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序 普通に埋もれる一般人という願望

 所謂、普通に生きていければいいと思っていた。  目立つことなく、かといって落ちぶれることもなく。  平均的な人間として、普通に埋もれた一般人として、平凡に生きる。  そうやって生きていれば、強い悪意も好意も受けることはない。    良くも悪くも強い感情を他者から向けられれば、目立つ。  目立てば、誰かに叩かれる。そういうのは、面倒くさい。  付き合いはそこそこにして、深く関わることもなく、危うきには近づかない。  自分が存在にならないように注意する。  それが最も平和で利口な生き方だ。  異端も異形も糞くらえだ。自分だって、こんな自分が好きじゃない。  そんな風に思っても、自分の本音も本性も隠して生きるのは、しんどいもんだ。世の中の総ての人間にわかってほしいなんて微塵も思わないけれど。  ただ、少なくとも、この人相手には、醜い自分の本性も正体も、何もかも曝け出してもいいと、一瞬だけ思った。  そう思った相手が、まさか自分を殺そうと企てた張本人だとわかったら、ちょっとくらい人間不信になったって、バチは当たらないだろう。  こんな自分に罰を与える神がいるなら、そんなモノは要らない。この世界に救いなんかない。ハッピーエンドは、この身には起こらない。  神様なんか、無意味だ。  スマホのアラームが、けたたましく鳴っている。  もう何度目かも知れないスヌーズを止めて、紗月はのっそりとベッドから起き上がった。  歯を磨いて顔を洗って、コーヒーを淹れる。  ソファに腰掛けると、飼い猫が足元に寄ってくる。愛猫を撫でながら朝のニュースを聞ききつつスマホを眺めるのが、紗月の毎朝のルーティンだ。 「うっわ、マジか」    届いていたメッセージの名前に、紗月はあからさまに嫌な声を漏らした。  開く気にもならなくて、そのままスマホをテーブルに投げ置いた。 「久々に昔の夢みたのは、このせいか。嫌な予感しかしない」  いつだって突然に、忘れた頃に連絡を入れてくる。  紗月にとっては迷惑以外の何物でもない。 (折角、忘れてたのに。そのまま忘却の彼方に捨て去ってしまいたかったのに)  桜谷陽人からのメッセージを無視したまま、紗月は仕事に向かった。 〇●〇●〇  出勤すると、病棟は朝から慌ただしく、申し送りができる状態ではなかった。 「救搬ですか?」  夜勤の看護師に確認する。 「朝方、港区の倉庫が爆発炎上したヤツ! ドクターヘリ出したくても出せなくて、救急車で搬送してて何か所かの病院が受け入れてる!」  応えながらも手は採血と点滴の準備をしている。  この後も受け入れがあるんだろう。 「霧咲さん、待ってたー!」  後輩が抱き付いてくる。日勤のはずだが、既に涙目だ。 「人足りな過ぎて、やること多すぎて、もうバタバタで」 「大丈夫、大丈夫。焦っても仕方ないから、出来ることからやろう」 「はい!」  ぽんぽんと肩を叩くと、後輩が落ち着きを取り戻して、仕事に戻っていった。 (そういや、朝のニュースで、そんなのやってたな。でもあれ、人外が絡んでるだろ。どう見ても普通の爆発じゃなかったし)  国が隠蔽しそびれたオカルト案件だと思っていた。  巻き込まれた一般人がいたから、こんな普通の総合病院にまで搬送されているのだろうか。 「誰か、オペ室入れる人いる? スタッフが足りないんだけど!」  看護師長が血相を変えて声を上げる。 「うちの職員でも巻き込まれた人、いたみたいでさ。スタッフ不足なのよ」 「そうなんですね。私、入ります」  手を上げると、師長の顔がほっと緩んだ。 「じゃぁ、霧咲はすぐオペ室3番入って! あと二人、後藤と里原は救外のヘルプ! それ以外はICU残って!」  全員が返事して、それぞれの持ち場に着く。 「オペ室経験者、いて良かったわ。終わったらICU戻ってきて」 「無駄に年取ってるもんで。どこにでも行きますよ」  看護師長に笑って見せて、紗月は手術室へと走った。  仕事を終えて帰宅の途に就く頃には、日付けが変わりかけていた。  ぐったりと疲れた体を引き摺って、駅へと歩く。ギリギリ終電があって良かったなと思った。 「こんなに忙しいの、久々だったな」  呟いて、爆破事故を思い出す。  ニュースで映像を見ただけだったが、倉庫から吹き出した煙には、確かに妖気のようなものが混ざっていた。 (そもそもアレって、妖気だったのか? もっと人に近い気配だったような気も……まさか、呪い?)  人外の力を借りて行う呪術や呪詛は山ほどある。  そういうモノを好む集団がいるのも知っている。 (反魂儀呪《はんごんぎじゅ》が、また動き出したんだとしたら厄介だな。集魂会《しゅうこんえ》が壊滅した今、大きな反社は奴らだけだから、警察も全力を向けられるはずなのに。しばらく静かだったのに、なんで……)  そこまで考えて、紗月は思考を止めた。 「私には、関係ない。きっと明日も病院は忙しいんだから」  自分の命で駆け引きする仕事より、人の命を救う仕事がしたい。だから、看護師を続けている。どんなに忙しくても、看護師なら死ぬ心配もない。 「過労死は、するかもしれないけどね」  独り言ちて、から笑いする。  職場は仕事に前向きなスタッフばかりで環境もいいし、働き甲斐もある。経験年数も十五年近くなれば一通り何でもこなせる。今の仕事が自分には向いている。 「だから、これからも看護師を続けたいんだよねぇ……」  独り言は、懇願のように夜の空に吸い込まれた。 (一人じゃないな、二人……。気配からして、人間。武器を持っている、刀かな。もっと気配を消せるだろうに、敢えて晒して出方を窺っている)  そういう気配に気が付いてしまう自分が嫌だ。 (いつもなら偶然に巻き込まれる事件ばっかりだけど、コイツ等、明らかに私を取りに来てるな。あーぁ、どうしよ……)  このまま巻くか、対峙するか。  相手をするのは、それなりに面倒そうだ。 (でも、どこのどちら様かわからないと、また狙われるんだろうか)  それはそれで面倒だ。  悩んだ結果、紗月は大きく真上に飛びあがった。  足下に霊気を溜めて圧をかけ、落下速度を調整する。  追ってきた男と女の顔には、見覚えがった。 「あれぇ、反魂儀呪のバカップルじゃん。今更、何の用よ」  手に霊力を凝集して刀を作る。精巧な日本刀が表われた。  返事より早く向かってきた一倉湊の刀をひらりと避ける。 「俺も今更だと思うんだがね、うちの新しいリーダーが、アンタを勧誘して来いってさ!」 「新しいリーダー? あのガチムチの兄さんかね?」  横から飛んできた仁科楊貴の刃を体を低くして避けると、地面に着地した。 「そそ! 八張槐っての。あたしは正直、あんま好きじゃないけどさぁ。楓さんの方がいいなぁって!」  楊貴が振り下ろす刀を後ろに退けて、横に薙ぐ湊の刀を飛び上がって避ける。  近くのフェンスの上に着地した。 「楓さん? 新しいのが入ったんだ?」 「新しいってか、前からいたぜ。旦那にくっ付いてた、ちまいの。覚えてねぇかぃ? 今はソイツが巫子様だ」  飛び上がって振り下ろす湊の刃を、刀で滑らせて軽くいなす。 「あー、いたかもねぇ。あんまり覚えてないよ。私が反魂儀呪に潜入捜査してたの、何年前だと思ってんの?」  楊貴がフェンスの上に飛び上がる。 「そんな前じゃないでしょー。私たちのこと、知ってるんだから」 「俺はよーく覚えてるぜ。ケンを持っていかれたからなぁ!」  前から楊貴が後ろから湊が剣を振り下ろす。  素早く飛び上がり、地面に降りた。 「昔の話する男はモテないぞぉ、湊。少なくとも、私は好きじゃない」  刀を居合に構え、二人を見据える。  湊と楊貴の目が、一瞬、怯えを孕んだ。 「てなわけで、ガチムチの兄さんには、振られちゃったと伝えなさい!」  斬、と風よりも早く空気を切って、フェンスが真っ二つに割れた。  後ろに立っていた銀杏の木がずるりと静かに倒れた。  砂埃すらも上げずに、紗月はその場から去った。  湊と楊貴が捜索している気配を後ろに感じながら、ビルの上に飛び上がる。  駅を二つ分くらい越した辺りで地面に降りた。  空を見上げると、嫌味なほどに綺麗な月が冴え冴えと輝いていた。 「今日は疲れてるんだよ、マジで。家帰って寝たいよ」 「休める場所を用意していますので、一緒に来ていただけますか?」  紗月の言葉に返事をしたのは、スーツに眼鏡の不遇の鬼だった。 「久しぶりだね、化野くん。ちょっと男前になった? お誘い嬉しいけど、おばちゃん、今日は疲れてるから、家帰って猫モフりながら寝たい」  前に会った時とは、明らかに気配が違う。  何重にもレベルアップしている化野護の変化には、流石の紗月も驚いた。 「紗月さんの猫さんも、保護しています。だから紗月さんも、我々に保護されていただけませんか?」 「保護? てか、人の家に勝手に入るとか、職権乱用だぞ」  言いながら、別の気配が近付いてくるのに気が付いた。  湊でも楊貴でもない。この気配と遭遇するのは避けたほうが良いと紗月の勘が言っていた。 「わかったよ。とりあえず、一緒に行く。ここでゴネてても、良いことなさそうだからね」    護に促されるまま、車に乗る。  後ろのシートの隣には、既に人がいた。 「初めまして、瀬田直桜です。貴女が、霧咲紗月さん?」  ぺこりと頭を下げられた。  心臓が大きく揺れる音がした。 (そうか、だから反魂儀呪が動き出したのか。この子が、久我山あやめが災禍の種と恐れた、最強の惟神か)  きっとこの先に、自分が望む平凡も平均もない。  けれど、きっと避けられない。 (二十年も逃げてきたのに、ここで詰むのか? 諦めたくない。ないけど)  直桜が醸す絶対的な神気のせいだろうか。  もう二度と、普通の(こちら)側には帰ってこられない。  そんな予感がした。

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