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第30話 疑念の種が芽吹く時

彼の心は、すでに「誰かの手の中」にある。 そしてその相手が誰かなど、考えるまでもない。 「……上司で、抑制の効いた男」 床から天井まではめ込まれた重厚なガラス窓に身体をもたせかけ、東京の街を見下ろしながらイーサンは無言で鼻を鳴らした。 泉に惹かれている……自分と同じ人種。 ――だが、まるで違う人間。 音川と自分を比べるつもりはなかった。 だが泉の目に映る彼の姿が、どれほど理想化されているかは容易にわかる。 『正しくある』ことに命をかけるような男。 しかし―― 『正しさ』だけで人を幸せにできると考えているとすれば、大間違いだ。 イーサンはゆっくりと笑った。 それなら、私は『間違う』方を選ぶ。キミを惑わせ、揺らし、思考の隙間に入り込んで――最後には、私無しではいられないように。 泉の、音川への信頼の強さは、オファーに際して行われた身辺調査の中でも特筆すべき項目として報告されていた。ルームシェアは一般的な生活スタイルであるが、それが上司の家でとなると、少々引っかかるためだ。 だが、若い感情は脆い。 強さの裏に、必ず揺らぎがある。 そして何より―― 泉の心の向かい先が「今ここにはいない誰か」であり、それは明らかに寂しさの形をしていた。 その寂しさを、満たしてやる。 まずはそれだけでいい。 イーサンは自分のオフィスから半身を乗り出し、近くにいた日本人アシスタントに軽く声をかけた。 「あとで、イズミに金曜の夜に時間を割けるか聞いてくれ。理由は……そうだな、“中間報告と今後のキャリアについての面談”。彼のスケジュールがブロックされているのは承知だが、夜まで私の身が空かないんだ。なんとかならないかな」 ――仕事の顔をした、私的な誘い。 キミの敬愛する音川と違って、私は仕事に私情を持ち込む男だ。 (イズミ、情熱は相手に伝わってこそ力を発揮する。 そんな計算すらできない男に、キミは不釣り合いだ) オフィスのドアを閉める直前で、「イーサン」と同じアシスタンとから呼び止められる。 「NY本社への出張に、泉君を同行させる件で」 「帰社と言ってほしいね。ま、10日足らずで東京に戻って来る身では仕方がないか」軽く笑い、アシスタントに話の続きを促す。 「先方へ連絡しておきました。指示通り、許可を伺うのではなく、事前連絡の体です。本社の人事部長からは早々に返答があり、感謝の意が記載されていました。他に手配することがあれば……」 「いや、十分だ。ありがとう。ああ、そうだ。イズミにはまだ知らせないでくれないか。サプライズとしてとっておきたい」 「きっと喜びますよ。いいなあ泉君」 「君たちは研修で行ったことがあるじゃないか」 「だからですよ!いま、オフ・ブロードウェイで気になるのがあって」 イーサンは無邪気に応えるアシスタントに笑顔を向けた。 「ああ、じゃあそのチケットも手配しておいてもらおうかな」 さらに残念がる部下の肩に軽く手を置き土産に期待するよう告げて、オフィスのドアをパタリとクローズする。 ニューヨークにある本社での研修は、泉の出向業務内容に含まれる可能性があることは契約書にて示唆されていた。ただし、敢行されるかどうかは明記していない。 この出張は、泉に渡航の経験が無いと聞いた時に決めた。 泉に世界を初めて見せるのは自分だと。 昨夜―― Barでほんの少し揺さぶりをかけただけで、泉は確実に動揺した。 競争社会で常に成功してきたイーサンにとって、守備と攻撃のタイミングを図ることは容易だ。 ――崩すなら、今だ。 ◆ ◆ ◆ イーサンとの会食があった夜、泉の帰宅は深夜を回っていた。 音川の声を聞きたかったが、いくら『いつでもよい』と言われているとはいえ常識的に遅すぎると判断し――堪えた。 『きみが帰ってくる場所になりたい』 ぼそりと低い声で落とされた言葉を、眠れない頭で何度も反芻する。 誰よりも尊敬して、 誰よりも惹かれて、 誰よりも、ずっと追ってきた。 けれど、音川はそれを知らない。 ――いや、気づいていないふりをしているのかもしれない――イーサンの指摘が、何度も頭によぎる。 いつもくれる優しい言葉、力強い体躯、美しいグリーンの眼差し…… その奥にある本音を、誰にも見せない人。 でも、時折、自分にだけは――違う顔を見せてくれていたはずだ。 一瞬だけ握られた手の戸惑い。 そして、あの夜確かに感じた絆。 信じているのに―― ぐらりと脳が大きく揺らぐような感覚と、足元からぐずぐずと沼に沈んでいくような不安定さが同時に襲う。 音川に嘘はない。 信じられないのは、自分自身だ―― イーサンの言葉に動揺させられた己に腹が立ち、悔しく、情けない。 泉は、言葉にできない想いの残像をかき集めるように、シーツに包まった。 ◆ ◆ ◆ 2ヶ月目に差し掛かり、泉が置かれている状況は確実に変化した。 これまで研修員扱いだったが、エンジニアとしての助言を求められることが増え、顧客との会議にも同席が求められるようになった。 やはり、外資のスピード感は凄まじいものがあった。 ついていけるかどうかなど、考える時間すら勿体ない。 帰宅後はシャワーを浴びるや否やすぐにベッドに倒れ込む。寝ておかないと頭が持たないからだ。朝は8時からイーサンと朝食を兼ねた打ち合わせに始まり、夜は22時まで脳が休まる時間はない。 日付が変わる前にベッドへ潜り込むことができれば御の字だ。 そして、眠りに落ちる直前に、「おやすみなさい」と音川へ一言だけテキストを送る。 すぐに「おやすみ」と返事が届く夜もあれば、朝に「おはよう」だったりもする。 そんな日は、恐らく副業のアプリ開発に集中し、気付けば丑三つ時――泉が知る限り、それはだいたい音川が寝室に行く時間だ――になっているからだろう。 何を学んだか、どういうことに感銘を受けたか、または疑問に思ったか。音川に話したいことは山のように積もっていく。 それがまた嬉しくて、活力に繋がっていた。 金曜の夜は、またカメラ越しにグラスを合わせ……楽しみで仕方がない。 しかし金曜の午後―― イーサンのアシスタントに、遅い時間の会議を告げられた。やんわりと日程変更を申し出たが、 「アメリカ本社所属のイーサンへ報告するための時間だよ。自社の定例会議とは、比べるまでもないと思うよ」と添えられて……。承諾した。 激務とは言え、金曜日は皆早めに退勤する。 顧客との会食が入っているメンバーもいれば、翌日早朝から接待ゴルフや釣りがあり早く寝たいという者もいて、一体どれだけ体力があるんだと泉は感心しっぱなしだ。 そんな中、自分だけが「自社会議で」と抜けるのは難しそうだ。 しかし、金曜日の帰宅は普段に比べると早いことに違いはない。 『少し残業です。帰宅したら連絡します』と音川に一報入れて、泉はスマホをポケットに仕舞った。 その様子を、イーサンは注意深く観察していた。 まるで獲物が自ら罠に足を踏み入れるのを、じっと待つ狩人のように。 オフィスから人影がぽつりぽつりと消え初め、空が群青色に染まり切る。 泉を応接室に呼び出すには、ちょうどいい頃合いだ。 イーサンは手元のタブレット端末に、音川の身辺調査票を表示した。 Kuba Otokawa 大阪府生まれ, 文学博士(哲学), 現職はC社最高技術責任者 クラコウにJakub Kowalski Otokawaで有効な住民登録あり(EU運転免許証所持) 10年前に自身が開発した暗号化アルゴリズムを電子決済企業に売却(価格非公開) そう簡潔に述べられた人物調査の下部には、ある海外メディアのレポートが添付されていた。 イーサンの目が光る。 こうも上手く情報が手に入るとは。 「面白い。コードを追ったら金塊を掘り当てたか」 暗号通貨や匿名決済が、違法薬物取引やテロ資金供与に使われているという話は、今や珍しくもない。 たとえ音川本人に悪意がなかったとしても、その技術が『どう使われているか』は問題視されるべきだろう。 イーサンは一旦タブレットを小脇に抱えて階下のコーヒーショップに降り、2カップ購入して戻ると泉に声を掛けた。 「今日はね、キミの今後のキャリアについて真剣に話したい」 応接室のテーブルにカップを向かい合わせに置く。 「わざわざ、すみません」 スタイリッシュな応接室で向かい合うイーサンは、相変わらず落ち着き払っていて、そしていつものように微笑んでいた。 上質な革張りのソファは、しっかりとしかし柔らかく泉の身体を包み込む。 「まず、キミの話題が本社の会議に出たことを報告しておこう。前例を超える注目度だよ、イズミ」コーヒーの温度に顔をしかめながら、イーサンが軽い調子で告げる。 泉は言葉を返さなかった。ただ、軽くうなずく。 ただ懸命に働いているだけで、評価まで気にする余裕などまだ無い。 「だが、そこでちょっとした懸念が上がってね。もちろん、事実確認の段階だが……」 イーサンが身を乗り出して、泉との距離を詰めた。 「ここだけの話にしておいてもらいたいだけどね……イズミ。少しやっかいな情報が回っているんだ、オトカワについて」 泉が顔を上げた。敏感に反応するその様が、イーサンをさらに駆り立てる。 「キミは、彼が学生時代に開発した暗号化プロトコルについて知っているか?――まあ間違いなく優れたものだが――それを利用する一部のプラットフォームが、グレーなマーケットでの取引に――それ以上に不穏な活動に関与しているという話がある」 イーサンはあくまで『事実を淡々と伝える体』を保った。 しかし、声のトーンにほんのわずかな毒を混ぜる。 「もちろん、彼の知らないところで起こっている可能性はある。しかしそれでも疑問は残るよね。この技術でどういった輩が得をして、誰がそれを『意図せず』支えたのか」 泉は返答しなかった。 ただ視線を逸らし、心で必死に『音川を疑ってはいけない』と叫び続けていた。 イーサンは泉の目前に数枚の資料を滑らせた。 Encryption Protocol and Global Financial Surveillance ――暗号化プロトコルと世界的な金融監視―― そこには、かつて音川が開発した暗号化技術が、海外のフィンテック企業に買収された後、マネーロンダリングの一部に利用された可能性がある、という英文のレポートが表示されていた。 政府系メディアに掲載された、匿名の専門家による指摘を引用している。 「れっきとした記事にもなっている。ま、技術が悪用されるなんて、よくあることさ。だが、我々の上層部はキミが『誰の元で育ったか』にも敏感でね」 泉は資料に目を通すふりをしながら、足先から身体が次第に凍っていくような感覚を覚えていた。 まさか、あの音川さんが―― イーサンが目を細めて口元に微笑を浮かべる。 「どうかな……そんな不安定な礎の上で、君の未来を築くのは賢明だと思うかい?」 その声は優しかった。まるで、親密な友人を案じるかのような口調。 「……音川さんは、そんな人じゃない」 ようやく絞り出した声は、明らかに震えていた。 否定したいのに、自分の中に疑念の種が蒔かれていることを泉自身が気づいていた。 ――役職付きとは言え、確かに音川の暮らしにはサラリーマン以上の余裕があるように思える。 ――あの、一緒に暮らしたマンションも―― イーサンは目を伏せたまま、ため息交じりに言う。 「ならいい。私はただ、君が盲信でキャリアを棒に振るようなことをしてほしくないだけさ。優秀な君には――もっと冷静な視点が似合う」 泉は口を開いたが、もうどんな言葉も出てこなかった。 イーサンに断りを入れて静かに席を立つ。 「ショックだろうが、これが現実だよ、イズミ。休みの間によく考えてごらん」 どうやって帰宅したのか自分でも分からないまま、スーツを脱ぎ、シャワーを浴びる。 答えのない夜の中、泉はまるで夢の中を泳ぐように眠れなかった。 しかし、音川に連絡する気にはどうしてもなれなかった。 今、声を聞くと事実を問い詰めてしまうかもしれない。 それとも、答えを聞くのが怖くて、何も知らなかったふりをするかもしれない。 そのどちらも――自分にはそぐわない。

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