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二 雇われ店長の日常
『黙っておく代わりに、今度デートしてください』
心地よい声音で、真っ直ぐ見つめて、そう言ったアオイの顔が、脳裏に浮かぶ。
モップをかける手を止めて、八木橋は首を振った。
(いやいや、まさか)
アオイがゲイだというのは聞いているが、デートだなんて。自分はまだ若いアオイに対して、『おじさん』だという自覚がある。
「まあ、からかわれちゃったかな」
ハハ、と乾いた笑いを浮かべ、溜め息を吐く。店長のクセに、忙しい最中にケーキを食べていたのだ。呆れられても仕方がない。そもそも、高級クラブの店長といっても、所詮は雇われ店長だ。肩書きばかりで、他の従業員と大差はない。『アフロディーテ』は女神グループという風俗系経営の大型グループ傘下の店の一つで、店の所有者であるオーナーは別に存在している。言ってしまえば、八木橋は雇われのサラリーマンというところだ。特に二号店が出来てからは、二号店がオーナーが直々に面倒を見ていることもあり、一号店の重要度は下がったと言って良い。
「うん。頑張ってお店、綺麗にしなきゃ。僕にはそれくらいしか出来ないしね~」
鼻唄を歌いながら、モップ掛けを再開する。ナンバーワンホステスの美鈴のバースデーイベントは終わったが、ここから数週間は、美鈴目当ての客が続くだろう。当日は来店出来なかった客や、敢えて当日を外して美鈴を一人占めしたい客。当日も祝ったが、個人的にも祝いに来る客と、まだまだ誕生日は続くのだ。
(今日も忙しくなるぞっ)
アオイにデートに誘われたことなど、すっかり頭の中から追い出して、八木橋は掃除にせいを出すのであった。
◆ ◆ ◆
「店長、ケーキお裾分けー」
そう言って美鈴が差し出したケーキを見て、彼女の同僚であるホステスの咲菜が嫌そうな顔をした。
「ちょっと美鈴さん、いくらなんでもそれ3ホール目でしょ? 嫌がらせじゃん」
本日3ホール目のケーキを受け取り、八木橋は目を輝かせる。どのケーキも、一口か二口しか食べていない。客が手土産に持ってくるケーキは、どれも高級店のケーキばかりで、見た目も味も素晴らしいものばかりだ。
「そんなことないよ。美鈴さん、ありがとう!」
「咲菜ちゃんは来たばかりで知らないだろうけど、うちの店長は、ケーキなら一回に五、六個は平気で食べちゃう人なの。ご飯の代わりにホールケーキ食べたり」
「うっそ。ヤバすぎ」
「咲菜さんも食べてみれば解りますよ。このケーキは格別で……」
「いらなーい」
言い終わる前に、咲菜は控え室から出ていってしまう。美鈴は苦笑いして、その後に続いていった。
『アフロディーテ』の営業は、いたって平和だ。客を選ぶこの店には、会員しか入ることが出来ず、会員になるには会員からの推薦がなければならない。それ故、滅多におかしな客が来ることはなく、トラブルは起こらなかった。
客を待つホステスたちは、店先に陳列されたケーキのように、美しい。綺麗に着飾った彼女たちを送り出し、守るのが八木橋の仕事だ。彼女たちには笑顔で仕事をして貰わばければならない。八木橋は自分が、便りになる店長だとは思っていない。だが、寄り添うようにして、十年の間店を守ってきた自負はある。
「今日も、よろしくお願いします!」
店のオープンを合図して、今日も夜が始まった。
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