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scene 5. My Funny Valentine

 ライ麦パンにルッコラとドライトマト、モッツァレラチーズのサラダ、生ハムとサラミの盛り合わせ、フライドエッグ、作り置きのピクルスというシンプルだが満足感のある朝食――と云うにはやや遅い時間だったが――を摂ったあと。テディは食後の煙草を吹かしながら、カフェオレのマグをじっと見つめていた。  ここへ来て、テディは精神的にはだいぶ落ち着いたようだった。しかし、時折こんなふうに寂しそうな表情をしているのを、ユーリは既に何度か見ていた。おそらく帰りたくなったのだろう。自分が傍にいるにも拘らず、こんな顔を見せられることには少々不満を感じないではないが――だが、これでいいのだ。自分はテディを愛しているが、テディにとって自分は、ただの精神安定剤のようなものなのだから。  手を伸ばし、髪を撫でながらユーリは「テディ」と、名前を呼んだ。こっちを向いた顔にゆっくりと唇を寄せ、軽いキスをすると、ユーリは不思議そうにしているテディに微笑みかけた。 「……なに?」 「いや……なんとなく、早く仕事がしたいと思ってな」  ジー・デヴィールは昨年、アルバムをリリースしてヨーロピアンツアーを終えたばかりで、今は長めの休暇中である。  春頃から始動しようかという話は出ていたので、そろそろ来月あたりに全員でミーティングをし、おおまかなスケジュールを組んで曲作りなども始めるはずだ。ユーリがそう云うと、テディもうん、と頷いた。  そしてはぁ、と溜息をひとつ吐き、くるりとスツールを回して天井を見上げる。 「……なんかさ、いちばん楽しいことと仕事が同じって、休みのあいだになにやるかけっこう困るよね」 「おまえは本を読むのが好きだろう」 「そうだけど、ずっと読んでるとさすがに疲れるし。……そうだ、なんか甘いもの食べに行こうよ。今日は天気もいいし」  テディは甘いものが好きだ。その思いつきに顔を明るくするのを見て、ユーリはしかし首を横に振った。 「俺はあんまり好きじゃないし、気が進まないな。甘いものが食いたいのか?」  テディは答えず、ただ唇を尖らせた。  ユーリは辛党なので酒類のストックはたくさんあるが、甘いものはまったく買わず、部屋にはキャンディの缶すら置いていない。  むくれたテディの表情を見て、ユーリはくっと喉を鳴らして笑った。 「ま、それに関しては心配することはないと思うぞ」 「え?」  意味深な笑みを浮かべ、ユーリは時計を見た。  壁に掛けられたジョージ・ネルソンの時計の針は十時十分前を指していた。その斜め下にはモーターサイクルショップでもらったトライアンフのカレンダーも貼られているが、どうやら今日という日がなんの日なのか、テディは失念しているらしい。  もっとも、もう誕生日もクリスマスも特になにもしなくなって久しいと前に聞いたことがあったし、イベント事にまめなほうでもなさそうなので、失念どころかこれまでなにもしてこなかったのかもしれないが。 「そうだな、天気はいいし……、どこかへ出かけるのはいいかもな」 「ツーリング?」 「いや、それにはまだちょっと早い。とりあえずおまえ、着替えとけ。俺はこれ、片付けちまうから」  そう云うと、ユーリはカウンターテーブルの上の皿を手早く重ねてキッチンへと運んでいった。テディもマグやミネラルウォーターのボトルを運ぶ。俺が洗うよ、と云うテディを追いやって、ユーリは二枚ずつ重なった皿とふたつ並んだグラスをふと見つめ、寂しげな笑みを溢した。        * * *  ユーリがふっと笑みを浮かべるのを、テディは背後から見ていた。  今日は朝から、なんだかユーリが素っ気無い。さっきのキスも、まるで別れ際にするキスのようだった。  洗い物だって一緒にしたかったのに……と、テディがじっとユーリの背中を見ていると、ざーっという水音に混じって玄関のブザーが聞こえた。  ユーリが水を止めながら、こっちを振り返った。 「テディ、出てくれ」と云われ、玄関へ向かう。もう、来たのが誰なのかは見当がついていた。そういうことだったのかと、テディはドアの前に立ったままじっと立ち尽くし、こっちの様子を窺っているユーリを睨んだ。 「どうした、早く開けてやれ」と云うユーリに、ただただ申し訳ない気分になる。ふぅ、と一息つき、ロックを外しそっとドアを開ける――と、そこには真っ赤な薔薇一輪と、リボンの掛けられた小さな箱をふたつ抱えたルカが立っていた。 「ヴァレンタインさんにお届け物でーす」  おどけたようにルカが云い、テディは差しだされたふたつの箱と薔薇を受けとった。あまりにも気障で、こっちが恥ずかしくなるようなそのプレゼントには、ハート型のカードが添えられている。テディはちらりとルカの顔を見ながら、それを開いてみた。  『You're my(君は僕の) Valentine(大切な人).』 「……ルカ、俺……」 「箱は開けないのか?」  そう云われてテディは一瞬迷い、部屋に戻ってテーブルの上に抱えているものをぜんぶ置いた。  そうして、まずひとつめの箱に掛けられているオレンジがかった金色のリボンをほどく。黒い包装紙を捲ると見憶えのある黒字に金の文字が現れ、それがサモシュという、ハンガリーの老舗スウィーツブランドのものだとわかった。もうひとつの箱も開けてみると、中にはレトロな花模様の、金色に縁取られた白い缶が入っていた。 「これ、シュトゥメルの――」 「チョコだよ。それと、サモシュのクッキーの詰め合わせ。おまえ昔好きだって云っただろ、憶えてるか?」  忘れるわけがなかった――それは、テディが編入した学校の(ハウス)で、ルカと初めて会った日に云ったことだった。  嬉しかった――今の自分たちならもっと高価なスウィーツをいくらでも買えるのに、これを選んだルカの気持ちが。そして、自分がこれを好きだと云ったのを憶えていてくれたことが。こうして懐かしんで、ふたりのあいだに積もった時間を確認できることが、なによりも。  ルカは自分を愛してくれている――本当はわかっていたはずだった。それを見失ってしまうのは、ルカの所為じゃない。自分の問題なのだ。だからルカは部屋を飛びだす自分を止めなかったし、ユーリは不安定になっている自分をしっかり受けとめてくれた。おそらくふたりで話をしたりもしていたに違いない。だからルカはこうして自分の頭が冷えてから、ちゃんと迎えに来てくれた。  愛されている。ちゃんと、それを感じとることができる。自分はこんなに果報者だったのかと、昨日までの自分を思うと滑稽で堪らなくなる。 「初めて選んだバレンタインデイの贈り物としては、なかなか気が利いてるだろ? ……え、忘れてないよな? 憶えてないなんて云うなよ?」  こういうことを自分で云ってしまったり、返事を待たずに訊いてくるところがルカらしい。テディはくすっと笑い、泣きそうになっている顔を見られたくなくて俯いた。 「憶えてるよ……俺が投げ返したやつだろ。うん、まあ、いいんじゃないかな」 「マルツィパンは入ってないぞ。おまえ、嫌いっつったろ。……ま、これだけじゃないんだけどな」 「まだなにかあるの?」  少し潤んだ瞳をぱちぱちと瞬きながら、テディがその飄々とした顔を見上げると、ルカは照れ隠しなのか肩を竦め、部屋の奥の窓のほうを僅かな顔の動きで示した。  その様子を黙って見ていたユーリが先に動き、カーテン越しに下を見た。そして、驚いたように窓を開け、こっちを見ないまま云った。 「おい、ひょっとしてあれ……おまえの?」 「え?」  なんだろうとテディも窓に歩み寄り、ユーリに並んで下を見た。  そこには普段はない白い車が駐められていた。特徴的なフロントグリルと、白い雲と空の青をデザインしたエンブレムを見て、ユーリがルカを振り返る。 「BMW(ベー・エム・ヴェー)? 買ったのか」 「おう。650iカブリオレ」  それを聞いてユーリは口笛を吹き、テディはまじまじとルカの顔を見た。 「え、あの車、俺に?」 「いやまさか。さすがにそこまでは、な」  苦笑して、ルカは答えた。「俺とおまえ、ふたりのってことで。つまり、だ」  ふたりの、うちの車――その言い方自体がなんだかプレゼントよりも嬉しく、一輪の薔薇よりも照れくさく感じ、テディはあまりにも驚きすぎて、すっかり言葉を失ってしまった。 「しかし、おまえが自分で運転してくるとはな。あんなに面倒臭がってたのに」 「おまえとバイクでばっかり出かけられると、こっちは心配で堪らないんだよ」 「けど、そう云うならちゃんと車でどこかへ連れていってやらないと」 「もちろん行くさ。今から」 「今から?」  ユーリとルカが話すのを聞いていたテディが、また驚いて鸚鵡返しに尋ねる。ルカはひょいと肩を竦め、答えた。 「いちおうカルロヴィ・ヴァリのホテルを取ってあるんだ。温泉で躰をほぐしてゆっくりしたいと思ってさ。近場だけど、初めてのドライブにはちょうどいいコースだろ」  カルロヴィ・ヴァリはテディたちの暮らすプラハから車で二時間ほどのところにある、小さな温泉街だ。  湧き出る源泉の影響で水温が高いテプラ川を中心に、映画のセットのような十八世紀から二十世紀初頭頃の建物がずらりと並ぶ、美しいところである。街中にコロナーダと呼ばれる飲泉所があって、露店で売っている専用のスパカップで温泉水を汲んで飲むことができる。  ミネラルウォーターやリキュール、スパ・ワッフルが有名で、映画の街としても知られている観光地だが、もともとは富裕層向けの保養地として栄えたところだ。 「カルロヴィ・ヴァリかよ、爺臭ぇな……」 「爺臭い?」  テディが小首を傾げると、ユーリは苦笑した。 「湯治場なんだよ。ベヘロフカっていうハーブ酒があって、旨いジビエ料理が食えるんで何度か行ったことはあるけどな」 「爺臭いとか云うなよ。なあ、テディ」 「うん……俺とルカはハンガリーにもいたから温泉、好きだもんね。だから俺は爺臭いとか思わないし、行きたいけど……」  そう言葉を濁すテディをルカはうん? と怪訝そうに見た。 「あの……えっと、ルカがこうしていろいろしてくれるの、すごく嬉しいんだけど……」  云いにくそうにテディが言葉を押しだすのを、ルカは眉をひそめて聞いていた。ユーリもいったいテディがなにを云いだすのかと、心配そうに見つめている。  テディはそんなふたりの顔をちらちらと交互に見やり、云った。 「……せっかくだし、三人で行かない?」 「は?」 「えぇ?」  ルカとユーリは顔を見合わせた。 「ユーリは行ったことがあるって云うし、人数多いほうが楽しいじゃない。それに俺……」  テディはいたずらっぽく唇を噛んで微笑んだ。「ふたりとも、大好きだからさ」  ユーリは熱の籠もった表情でじっとテディを見つめ、ルカはやれやれと脱力したようにソファに腰掛け、天井を仰いだ。  急遽ドライブ旅行に出かけることが決まり、ユーリが慌ただしく準備をしているのを横目に――テディはルカに近づき、そっと耳打ちをした。 「そんな顔しないでよ。うちに帰ったらどうせずっとふたりなんだからさ」 「……まったく、おまえは云いだしたら聞かないんだからな……」  困った表情で自分を睨むルカに、テディは悪戯っ子のようにくすくすと笑みを溢す。  そうして暫し、じっと見つめあったあと――ふたりはいつものように、仲睦まじく口吻けあった。 - THE END - 𝖹𝖾𝖾𝖣𝖾𝗏𝖾𝖾𝗅 𝗌𝖾𝗋𝗂𝖾𝗌 #𝟦 "𝖬𝗒 𝖥𝗎𝗇𝗇𝗒 𝖵𝖺𝗅𝖾𝗇𝗍𝗂𝗇𝖾 [𝖢𝗈𝗆𝗉𝗅𝖾𝗍𝖾 𝖾𝖽𝗂𝗍𝗂𝗈𝗇]" © 𝟤𝟢𝟤𝟦 𝖪𝖠𝖱𝖠𝖲𝖴𝖬𝖠 𝖢𝗁𝗂𝗓𝗎𝗋𝗎

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