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scene 1. カブリオレで行こう Ⅰ
中央ヨーロッパにある共和制国家、チェコ。大陸性気候であるチェコの冬は厳しく、首都プラハの二月の気温は高くても3、4℃程度である。
この日も好天には恵まれていたが、鼻先に感じる空気は皮膚を切り裂くように冷たかった。まるで雪国の子供のように頬を赤く染めたルカは、グローブをつけた手でハンドルを握りながらゆるゆると首を振り、「莫迦げてる……」と白い息を吐きながら呟いた。
ルカがめずらしく自分で運転している車は、購入したばかりのBMW・650iカブリオレだ。優美な真っ白いボディはまだ来ぬ春を待つ高く澄みきった空の下、トラムを運ぶ線路と平行する道路を西に向かって走っていた。走行中も開閉可能なフルオートマチックソフトトップは、いまは影も形も無く仕舞いこまれている。
ニットの帽子を深々とかぶり喉を護るように頸にはマフラーを巻き、もこもことしたダウンコートを着こんだルカは、その流れるように美しいボディラインが道路に面した電器店かなにかのウィンドウに映るのを見て、もう一度繰り返した。
「やっぱり莫迦げてる……こんなにクソ寒いのに、なんでオープンにして走らなきゃいけないんだよ!」
助手席でブランケットに包まっているテディと、後部座席を独り占めにし、寛ぎきった様子で運転席と助手席のあいだに脚を伸ばしているユーリが、風に髪を靡かせながら声をあげて笑った。
ちょっとした言い争いから部屋を飛びだし、ユーリの住むフラットに転がりこんでいたテディを新車で迎えに来たルカは、初めてのドライブがてら温泉保養地として有名なチェコ西部の都市、カルロヴィ・ヴァリまで行くことを提案した。
ハンガリー出身で温泉好きなルカは、同じくハンガリーに住んでいたことのあるテディを喜ばせようと、バレンタインデイのプレゼントも兼ねてそれを計画したのだった。そして、テディは喜んでくれた。
だが、彼はどうせならユーリも一緒に、三人で行こうと云いだした。
テディが一度云いだしたら聞かないのは、ルカがうんざりするほどよく知っていることだ。しょうがないとルカは渋々それを承諾し、ユーリが出かける支度をしているあいだに予約したホテルへ電話をかけた。宿泊するのが二人から三人に変更になったのでもう一部屋頼みたいと伝えると、幸い部屋は問題なく空いていたらしく、ホテル側はかしこまりました、お待ちしておりますと丁寧に応えてくれた。
フラットを出て車に乗りこんだ三人は、途中ノヴィー・スミーホフ という大きなショッピングモールに立ち寄った。
ユーリは着替えなどを詰めたバッグをちゃんと持って出てきたが、テディは着の身着の儘、ルカと暮らすフラットを飛びだしたときの恰好だった。ルカはそれをわかっていたので、端からどこかに寄って着替えなどを買うつもりで、自分もなにも持ってきてはいなかった――わざわざヴィノフラディのフラットまで取りに戻るのは、ルカにとって時間と手間のかかる、面倒臭くてありえない選択肢だ。
三人はジー・デヴィールという、プラハを拠点にしているロックバンドのメンバーである。と同時にルカとテディは学生の頃からの恋人同士、テディとユーリはルカ公認の『ファックバディ』でもあるという、オープンリレーションシップを選択している関係でもある。
世界中で絶大な人気を誇る彼らは屋内のパーキングに車を駐めると、ルカとユーリはサングラス、テディはユーリに借りた伊達眼鏡と帽子で気休め程度のカムフラージュをした。高い天井と吹き抜けが開放的な店内は通路も広く、混んでいるとまでは感じないが、往き交う人々は決して少なくない賑わいだった。
ファストファッションの店でソックスなど下着類をまとめて買い、適当に目についたところで替えのシャツやマフラー、温水プール用のスイムパンツなど、それぞれ思い思いに選ぶ。それなりに準備をしてきたユーリもセーターと厚手のジャケットを、テディはゆったりとしたダブルフェイスのフーデッドコート、リブニットのタートルネックセーターなどを買った。
オックスフォードシャツとニットカーディガンしか選んでいなかったルカは、しっかりと防寒できそうな上着を買うふたりを見て、首を傾げた。
「そんなの要るか? 車で行くのに」
そう云ったルカに、テディとユーリのふたりは顔を見合わせた。
「え、せっかくのカブリオレなのに、ずっとルーフ閉めたままで走るの?」
「街中を出たらオープンにして走るんじゃないのか?」
「ばかかおまえら、今はまだ二月だぞ。オープンにして走ってたら頭がおかしいと思われる」
「いや、夜はともかく日中は開けて走っても大丈夫だ。暖房をつければ寒いのは顔くらいのはずだぞ」
ユーリは自信満々にそう云ったが、ルカは半信半疑な顔で眉間に皺を寄せる。
「いや、風邪でもひいたら困るし」
「だから上着とマフラー買ったんだってば」
「ああ、マフラー巻いてグローブつけてりゃ充分だ」
な。と頷き合うふたりに、ルカはいやいやと首を横に振った。
「そんな無理してまでオープンにしなくてもいいだろ」
「でも、きっと気持ちいいよ。オープンにして乗ろうよ」とテディが云うと、ユーリも横でうんうんと頷いた。
「俺ら、バイクで慣れてるしな。カブリオレだぞ? 風切って走ってなんぼだろ」
「そうだよ、暖房があるぶんバイクよりましだって」
「いやいやいや、冗談だろ? そういうのは五月頃まで待てって。いくら暖房つけたって寒いもんは寒いって。……え、嘘だろ、真剣に云ってる? テディ?」
テディはなんだか嬉しそうに、悪戯っぽい笑みを浮かべてルカを見つめた。
着替えの他にターキークラブサンドウィッチと飲み物やガム、煙草とたっぷり買いこんで、三人は車に戻った。テディとユーリはがさがさと紙袋から買ったばかりの服を出し、車の陰でさっと着替えた。
フルオートで仕舞いこまれてゆくソフトトップを見て「おーっ」と声をあげながら何故かハイタッチするテディとユーリに、ルカが呆れたように頭を振る。
「子供か」
そう云って着ていたジャケットを脱ぐと、ルカは紙袋をぱんぱんに膨らませているコートを取りだし、袖を通した。フードがブラウンのファーで縁取られた黒いダウンコートを着こみ、革の手袋をつけ、ニット帽とマフラーで完璧な防寒対策を施したルカの姿に、テディとユーリのふたりは肚を抱えて笑った。
「……な、なんだその恰好。おまえ、今からシベリアにでも行くつもりか?」
ひぃひぃと笑いながら憎まれ口を利くユーリにむっとしながら、ルカは答えた。
「うるせえ。俺はヴォーカリストなんだよ、風邪ひいちゃいけないんだよ。当然だろ」
「はいはい」
そういう自分はアルパカのブランケットまでしっかり買ったくせに、とルカがユーリを半目で睨む。と、ユーリはそのブランケットを、助手席に乗りこんだテディをすっぽりと覆うように肩から掛けた。それを見て、ルカはふん、と鼻を鳴らした。
「え、あれ、ユーリは?」
「俺は平気さ。鍛えてるからな」
後部座席に横向きに坐り、脚を伸ばしながらユーリはテディにそう答えた。ルカは肩を竦めて運転席に乗りこみ、カーオーディオを操作した。すると横からテディが手を伸ばし、ディスプレイに表示されているいくつかのアルバムタイトルのなかから『Live at Leeds DISC 1』を選び、再生ボタンを押した。
程無く、先ず聴こえてきた拍手の音のあと、凶暴なくらいの重低音が響き始めた。テディがボリュームをあげる。ギターを押し退け、主役は自分だと主張しているかのように唸りをあげるベースと、のっけからハイテンションで叩きまくるドラムの音が肚に響く。後部座席のユーリも「フーか」と呟き、にやりと笑みを浮かべた。
「――よーし、行こう !」
「行こう !」
テンションをあげるテディとユーリのふたりとは対照的に、ルカは萎れたようにやれやれと、深く溜息をついてアクセルを踏みこんだ。
ショッピングモールの駐車場を出て少し走り、ストラホフ・トンネルを抜けてからひたすら西へと向かう。ルーフを開けたままトンネル内を走るとさすがに騒音が酷く、排気ガスで汚れた空気の匂いがした。
イヴィニを過ぎ、環状道路のジャンクションの下を潜ってしばらくすると、途端に景色が一変した。右も左もなにもない、見渡す限りの平原。遮るものがない所為か、それとも車がスピードをあげた所為なのか、体感温度は下がる一方だ。
「……なあ、いいかげんルーフを――」
堪らずそう云いかけるルカに、テディとユーリは声を揃えて「だめ」と云い、カーオーディオから流れている〝Happy Jack 〟に合わせ、楽しげに歌い始めた。
「なあ、そろそろ運転替わろうか?」
ショッピングモールから出てから更に四十分ほど経った頃。温かいコーヒーを飲み干し、サンドウィッチで小腹を満たしてからは静かだったユーリが、後ろから身を乗りだしてそう云った。
「いや、いい。そんな遠くまで行くわけじゃないんだし」
ルカがそう答えると、それきりユーリはなにも云わなかった。
ブロンドに染めた髪を乱しながら、彼は黙ってサングラスをかけた顔を流れる景色のほうに向けている。すると突然、助手席のテディが膝に掛けていたブランケットをくるりと丸め、ぽいとユーリの足許に投げ入れた。
「? なにやってんだ、テディ――」
「後ろ行く」
「は?」
テディはシートの背に凭れるようにして躰を伸ばし、コンソールボックスを跨いで後部座席に移動しようとした。ルカはぎょっとしてスピードを落とし、ユーリも驚いた様子で慌ててテディの腕を掴んだ。
コートの裾をはためかせながら、テディがすとんと無事ユーリの隣に腰を下ろすと、ふたりは揃ってほっと安堵の息を吐いた。
「――ったくおまえは! 危ないだろ!? 動くなら停まるから、ちゃんと云えよ!」
「ルーフが開いてるから楽に移動できると思って」
「ルーフが開いてるから危ないんだよ!!」
「まあ滅多なことはないだろうが、あまりやらないほうがいいのは確かだ」
ほんとにおまえには驚かされる、と苦笑して、ユーリがまたブランケットをテディに掛けてやる。すると彼はその端を持ち、ブランケットをユーリのほうへ広げた。
「一緒に包まったほうが暖かいよ」
少し驚いたように目を丸くすると、ユーリはにっと笑みを浮かべ頷いた。
「そうだな、一緒に包まろう」
ふふっと楽しげに微笑んで、テディはユーリにぴったりとくっついた。その様子をバックミラー越しに見て、ルカが唇を尖らせる。
「どうしたルカ。疲れたなら運転、替わってやってもいいぜ?」
テディの肩を抱きながら、にっと皮肉っぽい笑みを浮かべユーリがそう云うと、ルカはゆっくりとスピードを落とし、路肩に車を停めた。
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