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終焉は近づく
「国彦、もうすぐゴールデンウィークだろ?なんとか休みを取ってやるから、どこか遠いところに出かけよう。旅行でも行かないか?どこがいい?」
行為が終わった後、貞は脱力している国彦の体を抱き寄せた。
国彦はここに来てから、少しばかり体重が増えていた。
その分、抱き心地が良くなって毎週のセックスも楽しみになる。
「え、いいの?」
国彦が首をかしげると、貞がつけた赤い痕が見えた。
「ああ、どこがいい?」
「ええー、どこって……オレ、観光地とかよくわからないや。」
「そうか、じゃあ俺が決めよう。お前が気に入るかわからないが…」
2人はもう、お互いがいないことが考えられない心持ちでいた。
新婚夫婦のようにのん気に過ごしている貞と国彦だが、これも束の間の間柄に過ぎず、別れが近づきつつあることに、まだ気づいていない。
「おじちゃん、おはよう。」
翌朝、国彦が寝室のカーテンを開けて、話しかけてくる。
昨夜の行為など、ものともしないとばかりに溌溂とした様子だった。
18歳の若さがそうさせるのだろう。
貞の方はというと、まだ怠さが残っていて体が重いし、腰に痺れるような痛みが走って、起きて早々、湿布の世話になった。
「国彦、きのう言ってた旅行のことだけど、温泉はどうだ?」
寝室から出てテーブルについた貞は、国彦が出してくれたコーヒーを啜った。
カップを口元へ近づけると、コーヒーの苦味が鼻腔をくすぐる。
薄さはもちろん、ミルクと砂糖の量まで貞の好みどおりで、上手に美味しくできていた。
「いいねえ、オレ行ったことないもん。」
向かいに座った国彦が、ヨーグルトをティースプーンですくう。
「県を2つまたぐことになるけど、その間にもプラネタリウムとか、自然食レストランとか、いろいろ巡れるぞ。」
貞がコーヒーカップをテーブルに置き、ロールパンをかじる。
「いいなあ、楽しそう。」
貞に倣うようにして、国彦もロールパンを手に取った。
「ああ、楽しみにしてろ。」
温泉なんてジジ臭い!と返ってくることも考えていたので、国彦の嬉しそうな反応がただただ有り難かった。
──おじちゃんって、やっぱり優しい。
出勤した貞を見送った後、国彦はいつものようにタブレットで動画を見ながらコーヒーをすすっていた。
あと2週間もすればゴールデンウィーク。
その間に、2泊3日の温泉旅行に行こうと言ってくれたのが、とても嬉しかった。
思えば、誰かと遠いところへ旅行に行くのなんて、初めてのことだ。
引き取ってくれた里親も決して裕福ではなかったし、冬也との暮らしにもそんな余裕はなかった。
ここに来てからずっと、貞は優しかった。
服に毛玉がついていたり、ほつれが酷くなってもめったに買い替えることができなかったところ、ブランドショップまで連れ添って新しいものを買ってくれた。
ここに来るまでは食べ物だって、半額に値引きされた惣菜や菓子パンが多かった。
材料費もかかるから手の込んだものは作れないし、たまに外食してもせいぜい安いチェーン店しか行けるところがない。
それを聞いた貞は「食費をケチると後で体壊すぞ」と気をつかって、国彦が行ったことが無いような和食店やステーキハウスに連れて行ってくれた。
冬也との暮らしでは考えられなかった贅沢をさせてもらえて、もうたくさんというほどの満足を味わった。
ゴールデンウィークに行く温泉は混み合うけれど、30人前後が入れる大きな露天風呂があるらしい。
その気になれば泳げるぞ、と貞は行っていた。
──ちょっとお行儀が悪いけど、泳いでみようかなあ。今まで、援交とかパパ活とか、お金持ちの愛人になる女の子の気持ちがわからなかったけど、案外悪くないかも。今のオレとおじちゃん、大体そんなカンジだよね
国彦は、自分が誘拐事件の被害者であるという自覚を完全に失っていた。
1人しかいない部屋に、インターホンの音が鳴り響く。
「あれ?誰かな?」
そんな国彦だから、インターホンの音に反応すると、すぐにイスから立ち上がって廊下を歩いていき、無防備にも玄関ドアを開けてしまった。
出勤途中、貞はミニバンを運転しながら、自分を送り出してくれた国彦のことを考えた。
「いってらっしゃい、おじちゃん。なるだけ早く帰ってきてね。」
玄関ドアから顔を出して自分を見送る国彦の姿は、結婚直後の若妻にも、父親を慕う息子のようにも見えた。
その様子を思い出すだけで、気が引き締まる思いだった。
──今月中の仕事を滞りなくこなして、何としてでも国彦との約束を守らないとな
休暇中の過ごし方について、貞はあれこれ考えていた。
──スーツケースを買い足す必要があるな
旅館も予約しないといけないし。人気のある旅館は早くに部屋が埋まるから、急がないと。ああそれと、道中、人気 のないところに路駐してカーセックスしてみるのもアリだな
国彦との愛の生活で心身が若返ったような気持ちになった貞は、機嫌良くハンドルを切った。
「岩山さあん、今日飲みに行きません?最近付き合い悪いですよお。」
外回りに行く直前、若い女子社員たちが誘ってきた。
「あー、実は、親戚の子を預かってるんだ。昔、お世話になった人のお子さんだから、あまり無碍にもできなくて…」
「ええ、ざんねーん。」
女子社員たちの後ろにいたお局様が、鼻にかかったような声色でこちらを見た。
どうしても貞の気を引きたいのだろう。
最近、夫に離婚を切り出されたと聞いたから尚更だ。
──旦那も目が覚めたのか。無理もないか、こんな女とひとつ屋根の下…むしろ今までよく耐えたもんだな。新しい相手に恵まれることを願うばかりだ
「申し訳ないね。また今度、よろしく。」
普段なら忌々しくて仕方がないと感じるような相手だが、今なら紳士的なフリも余裕だった。
今日の仕事を終えた貞は、軽い足取りで会社の駐車場に向かって歩いて行った。
1時間ほど残業することになったが、国彦に心配をかけずに帰るには、問題ない時間だ。
──今日はまっすぐ家に帰って、2人で旅行中のスケジュールを決めよう
先ほど国彦から、「今日はおじちゃんが好きな塩サバを焼くよ。たまには和食が食べたいでしょ?」と連絡が入ったばかりだ。
それを受けた貞は急いで帰ろうと、歩みを速めていく。
「岩山さん。」
背後から野太い声がして、呼びかけに応じるように振り向くと、立派な体格をしたスーツ姿の男が2人立っていた。
1人は貞より歳上であろう中年、もう1人は20代半ばといったところだろうか。
「岩山貞さんですね?」
中年の男が近づいてきて、それに付き従うように、若い男も後に続く。
「ええ、そうですが、何か?」
「B市警察署のものです、参考人として、署までご同行願えませんか?」
近づいてきた中年の男が、警察手帳を見せてきた。
「参考人?何かあったんですか?」
「河井国彦さんの誘拐監禁容疑です。」
「はあ…何のことです?」
平静を取り繕ってはみたものの、動揺が隠せない貞の心情を見抜いたかのように、刑事の顔が少しばかり険しくなった。
「ここで詳しい話をするのもなんですから、とにかく署に同行してください。」
「ちょっと待ってください。1度帰らせてくれませんか?」
「おい、同行を拒否するのか!」
若い刑事が詰め寄ってきて、目の前に立ち塞がってくる。
刑事たちの態度は任意の同行ではなく、強制に近いものだった。
鼓動が早くなってきて、嫌な汗が止まらない。
「どうしても1度帰りたいんです。家で待ってる人がいるんです。あなたなら、気持ちわかるんじゃないですか?」
貞は情に訴えかけるようにして、中年の刑事の左手の薬指にはめられた指輪に目配せした。
「無駄だよ。あなたの家にはもう、誰もいない。」
中年の刑事がため息をつき、憐れむような視線を向けてきた。
「……え?」
「河井国彦さんは、つい先ほど連れ出されました。アンタ、もう終わったんだよ。」
若い刑事がさらに詰め寄ってくる。
貞は立ちくらみがして、その場にがっくりと膝をついた。
刑事の「もう終わったんだ」という言葉が頭の中で響きわたり、どんどん大きくなっていく。
国彦との満ち足りた甘い日々は、こんな形であっけなく終わった。
「国彦…」
4月中旬の風が、うずくまる貞の大柄な体を撫でた。
街ゆく人々はみんなして厚いコートを脱ぎ、あと2、3ヶ月も経てば、ジャケットもカーディガンも取っ払ってしまうだろう。
そのときが来たら、地元の夏祭りに国彦を連れて行こうと計画していた。
国彦の浴衣姿はまだ拝んでいなかった。
数ヶ月の間に国彦は顔も体も成熟し、色気を増した。
浴衣の袖をひるがえして、軽やかに歩く姿は艶やかで、それでいて可愛らしく、道行く人たちが見惚れてしまうに違いない。
しかし、今、貞の目の前に立っているのは、国彦とはまるでかけ離れた年季の入った古臭いスーツを着た、むさ苦しい男2人組だった。
体が言うことを聞かない。
手足に鉛の玉を縛りつけられたように、体のどこにも力が入らない。
「さっさと立て。署まで来い、いいな?」
2人の刑事が両脇から体を引っ張り上げ、貞は黒塗りの覆面パトカーに押し込まれた。
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