126 / 181

17-3.

 人間は神族より脆いのだと、トールは言った。だからなのか、トールに手当てを施されたロキの腕は少々大袈裟に包帯を巻かれた。  オーディンの投げたグラスが当たった額にも小さな傷ができていて、トールはそれまで大袈裟に扱い頭に包帯を巻き付けようとしたが、ロキはそれを断った。  ベッドで安静にしていろとまで言われたのだが、どうにも気持ちが落ち着かず、ロキは今一人で中庭の小さな溜池の縁に腰掛けている。  靴を脱ぎ、下履きの裾を捲って足をつけると冷ややかな温度が心地いい。池の水は透き通っていて清潔だ。おそらく定期的に手入れされているのだろう。  ロキは足先でぐるぐると水面を掻き回した。まだ日は高く、太陽の光が揺れる水面で煌めいている。 「なんだよ、人がせっかく歩み寄ろうとしたってのに」  腕に巻かれた包帯を撫でながら、ロキは毒づいた。  オーディンがオメガを拒む理由はなんとなく分かった。だからこそ入り込む隙があると踏んだのだが、オーディンの抱える闇は思ったよりも深いようだ。  以前のオメガに対して相当な感情を抱えていて、そのせいで、今ここにいるロキを受け入れられないのだろう。 「くそっ!」  ロキは苛立ち、水面を蹴った。  正直、オーディンの心闇など知ったことか、と思うのだ。 「最高神なんだから、周りのこと考えろっつうの」  もう一度、ロキは水面を蹴り飛ばす。 「|黄昏《終わり》を望んでる? そんなの知るかよ、おまえの事情で勝手に世界を終わらすな!」  また水面を蹴る。その水面にロキはオーディンのあの人を馬鹿にするような腹立たしい表情を思い浮かべていた。  それでも気持ちが収まらず、ロキは立ち上がりザブザブと池の中を進み、ちょうど真ん中あたりで、その姿に鱗を携え鮭になると、ぽちゃりと水中に身を落とした。  体全体をくねらせ、くぐもった水音をきくと気分が落ち着く。溜池の中にはロキの他に魚がいないのか、とても静かで、それが心地良くもあり物悲しくも感じられた。  ロキは自分が鮭に姿を変えられるわけではなく、本来自分は鮭なのかもしれないなどと、想像しながら水光を見上げる。  少しばかり気が紛れたかと思ったその瞬間、突然影が落ち、鰓を鷲掴みにされ、そのまま強引に引き上げられる。尾ビレを揺らすとさらに強く握られた。  水滴が周囲に飛び散る。驚き見上げた先にあるのは、青い左眼と肩からしなだれる艶やかな黒髪だ。  オーディンが、溜池に足を踏み入れ、鮭の姿のロキを掴み上げたのだ。 「夕餉のメニューに加えるか」 「よせっ、やめろよっ!」  ロキはすぐさま身を翻し、人の姿へと戻る。オーディンの手からは解放されたが、バランスを崩してビタリと池の中に尻をついた。  ロキは全身ずぶ濡れで、オーディンの服の裾もどっぷり池に浸かっている。 「なんだよ、俺が目障りなんじゃないのか」  ロキは締められていた首をさすり、悪態をつきながらオーディンを見上げた。  太陽光を背景にした最高神にはまるで後光がさしているかのようだ。 「おまえ、ずいぶんトールと仲良くなったようだな? たぶらかしたのか」 「は? 何言ってっ……うぐっ」  オーディンに濡れた衣服の胸ぐらを掴み上げられ、ロキは息苦しさから言葉を止めて小さく呻いた。 「トールのやつ、おまえに優しくしてやれだとよ?」 「ぐっ……くるしっ……」 「もう交わったのか?」 「なっ……に、言って……」  胸ぐらを掴むオーディンの手は緩まず、ロキは苦し紛れにオーディンの手を掴むが、たいした抵抗にはなっていないようだ。 「ああ、そうか、どうりで昨晩部屋に来ないと思ったら」 「ぐぅっ……」 「なるほどな、トールに相手をしてもらってたというわけか、さすが淫乱なオメガだな」 「そっ……ん、ぐっ……してなっ……!」  ロキの言葉は聞き入れず、オーディンは腕を振り下ろした、ロキの体を水中へと投げとばした。 「うぐっ……!」  次にオーディンは、池に倒れ込んだロキの髪を掴み顔を上げさせる。かがみ込んでロキの顔を覗き込んだオーディン自身の衣も、池の水に浸かっていた。 「今夜は部屋に来い」 「えっ、そ、それって……」 「やつの言う通り優しくしてやる」  オーディンはそれだけ言うと、掴んでいたロキの髪を投げ捨てるように手を解いた。  そして、ロキに背を向け、池から上がると、一度もロキを振り返らないまま立ち去ってしまった。  残されたロキは池の中に座り込んだまま茫然とその背中を見送っていた。  転んだ拍子に打ちつけた膝が痛み、腕に巻かれた包帯が解けかけている。掴まれたことで頭皮が痛み髪も数本抜けた気がする。 「どうせなら、今も優しくしてくれよ」  そのつぶやきは当然、オーディンには届いていない。

ともだちにシェアしよう!