうに呼びかけた。
「夜分遅くに申し訳ありません。卯乃さんの大学の同級生で、冴嶋深森といいます。卯乃さんいらっしゃいますか?」
するとカラカラと音を立てて引き戸が開いた。玄関の三和土に仁王立ちしていた男は、深森の想像通り、写真で見た卯乃の兄だった。
玄関のオレンジ色に近い光の下も艶めく黒髪にぴんっと立った耳、身長は深森とほぼ同じぐらいで兎獣人らしい、しなやかな立ち姿は凛々しく見える。怜悧で端正な顔立ちだがやはり血がつながらないだけあって、卯乃とはまるで似ていない。
(卯乃の、兄さん。黒羽さんだ)
名前を一度は聞いたことがあるような商社勤務で、海外赴任からこの秋帰国予定。学生時代から成績優秀、品行方正を絵にかいたような自慢の兄で、家族の中で最後まで一人暮らしに反対していた、卯乃を溺愛している兄。そこまでは実兄であるうさぎカフェの店長、睦月に話に聞いていた。
(……卯乃を家族で一番溺愛している、血のつながらない兄貴)
黒羽はまるで睥睨するような目つきで深森を見つめ返してきた。
「……卯乃とはどういったご関係で?」
実は姉の紅羽とは通話アプリを通じて挨拶をしたことがあるのだが、兄とは今が初対面だ。卯乃がどこまで深森の事を話しているのかは分からない。
深森は睨みつけてくる黒羽から視線を決してそらさず、真っすぐに見つめ返した。
「卯乃さんとこの夏から交際させていただいています。連絡が取れずに心配で、こうして伺いました」
「卯乃が、君と交際を?」
素直に話したつもりだったが、兄の反応は意外なものだった。
「交際している相手がいるなどと、僕はあの子の口から一言も聞いていない。嘘も大概にするんだな」
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