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第12話 ブースの中で

◆◇◆ 『ハヤトー! 久しぶりだなあ。足治ったか? 悪いな、見舞いに行けなくて』  ボーカルブースでヘッドフォンを当てたまま、その中に響き渡る声の主を探す。コントロールルームには、いつの間にか暑苦しいほどに真っ黒な格好をした男が、三人増えていた。 『耀(よう)さん、勝手にトークバックしないでよ。びっくりするじゃない』 『あはは、ごめんごめん』  コントロールルームでエンジニアさんに注意をされながら笑っている姿を見て、俺は言いようのない懐かしさに襲われた。そこにいるのは、俺の右目の視力が失われた日に別れてしまった、一生を共にするだろうと思っていた仲間たち、チルカモーショナのメンバーだった。  俺はブースを出て、三人と孝哉が挨拶をしているところへ合流した。孝哉とチルカのメンバーが顔を合わせるのは、今日が初めてだ。元々チルカのファンだった孝哉は、子供のようにはしゃいでいる。 「耀、久しぶり。足はなんとか治ったよ。在宅で仕事してたし、ずっと孝哉に世話してもらってたから、ちょっと筋力落ちたけどな」  そう言って孝哉の隣に立ち、「真島隼人でーす」と言いながらぺこりと頭を下げると、「知ってるわ」と耀は楽しそうに笑った。 「ちゃんと鍛えておけよー。足踏ん張れねえと、弾いててもいまいちしっくりこないだろ」 「まあな」  チルカのベース担当でリーダーの音村耀(おとむらよう)は、保育園時代からの俺の幼馴染だ。その頃からピアノを習っていた耀は、俺と一緒に練習したいからと言って、自分が習ってきたことを俺に教えてくれていた。そうやって二人で並んで練習した日々が、俺の素地となっている。  チルカが結成されたのは、俺たちが中学生の頃だ。  耀と俺はその頃からのメンバーで、他は完璧主義の耀とぶつかって辞めていき、出入りの激しいバンドだった。それが今のボーカル色田隼也(しきたしゅんや)、ドラムと打ち込み系を得意とする香西純(こうざいじゅん)が加入したことでようやく固定メンバーとなり、高校在学中にメジャーに声をかけられてデビューした。 「ハヤト、久しぶり。……俺謝ってもいい? しないほうがいい?」  純が耀の後ろからそろりと現れて、弱々しく声をかけてきた。  チルカは浮遊系の上モノと色田の声、それを支えるソリッドなベースとドラムが特徴なのだが、そのドラムプレイからは想像もつかないほどに、純は繊細で脆い性格をしている。身長も小さめでモジモジしていることが多く、バンドを始めた頃はファンからよく女の子に間違えられていた。  色田が俺にマイクを投げつけて眼球破裂した時、純はパニックを起こして倒れてしまった。当時のマネージャーは俺のことにかかりきりになってしまっていて、純の発作は、自傷が起こりそうなほどに酷くなってしまった。  耀が気づいてから純のかかりつけ医に連絡を取り、必死になって純を自傷から守っていたと、俺は後からマネージャーに聞かされた。そんなバタバタした状態の中、ことを引き起こした色田自身は、どこかへ逃げ出してしまっていて、しばらく行方不明になっていた。  あんなカオスな状況はなかなか無い事だろう。誰だって冷静に対処なんて出来るわけが無い。純の謝罪など、本来なら不要なものだと思っている。  そもそも色田自身が俺に一言も謝っていないのだ。他のメンバーに謝罪の必要性があるなら、真っ先にあいつがそれをするべきだろう。でも俺は、もうそれすら望んでいない。不思議なことに、色田に対する恐怖もすっかりなくなっているのだ。 「純、俺はお前が悪いと思ったことは一度もないんだけど、お前は謝らないと気になって仕方がないんだろ? じゃあ、謝罪お受けしますよ。どうぞ」  あの日のことは、純にはなんの否もなかった。むしろ俺は、あの事件のせいで純に怖い思いをさせてしまって、申し訳無かったとすら思っている。そんな怖がりがそのトラウマを抱えたまま、評判が落ちていくバンドの中で必死に頑張り続けているのだ。謝罪くらい、受けてあげてもいいだろう。 「ハヤトはいつもそうやって俺に優しかったのに……。俺は全然仲間としての勤めを果たせなかった。色田だって色々葛藤してたんだろうけど、気がついてあげられなかったし、二人が揉めても仲裁とか上手く出来なくて……。ごめんね。怪我してからも、辞めてからも、ずっと逃げててごめん。一度も会いに行かなくて、ごめん。……もう一度一緒に演るチャンスをくれて、ありがとう」  そう言いながらボロボロと涙を溢す純の頭を撫でていると、後ろに立っている孝哉が目に入った。それまでにこやかに見守ってくれていた目が、一瞬小さな怒りを孕んだように見えた。それは甘くて重たい怒りだ。  おそらく無自覚なのだろう、いつもよりもさらに子供っぽい感情がじわりと滲み出ている。それを見ていると、思わず俺の顔がふっと綻んでしまった。 ——なんでそんなに触るんだよ。  そう言い出しそうな顔のままの孝哉を見つつ純の頭を軽く叩くと、さらにアイツの感情が揺れるのがわかった。 「もう気にすんな。俺も今の生活が気に入ってるし、いい音楽も演れてるよ」  そう言って孝哉の方へと視線を送る。それを聞いていたくせに、何事もなかったかのようにふっと目を逸らした。でも、その視線の先に何を見ているのかは俺にはわかるし、こちらに向けられた頬が僅かに紅潮していることも俺にはバレている。  どうして俺が今の生活を気に入っていると言い切れるのかを、孝哉が一番わかっているからだ。 「そっか、良かった。俺たちがしたことは許されないけど、せめてハヤトが幸せに暮らせているなら良かったよ」  純は白い肌をほんのり染めて盛大に鼻を啜った。そして、無邪気に満面の笑みを湛えながら、「いい音録ろうね。俺たちにできることはなんでもするから」と言って手を差しだす。俺は躊躇わずにその手を握り返した。 「相変わらず、かっこいい手ぇしてんな、お前」  純の手は、それを持つ者と華奢で細身の体を持つ者とが、同一人物とは思えないほどにがっしりしている。それは、練習の鬼だけが手に入れることが出来る、硬くて豆だらけの、カッコいい手だ。変わらないその手をギュッと握り、俺は純と蟠が解消したことを確認しあった。 「あ、それよりお前たち、引き受けてくれてありがとうな。孝哉の親父さんから、バックやってくれる奴らがいるって聞いた時は、まさかお前たちだとは思いもしなかったけど。びっくりし過ぎて深く考えてなかったけどさ、本当にいいのか? チルカはこれからツアー準備に入るんだろ? 俺たちみたいな素人のバックなんて演ってる時間なんかないんじゃねーの?」  純と握手をして耀と話している間に、色田はその間をするりとすり抜けていった。無言のままブースに入ると、ストレッチを始める。それを見届けた耀が、なんでもない様子を装って、俺の問いに答えた。 「あーそれな、無くなったんだ。一から再調整中。理由は……わかるだろ?」  耀はそう言って、ブースの方へと視線を送った。いつも念入りにストレッチをする色田は、今顔を下に向けている。 「あいつ、また誰かをケガさせたのか?」 「いや、さすがにお前の時に反省したらしくて、そこまで酷く荒れることは最近は無いんだ。それでもやっぱり、それなりに衝突が激しくてなあ。新メンバーを迎えても、発表前に逃げられるってことを、もう五回くらい繰り返してるんだよ」  色田は、プラチナブロンドの短髪で、ゴツいアクセサリーをいくつもつけている。その上、全身真っ黒な服を着ていて、いかにもロックミュージシャン然とした姿をしているが、生真面目で努力家でいつも基礎を大切にしている。  レコーディング前には必ず喉を温めて来るし、もちろんストレッチやロードワークも欠かさない。ストイックであるが故に、天才肌のだらしないタイプが許せず、いつも衝突してしまう。  バンドの求める音を鳴らせるタイプには天才肌が多いらしく、遅刻癖や脱走癖があって、悉く色田と揉めてしまうのだそうだ。他のメンバーやスタッフが許せる範囲であっても色田が毎度激怒するため、そいつらは彼を嫌って辞めていったらしい。 「でもそれは色田が正しいだろ」 「そうなんだけどな。うまくやるっていうことも必要だろ? 無遅刻無欠席も大事だけれど、いい演奏をしてそれを残していくのが俺たちの最も大きな仕事だからな。遅刻癖やだらしなさは、ゆっくり治して貰えばいいんだからさ」 「でもそうなると、あいつが歌えなくなるじゃないか。あんな|形《なり》だけど繊細ちゃんなんだから。そうなる方が困るんじゃねえ? あいつが歌わないと、もうチルカじゃなくなるって思ってるんだろ?」 「まあ、な」  ある程度の準備が終わったのだろう。透明な仕切りの向こう側から、色田が俺を見つめていた。その瞳の中には、戸惑いの色が見える。 ——えらく弱気じゃねえか。  体の中心から優しく響き渡るような、その上轟音のような激しさも持ち合わせた色田の声は、努力に裏打ちされた自信によって支えられている。ただし、それは裏を返せば、努力する時間を取ることが出来なければ、途端に自信を失う脆弱な人間であるということでもある。  怖いから備える。色田はそれを徹底している。それが上手く機能しなくなる経験をしているからこそ、その恐れは強い。  あの瞳の中に激情の炎が燃え上がった日のことを思い出した。思わずぶるりと体が震える。あの日は、ライブ前に練習時間があまり取れなかった。チルカに人気が出始め、あちこちの取材を受けていたことが原因だった。  きちんと準備をする時間が取れなかったが、満員の客が俺たちを待っていた。色田もその状況の中では出来る限りのことをしていた。責められるべきは、それをわかっているのに無理をさせた事務所だと、今でも俺は思っている。  ライブが始まってしばらくは問題無く進んだ。メンバー全員が疲労困憊の状態の中、それでも演るのがプロだろうと思い、必死に駆け抜けようとしていた。色田の声は、普段の努力の甲斐あってか、その状況下にあってもいいパフォーマンスをしていた。  それなのに、ラストの曲の最中、あとワンコーラスで終了というところで問題が起きた。  色田のピッチが全く合わなくなり、本人も戸惑い始めた。それが、俺がチルカで最後に演奏した『スワングダッシュ』だった。

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