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DISC 04 / TR-41 - Time Is on My Side
「――あーっ、焦げた焦げた……。うっわ、真っ黒」
「なにやってんだまったく……もうどけ。俺がやる」
テディを退かせて自分がフライパンの前に立ち、ユーリは身を屈めて焜炉 の火力を調節した。
「火が強すぎるんだよ。バターはすぐに焦げるって云っただろ」
こんがりといい色になりすぎたエギーブレッドを皿に乗せ、いったんフライパンの底を流水で冷ますとしゅうぅ、と湯気が上がった。再度火にかけ、バターを多めに入れてフライパンのなかで回し溶かすと、残っている卵とミルクに浸したパンを並べる。
「簡単だと思ったのに」
「おまえはフライドエッグだって失敗するじゃないか」
そう云いながらユーリは、ふと思いついて冷蔵庫を開けるとハムと、何種類かあるチーズのなかからスライスされているものを取りだした。フライパンのなかのエギーブレッドをターナーでひっくり返し、その上にハムとチーズを重ねて乗せた。そして更に卵をふたつ出し、蕩け始めたチーズの上に割り入れ、胡椒を振って蓋をする。
それをじっと見ていたテディが、少し不満そうに云った。
「それじゃまるでクロックムッシュだ」
「ムッシュじゃなくてマダムだ。クロックマダム風。旨そうだろ」
「蜂蜜をかけて食べたかったのに……」
「その焦げたやつをやるよ」
ユーリが笑って皿を取りだし、絶妙なたまごの固まり加減でフライパンの蓋を開け、盛りつける。半熟に固まったたまごとちょうどいい焦げ具合のパンのあいだから、とろりとチーズが糸を引いていた。それを見て、テディが拗ねたように口先を尖らせる。
「……クロックマダム風のと焦げたの、一切れずつにしよう」
「うん? さて、どうするかな……俺は蜂蜜はいらないしな」
「蜂蜜なしで食えばいいだろ。最初はそのつもりだったんだから」
医者の見立てどおり三週間ほどですっかり回復したユーリは、マイクロウェーブオーブンからマグカップを出して自分のぶんの皿を持ち、軽やかな足取りでカウンターテーブルに移動した。テディも自分のカフェオレを作り、ユーリの隣に腰掛ける。
時計の針は十時を指していた。ブランチと呼ぶべき食事だ。
「……旨い。なんだこれ、最高だな」
「気に入らなさそうな顔してたくせによく云うよ。しかし、三週間毎日キッチンに立ってても、料理の腕はまったくあがらなかったな。大丈夫なのか、明日から」
つーっと伸びるチーズをフォークでくるくると巻きとりながら、テディは答えた。
「まあ、これまでもルカとふたりで適当にやってたんだから、なんとかなるよ」
「心配だな。ルカに教えたほうが、まだ見込みがあるか?」
「無理無理。俺は下手なだけだけど、ルカはそもそもやりたくないんだから、意味ないよ。あいつ、車だって自分で運転したくないんだから」
「くそ、坊っちゃんめ」
この日はルカがヴィノフラディ地区に新しく借りたフラットに引っ越す日だった。リフォームが終わったばかりの2 ベッドルームの広い部屋は、ルカが知りあいのインテリアデザイナーに頼んで家具や小物類、テキスタイルもすべて揃え、家電も新しいものが搬入されるのだと聞いていた。
テディは、いま住んでいるフラットは引き払わずそのままにしておくが、また以前のようにルカと一緒に暮らすことになっていた。そしてこれまでルカが住んでいたフラットには、めでたく婚約をしたマレクとターニャが入居することが決まっている。
「おまえ、あのフラットをそのままにしておくのはいいが、浮気用に使うんじゃないぞ。ルカじゃ物足りなくなったらいつでも来ればいいからな」
「ルカと同じこと云うなよ。もう浮気なんかしないって。……あの部屋はさ、なんていうか……戒めのために、ずっとあのままにしておきたいんだ。そんな場所に男連れこんだりするわけないだろ?」
「わかったわかった」
ユーリは笑って、焦げたエギーブレッドを口に入れた。「……苦いな。これ剥がして食ったほうがいいぞ。ところで、聞いたか? ジェシのこと」
「ジェシ? どうかしたの」
焦げた部分をナイフとフォークで器用に剥がしながら、ユーリは云った。
「エリーと好い仲になったんだってよ」
「エリーと!?」
「うん、なんだか、ジェシが撮りためてた写真の画像をエリーに送って、マイスペースやフェイスブックで使えそうなやつを整理しながら、ずっとチャットで話してたんだと。そしたらなんか気が合っちまって、試しにデートしてみたんだって云ってた」
「へえ、デートか……したことないな。いいなあ、なんか初々しくって」
「デートしたことないのか? ルカとも?」
「ルカとは寮 が同室で、会ってからずっと一緒だったし。デートもへったくれもないよね」
「……あんまり聞きたくもないが、他の男とも、まったく?」
「……ベッドに入るまでのプロセスって、経験ないね」
テディがそう云うのを聞いて、ユーリははぁーっと額に手を当て、溜息をついた。
「まったく、これだからゲイは即物的だって云われるんだ……そういえば俺もないが」
「ないだろ? ……っていうか、ジェシはうまくいったのかな。あいつ童貞だったんだろ」
「心配だな。俺の勘じゃエリーも経験ないぞ、たぶん。あのパソコンが恋人みたいな女がデートしたってだけでも驚きなのに」
「……デートかあ……」
たっぷりと蜂蜜をかけた焦げたエギーブレッドを平らげたテディが、煙草を咥えながらぼそりと呟く。
「なんだ、したいのか? デート。今度、日本に行ったときにでもしてみればいいじゃないか、ルカと」
ジー・デヴィールはこの冬、初の日本公演を行う予定になっていた。
三ヶ所七日間限りのライヴのチケットは、発売を開始したと同時に完売してしまったという。日本には二週間ほどの滞在になる予定だが、TV出演の話も既にいくつか来ていて、他に音楽雑誌の取材申込みも多数あり、忙しい毎日になるのは目に見えていた。
テディはうーんと唸って、深く吸った煙を吐きだした。
「行きたいけどな……京都とか。お寺を見てまわって、抹茶 と小豆 のお菓子が食べたい。でもそんな時間とれるのかな」
「ロニーに云えば融通を利かせてくれるさ」
「そっか。頼んでみよう」
「頼み方に気をつけないと、全員一緒に観光する気になるかもしれんぞ」
テディは笑った。
「それも楽しそうでいいけどね。……ユーリはどこに行きたい?」
「俺か?」
唐突に訊かれ、ユーリは目を丸くしてテディを見た。「俺は……そうだな。旨い酒が飲めるところに行って、朝まで何軒も廻りたいかな」
そう答えると、テディの表情がすぅ、と不機嫌そうな色に染まった。
「なんだよ、ユーリもデートしたことないって云うから訊いたのに……じゃあロニーとでも飲み歩きデートしてくれば」
ユーリは苦笑して、煙草を吹かして外方を向いたテディの肩に手をまわした。そっと引き寄せながら髪にキスをし、耳許で「……じゃあ、ルカに内緒で新宿二丁目行こうぜ」と小声で云ってやる。
「シンジュク? なにがあるの」
「フレディ・マーキュリーも行ったアジア最大のゲイタウン」
テディは小さく口笛を吹いた。
「そりゃ……行ってみたいな。行くだけなら問題ないよな」
「もちろん行くだけだぞ。ま、俺は童顔で肌の綺麗な可愛いのがいたら、消えるかもしれんが」
「日本人ってみんなそんな感じじゃないの? そしたら俺、ユーリを捜しにクルージングスポットに迷いこんじゃうかもね」
「おい」
煙草を指に挟んだままマグカップを持ち、テディは首を傾けてユーリを見つめ、ふふっと微笑んだ。
その蠱惑的な表情と仕種に、ユーリは自分がすっかりテディに参ってしまっていることにあらためて気づかされた。何度も繰り返し愛していると心に刻みこみ、だからこそ早くルカのもとへ還してやらなければと思う。
「あいつの引っ越しって何時頃終わるんだ?」
「予定では三時頃には終わるはずだって云ってたけど。まあ夕方過ぎまではかかるんじゃない?」
「手伝いに行ったりしなくていいのか」
「手伝いっていっても……ルカ本人が人任せでなにもしないのに、俺らがなにもしようがないよ」
それを聞いてユーリは呆れた。
「ほんとに坊っちゃんだな!」
暇潰しがてらにと、ふたりはアコースティックギターを向かいあわせに坐って抱え、曲作りをしていた。ベースになるアイデアを軸にいろいろコードやリズムを弄っていき、大まかに曲の構成ができたあたりでごく簡単なデモをポータブルレコーダーに吹きこみ、一段落とする。
時計を見るともう三時を過ぎていて、テディはテーブルの下辺りに転がしてあった、買い替えたばかりのスマートフォンを手にし、画面を確認した。
「なにもきてないから、やっぱりまだ終わってないんだよ」
「ま、時間どおりに終わるってことは滅多にないからな」
「うん……、ちょっと疲れた……」
曲作りの最中はものすごい集中力を発揮するテディは、そのぶんこんなふうに突然電池が切れたように、疲れや眠気を訴えることがよくあった。ギターを脇に置いてそのまま床のラグの上に寝そべるテディに「おい、風邪ひくぞ」とユーリが声をかける。
「うん……十分……、いや、十五分だけ……」
そう云ってすぅ、と寝息をたて始めたテディにやれやれ立ちあがり、ユーリはベッドの上からコットンのブランケットを取ってきた。
ギターをソファに凭せかけ、ブランケットをそっとテディにかけてやると、ユーリは添い寝するかたちで肘をついて頭を支え、テディの顔をじっと眺めた。――今夜からはもうこんなふうに見られないであろう、その寝顔を。
そのままついユーリもうとうとしてしまい、テディのスマートフォンが鳴ってふたりが目を覚ましたとき、時刻はもう七時を過ぎていた。
部屋のなかは薄暗く、半身を起こして窓のほうを見やると、薄いオレンジとペイルブルーの美しいコントラストの空が見えた。その後ろでテディが「え、さっきも? ――いや、ちょっと寝てて……違う、床で転寝しちゃってたんだって。……わかった、今から行くよ……」と、話をしているのに聞き耳を立ててふっと笑う。
「やばい、なんかルカすっかり機嫌悪くしちゃってる……。参ったな、ほんの十分寝るだけのはずだったのに。っていうか、なんでユーリまで寝てるんだよ」
「俺のせいかよ? おまえ俺に起こしてくれなんて云ってないじゃないか」
「そうだっけ」
フーデッドショウルカラーのコートを羽織り、テーブルの上の煙草とジッポーをポケットに入れると、テディは慌ただしく玄関に向かった。ユーリも後に続き、チャッカブーツの紐を締め直しているテディを穏やかな顔つきでじっと見る。
「じゃ、もう行くよ。なんかあんまり役に立てなくて――」
「テディ」
ユーリは言葉を遮って名前を呼び、振り向いたテディを見つめた。
合った視線を絡め取るように互いにゆっくりと近づき、キスをする。これまでに何度となく交わした、激しく煽情的な口吻けではなく、愛おしげに唇を喰むだけのキス。それを何度か繰り返して離れ、ユーリは「ルカをあんまり困らせるんじゃないぞ」と云った。テディが、少し不思議そうに小首を傾げる。
「……それ、前にも誰かに云われたような気が……、いやいいけど」
肩を竦めそう云うと、テディはドアノブに手を掛け「じゃ」と部屋を出ていった。
振り返らないテディに、ユーリはふっと笑みを溢した。
* * *
テディはヴィノフラディ地区へ行くトラムに乗った。
最近は、観光客の団体などにだけみつからないようにすれば、サングラス程度でこうして出歩いても滅多に大変なことにはならなくなっていた。それがわかったので、テディや他のメンバーたちもトラムや地下鉄、バスにまた乗るようになっていた。その便利さはバンドがブレイクする前によく知っていたから、こうして利用できればいちいちタクシーを呼ぶほうが面倒なくらいだった。
ジー・デヴィールは、ユーリ以外は皆ここで生まれ育ったわけではないが、それでもやはりプラハのバンドなのだ。地元のファンはメンバーをみつけても大騒ぎはせずに、ただ手を振ったり応援の言葉をかけたりしてくれる。ファーマーズマーケットへ行けば、困ってしまうくらいおまけを袋に入れてくれたりもする。
古くて新しいこの街が、テディはやっぱり好きだった。
トラムを降り、広い道を左に折れると街路樹の並ぶ石畳の通りに出た。歩道に沿って、ずらりと高級車が並んで駐められている。この辺りは高級住宅街で、ルカの越したフラットも十九世紀に建てられた重厚な建物だ。
もう陽は姿を隠してしまい、ユーリのフラットを出たときよりも濃いオレンジと深い青に空は染まっていたが、ナトリウムランプではない白い光の街灯が石畳に照り返されて、辺りは明るかった。
一度リフォームが始まったばかりの頃にルカと一緒に来たきりの、凝った装飾に縁取られた両開きの大きな扉をくぐり、広い廊下の奥にあるエレベーターで最上階まで上がる。建物はアール・ヌーヴォー様式で旧いが、最近リノベーションされたらしく設備は新しかった。こういう物件を選ぶあたりがルカらしくて、思わず笑みが浮かぶ。
部屋の前まで来てブザーを押すと、ドアが開いてむすっと不機嫌そうなルカが顔を覗かせた。テディは「悪い、遅くなって」と云ったが、ルカは口も利かず、それ以上ドアを開けようともしないので、もう一度「ごめんって。……入れてくれないのか?」と困った顔で謝った。
「……ふつうさ、こういうときはまだ終わらないのかな、もう行っていいかなって楽しみにして早めに来るもんだと思うんだよな」
「いや、そうだったんだけど、時計を睨んでたって時間が早く進むわけじゃないし。暇だったから、曲作ってたんだよ。そしたら疲れてつい寝ちゃって……」
ルカは眉をあげて口先を尖らせる。
「床の上で疲れて寝るようなことしてきたのかね……まあ、ユーリならいいって云ったけどさ。まさかこんなぎりぎりまで――」
「そうじゃない、ただの転寝だって云ったろ?」
テディはそう云って、ふいとルカから目を逸らした。「ルカが考えてるようなことなら昨夜たっぷりと済ませたさ。で、入れてくれないなら帰るけど?」
ルカはばたんとドアを閉め――またすぐに開けて、その呆れた表情を見せた。
「なんでおまえはすぐにそういうことを云うんだ――」
「ああもう、なんで俺にこんなこと云わせるんだよ――」
ふたりして同時に云い、顔を見合わせてぷっと吹きだす。それがまたおかしくて、ふたりは揃って声をあげ、笑いだした。
中に入ると、テディは感心したようにすっかり様子が変わっているセンスの良い部屋を見まわした。白い壁に淡いベージュ、グレーをベースにした落ち着いた空間に、差し色のティールブルーがきいている。
「すごいな。まるでどこかのホテルみたいだ」
「いくらかけたか云ってやろうか? 散らかし癖が直るかもしれないぞ」
エントランスには暖かそうな室内履き が並んでいた。チェコでは土足で室内に入らず、バチコリと呼ばれる室内履きに履き替える習慣がある。
東欧の辺りには室内で靴を脱ぐ国が多く、ハンガリー出身のルカやポーランドで暮らしたことのあるテディは、初めから喜んでそれに倣った。一度その習慣に慣れると、土足で部屋に入るなどありえないように感じられた。
ブーツを脱ぎ、バチコリに足を入れて部屋の奥へと進もうとするテディを、ルカが止めた。
「待った。なにか云うことは?」
「ん? なに……引っ越しおつかれさま?」
「疲れるようなことはしてない」
「……煙草吸っていい?」
「やっぱり白い壁にするんじゃなかったな。他には?」
「おじゃまします、とでも云えと?」
「違うだろ」
ルカは微笑みを浮かべて、じっとテディを見つめ、云った。「おかえり」
テディは目を見開き、そして照れくさそうに笑った。
「ただいま。ルカ」
どちらからともなく抱きしめあって、ふたりは唇を重ねた。
離れていたぶんを補おうとするかのような、長い長い口吻けだった。
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