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第3話 十分

「変なの」  孝哉は救急車の中でボソッと呟いた。 「本当だな。俺が呼ぶんじゃねえかなと思ってたけど。呼んでもらってるし、俺が乗ってる。いや、お前も乗ってるけど」 「何言ってんの。それよりさ、さっきから思ってたんだけど、痛くないの? 結構余裕で喋ってるよね」  付き添いとして同乗してくれていた孝哉は、だるそうに足を組んで俺を見下ろしていた。その綺麗な顔に張り付いていた死への執着は、いつの間にか剥がれ落ちて綺麗に消えていた。  死のうとしている顔しか知らなかった俺に、生きていく上での仮面をかぶって話しかけてくれている。横柄な態度とは裏腹に、視線は俺を気遣っていて、時折痛みに影響がなさそうな箇所を優しく摩ってくれていた。  俺にはそれが、自分がして欲しかったことなんじゃ無いかと思えて、鼻の奥に痛みを感じた。 「隼人さんさあ、もし入院になったらどうする? 今日は絶対帰れないだろうし……日中違う仕事してるんでしょう? 連絡とかは自分で出来るだろうけど、手続きとかさ……家族とか恋人とか、連絡する人いる?」 「あー、家族は遠いからいいや。恋人なし。いつからいねーかもわかんないくらいには、なし。俺、恋人といても楽器弾いてると集中しちゃって、つまんないからって振られるんだよ。いつもそう。だからもう、しばらくは一人でいいわと思って……って、おい。そんな憐れんだ目で見るなよ」  俺がそういうと、ふいっと顔を背けた。そして、長い髪で顔を隠したまま俺の足を摩る手が、さっきよりも優しさを増していく。  ただ、その優しさとは裏腹に、顔を背けたまま肩を揺らしているのが気になった。それはどう見ても、俺を憐れみながらもバカにして笑っている揺れ方だったからだ。 「おい! 今度は笑ってんのかよ!」  すると堪えきれなくなったのか、今度は天井を仰ぎ見て、あははと大きな声をあげて笑い始めた。運転席と助手席の救急隊員がギョッとしているのが目に見えるような、大きくて澄んだ響きの笑い声だった。  派手に骨の折れた患者と付き添い人が、救急車の中で大笑いをしている。それは異様な光景だろう。でも、柵の向こう側にいた孝哉を知っている身としては、むしろずっと笑っとけと言いたくなるほど、孝哉の笑顔は魅力的だった。 「悪かったな、独り身の寂しい老け見え男子だよ! ほっとけ!」 「あはは……あーごめん、ごめん。俺、こんなに笑ったの久しぶりかもしれない。まだ楽しいって思えるんだ、よかった」  涙を流すほど笑っていたその顔に、またうっすらと絶望の色が浮かび始める。それが進むとどうなるのかを知りたくなくて、俺は孝哉の手を握った。 「なあ、お前。あんなところにいたくらいだから、今やってることなんて全部どうでもいいだろ?」  孝哉は、さっきは振り解いた俺の手を、今は驚きながらも振り解こうとはせず、じっと見つめながら「うん、まあ。そうだね」と答えた。 「じゃあ、しばらく俺の生活の面倒見てくれないか? 面倒つっても、手が動くから大体のことは出来るから……掃除とか洗濯とか足を使うものだけ頼みたいんだけど」  すると、俺のその言葉に何か思うところがあったのか、突然摩っていた手がぴたりと止まった。 「孝哉? あ、嫌ならいいよ、ただほっとくとお前……」 「それ……一緒に暮らすことになるの?」  さっきよりも絶望の色を濃くした目で俺を見ながら、孝哉は言った。その言葉は、その表情と同じくらいに重く、もし触れることが出来たならすごくヒヤリとするんだろうと思えるくらいに血の通わない音をしていた。 「いや……通いでいいけど、全然。それより、何か気に障ったか? いや、普通ならこんなこと頼まないぞ。でも、お前ほっとくとどうなるか」 「いいよ」  俺の言葉を遮るようにそう答えると、まるでどこかで拾ってきた仮面をつけているような、薄気味悪い笑顔を俺に向けた。 「やるよ。生きてるから大学にもいくけど、朝晩の送り迎えと家事を手伝う。それでいい?」  開かれたものが閉ざされると、途端に孤独が襲ってくる。そんな経験だけを積み重ねていた俺に、孝哉の閉ざされた笑顔は重くのしかかった。 「ああ、悪いけど頼む。ちゃんと謝礼出すよ。それより、学生なの、お前? いくつ?」 「二十歳だよ。大学二年」  そう答えた孝哉の顔を見て、俺は気がついてしまった。おそらく、孝哉は二十歳で死ぬことを決めていたんだろう。その年までは、誰かに養われる必要がある。だから仕方なく生きていた。  でも、完全に成人してしまえば、もう誰にも文句を言われる筋合いは無い。そう考えて生きていた。  そんな諦めの響きをしていた「二十歳」を、俺は初めて耳にした。 ——こいつの希死念慮は、結構根深いんだな。  そんな思いが、胸にのしかかった。 「そうか……じゃあ、悪いけど、勉強の邪魔にならない程度でいいから、手伝って……」 「俺んちくる?」  俺の言葉尻を待たずに、孝哉は思い詰めた表情でそう訊いてきた。でもそれは、どう聞いても俺を歓迎してくれているようなものではなく、半ば諦めの籠った吐き捨てるような言い方だった。  それを聞いてしまうと、さすがの俺もカチンときて、傷が痛むからやめておけばいいのに、思い切り大きな怒鳴り声をあげてしまった。 「なんなんだよ、さっきから! 誰も一緒に暮らせとは言ってねーだろ! 通いでいいし、出来る時でいいつってんだろうが! しかもそんなに嫌そうな顔をしながら家に呼ばれても、誰も行かねーわ。イラつくならそんな提案すんなよ!」  感情が昂ると傷はより痛む。そんなことはわかっていたけれど、どうにも腹がたって仕方がなかった。優しい手で労るように振れるくせに、まるで虫けらでも見るような目で近くへと誘い込もうとする。  毒蜘蛛のようなやり口に、吐き気がした。 「あ……ご、ごめん。あの、本気なんだね? 一緒に暮らさなくていいって言ったの……」 「だから何度もそうだって言ってるだろ! ちゃんと話、聞いてんのかよ!」  完全に怒りモードに入った俺のその顔と声を受けながら、孝哉はなぜかまた「あはは!」と笑い始めた。それも、本当に心の底から楽しくてたまらないといった笑い方で、俺はほんの少しこいつと関わったことを後悔しそうになった。 「な、なんで笑ってんだよ……ちょっとこえーぞ」  怖気付いたようにそう返した俺に、孝哉は飛びついて来た。その顔は、大きな花がふわっと咲いていくように、柔らかく大きな笑顔を咲かせていた。  それは、思わず息を呑むほどに魅力的で、少し尻込みしてしまうほどに圧倒的な色香を放っていた。  思わずドキリとさせられる。その目に視線を絡め取られてしまった。 「うん、決めた! 隼人さん、やっぱり俺んちおいで。父親と二人暮らしなんだけど、今長期出張に行ってていないから。俺の家の方が俺が世話しやすいし。どう?」  その顔は、さっきまでとは違っていて、今度は明らかに心から歓迎してくれるようだった。 ——なんだったんだ、さっきの……。  一抹の不安と疑問が残ったものの、どう考えても三ヶ月ほど不自由な暮らしを強いられそうな俺は、迷いながらもその提案に乗ることにした。 「しかし、さっきまで死のうとしてたくせに、めちゃくちゃイキイキしてねーか?」  救急車はだんだんと速度を落とし、かかる重力とギアの音で病院に着いたことがわかった。前方の席から、ハッチバックを開けるために、人がまわり込んでくる。  バタバタと人が走り回る音が聞こえ、外には複数の医療関係者が状況確認をし合っている声が聞こえている。 「十分でしょ」  その騒音に紛れて孝哉が呟いた。 「なんか言ったか?」  聞き返した俺に向かって、また花が咲いたようにふわりと笑いながら、孝哉は答えた。 「隼人さんのお世話をする。生きていくのに、十分な理由でしょ?」  そう言って、開いたハッチバックからひらりと飛び降りていった。

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