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DISC 01 / Intro - Wild Horses
伏せられた睫毛の落とす微かな陰翳 につい見蕩れ、彼は一瞬現実を見失った。
テーブルに置きっぱなしのマグ、ソファの肘掛けに伏せられている読みかけのペイパーバック。床に散らばった雑誌と、脱ぎっぱなしのソックス。乱雑なそれらとは対象的に、壁際にきちんと立て掛けられている楽器。いつもとまったく変わりはないそんな部屋のなか、ただひとつだけが違っていた。
ラグも敷いていない、年季の入った無垢材のフローリング。部屋の奥、ハング窓の下あたりに仰向けに投げだされた躰。どうしてそんなところで寝てるんだ、と眉をひそめながら、彼はゆっくりとそこへ近づいた。
おい、と声をかけながら引き起こそうとして、掴んだ手首にふと違和感を覚え――思わずびくりと離すと、それは人形の腕のように重力に従い、どさりと元の位置に落ちた。
「……?」
そっと頬に触れる。少しひんやりしているような気がした。
窓が開いているのかと見上げたが、そんなことはなかった。
名前を呼びながら揺り起こそうとするが、人形のようにまったく動かない。彼は思考停止したままもう一度、手首をそっと握ってみた。
――温もりはまだ感じるのに、心臓の動いている気配はなかった。
ゆるゆると首を振りながら立ちあがる。なにが起こっているのかわからなかった。わかりたくなかった。
自失の体で暫し立ち尽くす。再び名前を呼ぼうとしたが、彼には呼ぶことができなかった。返事がかえってこないことを確かめるのが怖かったのかもしれない――既になにもかも手遅れであることを、心のどこかでは察していたのかもしれない。しかし、彼はまだそれを認めることができなかった。
混乱しながらも、必死に落ち着こうと深呼吸する。そして、ようやく声になったのは「いま救急車を呼ぶから……、電話……いま、電話を――」という、現実的な対処を為そうとする言葉だった。
ポケットからスマートフォンを取りだし、震える指で155をタップしながら彼は、床の上のすらりとした躰を、その蒼褪めた顔を、もう一度見た。そして、もうあの目が開いて自分を見ることはないのだと、頭のどこかでそんな考えが過ったとき、緊急サービスの応答の声を聞いた。
どうされましたか? との問いに対し、反射的に口を衝きそうになった言葉に、彼は自ら打ちのめされた。
――死んでいる。
言葉のかわりに嗚咽が洩れ、がくりと膝をつくと、彼は震える手でスマートフォンを握りしめたまま泣き崩れた。
病院に着き、ストレッチャーが運ばれていくのを見送ると、彼は待合にあるクッションの薄い長椅子に力無く躰をあずけた。
院内は人気 がなく静まりかえっていて、彼は今日が日曜日であったことに初めて気づいた。以前ここに来たときも同じようにしんとしていたが、あれは確か夜だったと記憶を辿る。
冷たさを感じる白い壁、ライトを跳ね返しているつるりとした床、大きな掲示ボード。そこに貼られている何枚ものポスターをぼんやりと眺めていると、なんとなく見憶えのある、そのなかの少し色褪せた一枚が目に留まった。
『Say NO to Drugs』。薬物乱用防止を啓発するポスター。前回もこうしてあのポスターを見たことを思いだし、あれから三年が経ったのかと暫し茫然とする。つい昨日のことのようであり、もうずいぶん昔のことのような気もした。まさかまたこの椅子にこうして坐るなんて、思ってもみなかった。
ストレッチャーが運ばれていったほうに顔を向けながら、彼は壊れたスライド映写機のように脳裏に次々と浮かんでゆく、想起される記憶をみていた。出逢い、惹かれ、愛しあい、傷つけあい――それでも離れられなかった、眩しい日々。
――不意に視界がぼやけた。
彼はくしゃっと両手で髪を掻きあげ、そのまま頭を抱えると声をあげて泣き始めた。
誰もいないリノリウムの床のひんやりとした空気のなかで、彼の嗚咽と涙の粒が落ちる音だけが反響していた。
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