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第5話 昔の話

 ベッドに紗月を寝かせて、布団をかける。  寝入る顔は子供のようで、とても年上の女性とは思えない。  膝を折ってベッドに凭れると、紗月の頬に指を滑らせた。 「寝堕ちるなんて、らしくねぇよ」  どれだけ酒を飲もうが、まるで水でも飲んでいるかのように酔わない。どれだけ疲れていようが、誰よりも動いて休まない。  それが清人の知っている霧咲紗月だ。 「ただ単に歳を取っただけかねぇ、姐さん」  起きていたら怒り狂いそうなセリフでも、紗月は寝息を立てたままだ。 (何故今更、反魂儀呪が紗月を狙う? 術師としての価値なら直桜や護の方がよっぽど高い。紗月はもう、盛りを過ぎてるだろ)  生きる伝説だ、最強だと持て囃されても、第一線で走り回っていた頃に比べたら、衰えはみえている。 「十年前がピークだったかなぁ。紗月も陽人さんも」  あの頃は自分はまだ若すぎて、紗月は只の憧れだった。  誰にも負けない強さが輝いて見えて、陽人の隣で笑う横顔を追いかけることしかできなかった。  半年間の期間限定のバディ。  13課に所属することを受け入れなかった紗月を口説き落としたのは、陽人のこの一言だった。  結果として、紗月がバディを組んだ唯一の存在が陽人になった。  紗月は13課を離れても結局事件に巻き込まれたり、協力を仰がれて渋々承諾したりと、周囲に振り回されて怪異に関わる羽目になっていた。  それでも頑として、13課には所属しなかった。  怪異に関わりのない、普通の人生を望んだのだ。 「あんな事件がなかったら、紗月はきっと、13課に残ったよな。あん時、俺がもっと大人で、頑張れてたら、今もこんな風に苦しめたり、しなかったよな」  紗月の髪をそっと撫でる。  きっと、この問いの答えは起きていても、もらえない。本心など、紗月は誰にも語らない。  十年前の事件の時に、心を全部捨ててきてしまったから。  地面に横たわる紗月の後頭部に向けられた銃口。  一歩間違えていたら、あの銃は紗月の頭を打ち抜いていた。生き残ったのは、ただの奇跡だ。その現実を、紗月自身が一番よく理解している。  あの時の光景は、今でも時々、夢に見る。  紗月の後頭部に銃を突き付けていたのは、バディだった陽人だ。  紗月は陽人に、本気で殺されかけた。  陽人が紗月を殺すつもりでバディを組み、潜入捜査を仕掛けたのだと、今でもきっと思っているだろう。 「本当は違うんだよ、紗月。陽人さんには口止めされてるけどさ、助けるつもりだったんだ。俺だけじゃなくて、陽人さんも。なんて言っても、今更信じてくれないだろうなぁ」  紗月がごろりと寝返りを打って、背中を向けた。  清人はびくりと上体を起こし、紗月の顔を覗き込む。  穏やかに寝息を立てる顔に、小さく息を吐いた。 「……知ってるよ」  ぼそりと返ってきた言葉に、心臓が震えた。 「敵を欺くために身内から騙して、助ける算段だったのも。作戦が瓦解して、仲間を死なせる羽目になったのも、全部、知ってる」 「なんで……」  思わず零れてしまった。  何故、それを知っているのか。  知っているのに何故、未だに陽人を許そうとしないのか。  13課に、帰ってきてはくれないのか。 「後から事実を知ったところで、あの時は怖かったんだよ。冷たい銃口で頭の後ろ、ゴリゴリ擦られた感覚も。ああ、ここで死ぬんだなって実感した絶望も、全部心に刻まれてる。あの時の恐怖は、今でも、消えないんだよ」  何も言えなかった。  只々、小さな紗月の背中を見詰めることしかできない。 「一瞬でも信じた男に裏切られた落胆と後悔は、後付けみたいな事実じゃ払拭できなかったよ。私は多分、本当はもう許してるのに、一生許さないような顔で、これからも陽人と向き合うんだ」  紗月が小さな声で淡々と語る。   普段の紗月からは想像もできない声で、姿で、本音を語る。 「でもあの時、清人がいてくれて良かったとは、今でも思ってる。もし清人がいなかったら、私はきっと、生きることすら放棄した、かもしれないから。それだけは、感謝してる。……ありがとね」    紗月が鼻を啜る音が聞こえる。  思わず手を伸ばし、清人は小さな体を抱き締めた。 「バカ清人! 何してんだ……」  清人の顔を振り返った紗月が、言葉を失くした。 「そうやって俺のこと労って俺の心だけ救って、終わりにすんのかよ。紗月はどうなんだよ。本当に俺がいて良かったか? 役に立ったか? 今でも俺は、お前の役に立ててんのかよ」  見下ろす紗月の顔に表情がない。  何を考えて、感じているのかも、わからない。 「本当に私の役に立ちたいと思うなら、もう私に関わるな。13課に呼ぶな。何があっても助けなくていい。野垂れ死んだら、それが私の寿命だ。そう思って諦めてくれるのが、一番有難いよ」  感情が昂る、なんてものじゃない。我を忘れた。カッとなるっていうのは、きっとこういうことだ。  頭が真っ白なのに、体だけは動く。  紗月に馬乗りになり、腕を掴んで組み敷いた。  無理やりに唇を押し当てる。抵抗を許さない力で抑え込んで、口内まで犯した。 「ぅっ……、んぅ……」  小さく零れる紗月の声さえも、愛おしい。  無理やりにこんなことをしているのに、気持ちが溢れて、止まらない。 「はっ、はぁ」  溢れた唾液が流れ落ちる唇に、吸い付いた。 「自分のこと、どうだっていいと思うなら、いっそ俺のモノになれよ。最強だろうが普通だろうが何だって良い。俺は紗月がほしい」  石ころのように色がなかった紗月の目に、ほんの少しだけ、光が差した気がした。 「それもいいかもしれないね。なんて、諦めたみたいに承諾されたいの?」 「それでいいって、言ってるだろ」  紗月に顔を近づける。  唇が触れそうな距離で、紗月が声を発した。 「私は別に、自分のことがどうでもいいわけじゃない。普通に生きたいだけだよ。普通じゃない場所で生きる清人とは一緒にはいられない」  近付けた顔が無意識に離れる。  紗月の顔は変わらない。口付ける前の無表情のままだ。 「紗月のいう普通って、何だよ」 「怪異が身近にない場所。安易に命を奪われたりしない環境。それが私の普通だよ」  直桜と違って紗月ははっきりと、自分が欲しい普通を主張する。  当然だ。そういう普通のために、二十年以上も生きてきたのだから。  ゆっくりと身を起こすと、清人はベッドから降りた。 「反魂儀呪の企てがはっきりするまでは、ここで軟禁されてもらう。紗月が望もうが望むまいが、呪詛でもかけられて操られれば紗月自身が人害になる」 「わかってるよ。有給も申請されちゃったし、一カ月はゆっくりのんびりさせてもらうから。あ、酒の補充はしといてね」  清人に背を向けて、紗月はまた寝息を立て始めた。  まるで何事もなかったように眠ってしまった紗月を振り返ることなく、清人は部屋を出た。

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