31 / 42
第32話 きみに満たされて
美術館前を出発してまもなく、泉が「着替えを取りに帰りたい」と言い出したことで、音川も自分のクルマにPCを置いたままなのを思い出した。特に仕事があるわけではないが、遠出する場合の習慣で持ってきている。職業病というよりマシン依存に近い。
タクシーの行き先を泉のマンションに変更し、そこから音川の無骨な愛車に乗り換えてホテルに向かうことになった。長距離運転の後で車体に多少の汚れはあるが、高級車の部類に入るので、行き先が五ツ星ホテルであっても見劣りすることはないはずだ。
見栄とは正反対にいるような音川だが、泉を——大切な人を連れて行くのだから、多少は気になる。ああいう場所には、行動や持ち物で人の扱い方を区別する人間が必ずいるからだ。
——要するに音川は、自分を『泉の所有物である』と対外的に見せたかった。
事実、深層心理では、いつか上司と部下の枠を外した時——そう、なっていたいと願っている。
所有欲のない人間だが、所有されたい願望はあったようで——泉との時間がそれを気付かせた。
助手席をちらりと横目で見て、音川は「出向に送り出した日……」と語りかける。
「駅からの帰り道に、その背もたれにマックスの毛が数本着いているのに気がついたんだ」
泉は申し訳無さげに「すみません、僕の服からですよね。あの日はうっかりして」と無意識に自分の服を見下ろす。もうそこにマックスの名残は無いと分かっていても。
「それから家に着いて、コーヒーを入れにキッチンに行ったらきみと選んだ家電と食器たちがあって。ソファではマックスがずっと玄関の方を向いたまま箱座りだ。
……今日、東京に来る道中ね、もしきみが少しでも困難な状況にあるのだとしたら、問答無用で連れ戻そうと考えていた」
「音川さん……」
「会いたかったよ」
「僕も、です」
泉はうつむきそうになる顔を懸命に運転席へ向けた。音川からこぼれた言葉が、どれほど泉に喜びをもたらすのか知って貰いたかった。
「うん。ありがとう。激務の中でも、そう思ってくれて」
「激務……確かに周りを見ているとそうですね。要求レベルがかなり高いと感じています。全員が多言語を話す中、僕だけが英語すら話せないのも辛い。でも、音川さんに少しでも追いつく手段だと思えば、とても楽しいんですよ。仕事を頑張れば頑張るほど評価されますが、僕にとってはまるで、音川さんとの距離が縮まる毎に評価されるようで一石二鳥です」
「俺なんてすぐに追い越すよ」
「そのくらいの気負いでやってます」
音川は笑顔を向け、「そんなお疲れの泉クンに、くつろいでもらえるといいけど」と言いながら車をホテルのロータリーへ停車する。
キーを駐車係に預け、「さて」と泉へ満面の笑みを向けた。
「食ってみたかったんだよな、ここのケーキ」すでに1つ平らげて次の皿に目線を落としながら、ティーカップを持ち上げる。
「確かにすごく美味しい。甘さ控えめで、フルーツたっぷりですね」
泉はメロンのショートケーキをつついて、あっさりした甘み、という曖昧な味を始めて体感したように思っていた。
音川は合計4つのケーキを注文し、それらをふたりで食べられるように半分に分けて提供してもらっていた。見た目はさることながら、ホテルに着いてからの音川は立ち振舞いも外国人風なので、観光客向けの融通がきいたのかもしれない。
泉は慣れないエスコートをこそばゆく感じながら享受していた。しかし心地よいのは間違いない。
カフェの後は音川の提案で皇居の方まで散策に出ることになった。
晩夏を過ぎてもまだ蝉が鳴いている。
それでも、生い茂る木々の葉には秋の色がほんの僅かに差しはじめ、どこからともなく金木犀の香りが風に乗ってくる。
夏よりもずいぶんと高くなった空を見上げ、泉は立ち止まった。
「保木さんの件、ちゃんとお礼が言えてませんでした。ありがとうございます。安心して外出ができます」
「仕事は基本的にリモートワークだけど、買い物なんかはあの駅を使うからなあ」
「保木さん……、どんな様子でした?」
遠慮がちに尋ねる泉に、音川は保木の様子を事細かに話した。泉は当事者であり、誰よりもことの成り行きを正確に知るべきだ。省略せずに淡々と会話の内容を伝え、泉の反応を待った。
「嫉妬と焦り……ですか。そんな必要無いほどの経歴なのに……できるだけ早く、社会復帰して欲しいと思う。何年か後、仕事上なら会ってもいいかもしれません」
おおよそ被害を受けた張本人から出た発言とは思えず、音川は目を瞬かせた。『恐怖心を克服した』と言っていたのは喩えや強がりなどではなかったようだ。
「寛大だねぇ。その言葉を本人が知ったら気合が入るだろうな」
「気持ちにゆとりができたんだと思います。……離れていても、こうして音川さんが助けに来てくれると分かったから」
音川は、勢いで東京まで車を走らせてきたことを少々オーバーに心配しすぎたと今更ながら少し恥じた。しかし、それは泉の身が無事だったから思えることだ。
それに、こうして静かにふたりで、仕事を忘れて過ごす時間が生まれた。
「そうだ。あの部屋、住人が決まったらしいよ」
「場所がいいからすぐ埋まるんでしょうね。もう一部屋も?」
音川は軽く頷いた。「だが定期的に空き物件は出るよ。その時まで、俺の部屋に居ればいい」
「そのうち……空室が出ない方が、よくなったりして」
突然黙り込み、伏し目がちになった泉を一時見つめ、音川は呟いた。
「それは俺のセリフ。たった一ヶ月でこの喪失感だ……どうしようもないよね」
泉はパッと顔を向けた。
少しだけ冷酷さを含んだ自嘲を目の当たりにする。泉が好きな表情だ。
発言にほんの少しの後悔と、それでも言わずには居られなかった覚悟が混ざる。
「戻ろうか。少し風が冷えてきた」
泉の肩に、音川の長い腕が回ってぎゅっと引き寄せられる。
しかしすぐに離れていき、その温度差に北風に晒されたような寒気を感じてしまう。
音川からのなにげないスキンシップは、いつも泉の身体を熱くするのに、それが続くことはない。
◆ ◆ ◆
カフェの賑やかさとは異なり、宿泊者専用エリアはしんと静まり返っていた。自分たちの衣擦れの音すら、廊下に敷かれた絨毯に吸収されていくようだ。
イーサンに連れられて行ったBarも高級感があったが、こちらのホテルはさらに格式を感じさせる。
ここへたどり着くまでもラグジュアリー感があったが、音川が「どうぞ」とドアを開けたくれた部屋は、明らかに通常のツインルームではなかった。
全体的に黒を貴重とした和モダンの設えで、真新しい窓障子の明るさが映え、総檜の内風呂が発する森のような香りが部屋全体を包んでいる。
間違いなく、グレードの高い部屋だ。
さすがにこの場で金額を問い質したり調べたりはしないが、普通のサラリーマンが思いつきでほいほい泊まれるような部屋では無いことくらい、すぐに見て取れる。大人二人がゆったりと過ごせる余裕のある間取りに、インテリア雑誌から出てきたような寸分の狂いもない演出。
音川は間に合せで買った着替え等を入れたバッグをクローゼットにどさりと置き、ソファに身体を投げ出した。
その慣れた様子が、泉の神経をざわつかせた。
いつもこんな場所を使っているのだとしたら、イーサンの言うような黒い資金源が——
泉はうつむき、頭を小さく降った。
信じるには、自分の力だけでは足りない。材料が必要だ。
自分の糧として、イーサンに対抗する証拠として。
それが——あるのならば。
訊くことで、彼を信じていないと受け取られるだろう。
それでも、音川の助けがなければ、どうにもならない。自分の中にある闇に閉じ込められてしまう前に。
音川は立ちすくんだままの泉に、「どうした」と優しく声を掛けてくる。
「音川さん。……話したいことが、あります」
泉の声には戸惑いと決意が混ざっていた。
音川はソファに座ったまま、それを受け入れ、ゆっくりと頷いた。警戒も驚きもない、静かな受容。
このために用意した時間だ。
遊びは終わり、夜の帳が容赦なくふたりを閉じ込める。
泉は、音川の隣へと静かに身を滑らせる。
肩も膝も触れない、他人同士の距離。
「……今夜は……僕の我儘を聞き入れてくれて、ありがとうございます。ですが……急な宿泊にも関わらず、どうしてこんな贅沢な部屋を?」
「ん?このホテルの株を持っているから、多少は安く泊まれるんだが……」
「その資金は?」
「国税局かよ。まあ同じ部の人間として上司の給与は気になるところだろうな」
「そうじゃない。以前、音川さんは暗号化プロトコルを売ったと言った」
音川は微かに眉を寄せた顔を隣へ向けた。
泉は真っ直ぐ前を向いて硬い表情をしている。まるで、裁きを受けているかのように両の拳はきつく握られていた。
「……ああ、10年前だ。一体それと何の……?」
「ある人から、その技術が犯罪に使われていると聞きました。僕は事実を知りたい」
泉の声は震えていた。スタンドライトが灯るだけの部屋で、伏せたまつ毛が影になっている。
沈黙が、重たくのしかかる。
「……その通りだ」
その答えは想像以上に静かだった。
だが——その低い響きには、何年分もの疲労と悔しさが潜んでいた。
音川はとつとつと話を続ける。
「ちょうどその頃、仮想通貨は若竹のごとく伸びゆく市場で、たしかに俺のプロトコルは高額で売れたよ。でもな、数年後に……あの技術が特定の売買ルートで不正使用されていることを知った」
泉の拳が震える。飲み込めない現実が、視界を曇らせていく。
「どうしてそんな……あなたは、そこから資金を得て……」
泉の声に、少し険のある悲しみが混ざる。
「待て。先に行っておく。でないとこれからの話を冷静に聞けそうにないだろう?」
音川は、泉の肩にそっと手を置き、しっかりと両目を見つめた。
「——それは、大きな誤解だ」
泉は、こっくりと頷いた。音川のゆっくりとしたバリトンが、耳に沈んでゆき、感情の高ぶりによる生理的な涙が目に浮かぶ。
音川はつかの間、目を閉じた。
自分のこれまでの無力を言葉に置き換えるための時間が必要だった。
「……何度も申し入れた。正式なルートで、販売先にも、仲介にも。問題の企業については、技術顧問を通じての警告や、直接抗議もした。しかし……俺には法的に戦う権限がない」
「では……打つ手が……?」
「抗議は、できる。だが、『止める』ことはできない。俺はもう所有者としての立場がないんだ」
その言葉には、屈辱と怒りが混ざっていた。技術を生み出しながら、悪用されることに甘んじるしかない苦しみ。理想を掲げたはずが、現実の歯車の中で思い通りにならないという苛立ち。
「——あれは、透明性のためのプロトコルだったが、販売先にいたプログラマーによって改変されてしまった。匿名での取引を可能にし、それを新技術として再販売したんだ。会社を設立してね。その先が、問題だ」
音川は一呼吸し、言葉を選ぶようにそっと瞼を伏せた。
「販売された先は、いくつかの仮想通貨系ベンチャーだと聞いた。だが使用実態の一部が、匿名性を悪用した違法取引に使われていた。ブラックマーケット、マネーロンダリング……そういう闇の中でね」
泉の胸がじわじわと締め付けられる。
まるで音川の抱える痛みが流れ込んでくるようだった。
「いまでも、夜中に目が覚めることがある。もし、あの技術のせいで傷ついた人がいるなら、それは俺の責任じゃないのかと」
「そんな……音川さんのせいではないのに」
——性善説に基づいた世界が、悪い人間にいとも簡単に壊される。
ひどく悲惨で、リアルだ。
「ルートを辿った。調査会社も頼った。だが……途中で痕跡が消えたんだ。ギリシャの、ペーパーカンパニーで」
「……ギリシャの?」
音川は小さく頷く。
「存在するかどうかも怪しい、箱だけの法人だ。その先はどうしても辿れなかった。司法に訴えることすらできないんだ。……俺にはもう、著作権も、開発者としての法的立場もない。ただの第三者にすぎない」
二人の間に重い沈黙が落ちる。
それを吹き飛ばすように、音川が微かに息を吐いた。
「誰よりも、清廉でいたかった。でも、何も守れなかった。『透明性』という言葉で、電子の世界を少し良くできると信じていた。あのプロトコルも……誰もが正しく平等に恩恵を受けられると……そんな理想のつもりだった。……ようは、俺が未熟だったんだ。世の中に希望を持って疑わず、純粋で、無知で、世間知らずのな」
音川が苦笑とも言えない微かな表情を浮かべ、泉の目を見つめ返した。
それは、泉が好きないつもの自嘲とは全く異なった。
理想が歪められ、悪意に食われていく過程をただ傍観するしかなかった苦しさが滲む。
それでも……そこには逃げなかった男の精悍な瞳があった。
一瞬でもこの人を疑った。イーサンの言葉に引きずられて。
泉は、それが、たまらなく悔しかった。
(もう迷わない)
そっと腰を浮かし、音川に身体を添わせた。
ソファがわずかに軋み、音川が首を傾げ「どうした?」と尋ねる。
「僕……自分が嫌になったんです」
「……それが、金曜日に連絡がなかった理由?」
「はい……この件を聞いて……音川さんのことをほんの一瞬でも信じきれなかった。誰よりも誠実で、まっすぐな人だと知っているのに。僕は……弱くて……簡単に揺らいで……」
言葉がだんだんと細くなり、視線が床に落ちる。泉の瞳から、悔し涙がこぼれた。
「……ごめんなさい」
音川は、震える拳にそっと手を重ねた。
「謝らないで。こうして、きちんと話をするチャンスを与えてくれて、感謝している。それに……揺らぐのは、弱さじゃない。外からの言葉に引っ張られるのは、それだけ……真剣に考えているからじゃないかな」
「……僕は、もっと強くなりたい。音川さんを信じられる自分でいたい。ずっと」
それは、まっすぐな告白にも聞こえ——
音川の新緑の瞳が僅かに揺れる。
「ただの部下じゃないって、言って欲し……」
音川は泉を引き寄せ、強く抱きしめた。
しばらくそうして、このまま抱き潰してしまうのではと怖くなり、少し身体を離すと、泉の濡れた瞳とぶつかった。
頬を手のひらで包み、目の下に親指を滑らせる。
すこしくすぐったそうに細められた瞼は、そのままふんわりと閉じられる。
まるで音川を待っているかのように。
(こんなにも素直に、無防備に——俺を求めるのか——)
音川は、頬に置いた指先を首筋まで滑らせ、軽く引き寄せると、泉の額に口付けた。
決して誤魔化しなどではない、尊敬と、情熱を持った長い口付け。
そうしておいて唇を離すと、そっとこめかみへキスを落とし——
音川が首筋に顔を埋めた瞬間、泉の背筋に、鋭く甘い痺れが走る。そこを強く吸われる衝撃が背中を震わせる。
熱い唇が離れた後、音川は喉の奥で転がるように低く囁いた。
「歪むのは世界の方だ。俺はきみの信頼と共に在り続ける。信じてもらえなくなった日が、俺の最後の日だろう」
「そ、んな日は……絶対に、来ません」
泉の吐息は名残惜しさを存分にはらみ、音川の官能をさらに刺激するが——
ほんの少し触れていただけの指を絡め取るように握って、留まった。
音川の理性はまだ境界線を守っている。
けれど、泉の心はもう、その向こうに踏み込んでいた。
ともだちにシェアしよう!

