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第7話 ゆらぐ

◆◇◆ 『お前のギターで歌ってると、俺の歌が死ぬんだよ。何度言っても直んねーだろ?』  自己主張が激しいと言われ、バンドをクビになったその日、俺の演奏は感情を失った。  今はただ、音符や記号と依頼人の意図を記したメモ書きを、ひたすら正確に追いかける演奏をするためにいる。だからといって無味乾燥な演奏をするわけではない。求められた感情を、それに見合ったやり方で載せていくことは出来るからだ。  手癖のように染みついた感情的なフレーズを、言われるままに挟み込んでいく。そのパズルのピースを依頼人が提供してくれれば、なおのことやりやすい。  俺は、ただそれを組み合わせて音を鳴らす。そいう人を必要としている人も、案外多い。今や安い金で仕事を引き受け、正確な仕事をこなすギタリストとして、一部の人間から重宝されている。 『隼人のギターどうこうじゃなくて、お前の歌が下手なだけなんじゃねーのか?』  そう言ってくれた人たちは、いるにはいた。でも、もう全てが手遅れになってからだった。俺の演奏に俺自身の感情が乗る日は、おそらくもう、永遠にやって来ない。  音の持つ感情に俺のそれを合わせようとすると、あの言葉が頭に浮かぶ。それを気にし始めると、途端に指が回らなくなるようになってしまった。音楽だけで生きていた頃は、死活問題になるため、病院にも通った。  体には、どこにも問題はなかった。心因性だろうと言われ、治る見込みがなかったために、事務所を辞めるしか無かった。 「フリーでも音楽はやれるだろう?」  嫌味のつもりで言われた言葉が、結局のところ、今の俺の生活を支えている。  最近ではそのことにも何も思わなくなっていた。昼間に働いているから、食うにも困っていない。求められればギターを鳴らす時間が取れる。趣味で弾く時には、それなりに自分らしい演奏をすることも出来る。却って幸せな生活を手に入れたのだと、そう思うようにしていた。  ただ、つまりはいつもどこか機械的で、誰かの心を動かすほどの力は持ち合わせない演奏しかしないため、ライブでの仕事はほぼ入らなくなった。そして、無くしたものを埋めていくように、正確無比な演奏力を身につけたため、録音する場合は重宝されるようになっていった。的確に仕事がこなせるため、皮肉にもバンドで演奏に思いをぶつけていた頃より、スケジュールは埋まっていることが多い。  それでも、時折心がカラカラに乾いてしまう日がある。そういう時に、あの階段の踊り場へ行く。あの場所で、毎日必死に生きている奴らを眺めながら、口から煙を吐き出し、自分が生きているという事実の確認をしていた。必死に生きている命の、煌々と燃える様子を見るのが好きだった。 ——俺にはもう出来ないからなあ。  そう思いながら、ただただ生きている自分に、あいつらの命の光を見せてもらえることを楽しみにしていた。  あの日は、その特別な場所には相応しくないほどに、今にも消え入りそうな命が浮かんでいたから気になった。ゆらゆらゆらめいて、悲しそうで、でもその色すらも薄くて、ほぼ感じ取ることが出来ないほどの、儚い光だった。  それは、美しい少年の胸元にどうにかしてくっついていたけれど、今にもそこからこぼれ落ちそうになっていた。 ——死にたがってる魂に会ったの、久しぶりだな。  それが、あの日の孝哉を見て、最初に感じたことだった。 ◆◇◆ 「隼人さん? 大丈夫? ねえ、起きて!」  両肩を全力で叩きながら、孝哉が俺を呼んでいた。ぼんやりとした景色の中で、そのキレイな顔だけが鮮やかに見え始める。真っ白な肌に、青みがかった黒髪が揺れていて、その中心にほんの少しだけ色づいた口が、忙しなく動いているのが見えた。  それをぼんやりと眺めていると、頬に軽い衝撃が走った。大粒の水滴が高い位置から落ちてきたことで、夢から完全に抜け出せるほどの刺激が生まれていく。 「……孝哉、泣いてるのか? どうしたんだよ、お前」  眠りから覚めたばかりで、まだぼんやりとしている俺がか細い声でそういうと、孝哉は、肩を叩いていた両手を宙に浮かせた状態で、ピタリと止まった。  元々大きくてこぼれ落ちそうな目が、眼窩から飛び出しそうなほどに見開かれた。そして、きゅっと眉根を寄せたかと思うと、浮いていた両手で、俺の頬を挟む。その時、立ち上がりのいい音が、俺の目を完全に覚ましてくれた。 「いでっ!」 「突然倒れて眠り込んだ人が、何で人のこと心配してるんだよ! どこか悪いのかと思って心配したのに!」  両手で挟まれた頬は、さらに力を込めて押しつぶされていて、答えようにも口が言葉を発せないような状態になっていた。どうやらかなり心配したようだ。無事だということを確認したら安心したのか、安堵の色が見える目に、また涙の粒が見え始めた。 「なんとか言えよ!」  謝ろうにも言葉が話せる状態ではなく、でも何か言葉を返さないとこれはまだ続くという堂々巡りの状態だった。俺は、仕方なく孝哉の両手首を掴むと、それを顔から勢いよく引き離した。  両手で等しく軽い力で引いたつもりだったが、左手に力が入りにくい高谷にはそれが強く感じたようで、左だけ思い切り外へと開いてしまった。そうなると、必然的にバランスを崩してしまう。  なぜか孝哉は、俺の上に落ちてくるようになっているらしい。体力が必要な生活をしているために、俺も多少は鍛えてある。それが役に立ったようで、お互いにケガはせずに済んだ。そして、背中を軽く摩って、怒れる黒猫を宥めすかした。 「あー、悪かったな。ごめん、ごめん。いやでも、お前の歌声聞いてると、めちゃくちゃ眠くなって。あれ、睡眠導入効果? それとも……」 「え? 俺、歌ってたの? いつ?」  すごく心地いい声で、あっという間に眠りに落とされたことを賞賛したかったのに、孝哉はまるでそんなことがあったなどとは信じられないという顔をしていた。  俺に共感覚を目覚めさせるほどの衝撃的な経験だったのに、本人はそれをしたことすら覚えていない。そんなことがあるんだろうか。 「お前、覚えてないのか? 小さい声だったけど、はっきり歌ってたぞ。身体中の骨が震えるような気がしたくらい、気持ちのいい声しててびっくりした。しかも、聞いてたら急激に眠くなって……そのまま寝落ちしたんだよ」  俺はただ、あんないい声の歌を身近に聞けたことに喜んでいて、それを褒めたいと思っただけだった。ただ、孝哉の顔を見る限り、本人は全く覚えていないようで、記憶がないということへの嫌悪感が勝ってしまったらしい。苦虫を噛み潰したような顔をして、黙り込んでしまった。 「俺、覚えてない。それに、体が……歌った後の状態じゃないよ」  不満げにそう呟くと、のそのそと体を起こした。床に座った状態でベッドフレームに背を預け、遠くへ意識を飛ばすように何かに思いを馳せていた。その何かが、あまりいいものでないことは、俺にもなんとなくわかる。 「歌った後は、どうなってるはずなんだ?」  俺には無い経験に好奇心が湧き起こり、そう訊いてみる。ただ、孝哉は口を引き結んでいて、答えが返ってくる様子が無い。話したくないのならそれでもいいかと思い、視線をデスクの方へと動かした。  ふと、さっきまでそこで石田を説得し続けていたことを思い出し、チリッと胃が痛んだ。Tシャツの上から痛んだ箇所を握り込むと、思わずふうとため息をついた。後輩とはいえ、あんなに説得に骨の折れるやつとは、出来れば一緒に仕事をするのは避けたい。  それでも、石田も悪人ではないため、コミュニケーションが理解しづらい性質であったとしても、パターンを覚えていけばそれなりにうまくやれるということを、教えてやりたいという気持ちもある。  最近ではその思いに挟まれて、常に胃が痛んでいた。  そんなことを考えていると、孝哉が俺のため息を自分に向けられた不満だと思ったらしく、申し訳なさそうに口を開いた。 「あ、ごめん。その、うまく説明出来なくて……」  そして、俺と同じようにTシャツの胸元を握り込んで、押し黙ってしまった。 「あ、いや、今のため息お前にじゃないから。さっきまで電話してた相手が面倒くさかったなって思ってただけ。わりぃ」 「あ、そっか。それなら……こっちこそ、ごめん」  勘違いで傷ついてしまった自分が恥ずかしくなったのか、少し頬を赤ながらそう答えると、膝を抱えて小さくなってしまった。その姿がまるで小動物にしか見えず、俺は思わず笑い声を漏らしてしまった。 「……なんで笑ってんの?」 「いや……なんか、よくわかんないけど、お前のその姿が、へそを曲げた猫みてーだなと思って」  艶のある黒髪の中に埋もれている顔は、突然訳のわからない例え話を始めた俺を、不思議そうに眺めていた。おそらく、今孝哉の頭の中ではつんとしている猫の顔を思い浮かべているんだろう。  孝哉は、頭の中の様子が簡単に予想がつきそうなほど、表情がくるくると変えていく。その姿が、とても愛らしかった。 「……へそ曲げた猫って、我儘ってこと?」  考えた末の結論が悪口だと思ったのか、拗ねて俺を睨みつけた。 「そこまでは言ってねーよ」  俺はそれを見て胸を撫で下ろした。  艶のある長い前髪の奥にあるキラキラとした目には、もう涙は浮かんでいなかった。

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