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第14話 ステージ

 二本のフェーダーを0まで上げる。それぞれ癖のようなものなのだろう、二人はきちんとボーカルマイクで自分の声が入るベストなポジションを選んで立っていた。ただ今は遊びの延長のような感じで歌い始めているため、ヘッドフォンをせずに素の声のままで歌いあっている。 「あ、これ……。スワングダッシュだね」  歌い始めの言葉を聞いて、二人はすぐに反応した。コントロールルームの壁に設置されている巨大なスピーカーから流れてくる二人の歌を聴きながら、表情が次第に熱を帯びていく。そして、そのグルーヴに突き動かされたのか、まるでセッションに参加しているかのように、そわそわと体が反応し始めていた。  純は、ドラムを叩いている時のようにリズムに揺れていて、手も足も今すぐにでもその音の中へと飛び込もうとしているようだった。耀もまた、その隣でブースへ目を釘付けにしたまま、手は弦を弾いているかのように動いていた。そして、二人とも初めて四人で音を合わせた頃のように嬉々とした笑顔を見せている。それは、まだただ好きな音を追いかけていた頃のような、掛け値のない音楽への喜びに溢れていた。 「やべえ。孝哉くんの声すごいね。めっちゃくちゃドキドキしてんだけど。色田の声になかったものが補われて、あいつの声もすげえかっこよく聞こえる。これ二人で歌うと最強なんじゃない? 見ろよ、あいつ幸せそうな顔してる」 「本当だよな。めちゃくちゃいい顔してる。俺たちあんな顔見たことねえよ」  浮遊感を大切にするために、あえてテンポを抑えめに作ったこの曲は、すべてのフレーズで音が生まれてから消えていくまでを意識して歌うようにしてもらっていた。そうして、レコーディングする際には、きっちりと音の定位まで相談して決めていき、音源を聞くと音が自分の周りを駆け巡り、波のように跳ねて消えるような感覚を味わえるようにしてもらっていた。  色田の声だけでは、その余韻がうまく描けなかった。ただ、当時は俺がいたから、俺がコーラスでその部分を補うようにしていた。今の孝哉は、その俺がやっていたことだけでなく、エフェクトによる効果までを、一人で出来るようなコントロール能力を持っている。  リバーブやフィルターに頼らなくても、孝哉が曲をしっかり聞いて理解し、自らの体にそれを満たす。そして、自分と曲の持つグルーヴを混ぜてそれを声として放てば、それだけで人の心を揺るがす力を持つことが出来る。  孝哉を通って生まれた音は、相手の心の中の届きたいところへと的確に行きつく。それは感動させてやろうという心情面でのアプローチではなく、音が直接的に神経を刺激すると言った方が近い。聴覚を抜けて全身へと駆け巡る神経の興奮が、聞いている人そのものを揺らす。それほどに、その影響力は大きいものだ。 「ボーカルのテクニックとか素質とかっていうよりは、彼自身が音を体に通してそれを鳴らすと、幸せだって思ってるのが伝わってくるって感じだな」 「そう、そうなんだよ。あいつの幸せがバシバシ伝わるんだよな。そして、孝哉のすごいところは、同じ空間にいるとそれが伝染するんだ。強い共感を得るっていうかさ。色田の顔を見たらわかるだろう?」  色田は、ずっと楽しそうに笑ったまま歌い続けている。それはまるで、幼い子供が大好きな大人に遊んでもらっている時に見せる顔のようだった。今日初めて会ったにも関わらず、その心の柔らかいところまでするりと入り込み、それを優しく温めてくれるような声に出会えたことで、どうしようもなく高揚している。それは、俺たちには引き出せなかった、あいつの素直な気持ちだった。 「ああ、わかる。俺たちにはしてやれなかったことが、これで良くわかったよ。あいつ、あんな顔するんだな」 「なんか……めちゃくちゃ申し訳ないし、嬉しい。色田が幸せになった顔が見れたね」  チルカを愛する二人が、歌うことを生き甲斐にしている二人が、揃って最も好きな曲を歌っている。まるで子供のように手を叩き合ってリズムをとり、フェイクを挟んで自由に歌う。  あの雷雨の日、俺がギターを弾きながら孝哉と歌ったものとは、また違った顔を見せるスワングダッシュを、孝哉は頬を紅潮させながら気持ちよさそうに歌い上げた。 ——十分だよ。  飛び降りをしようとしていたところに出会し、それをやめて俺の世話をするためだけに生きると言った、あの日の孝哉。その顔が、本当の自由を取り戻して輝いていた。  ちくり、と心が痛む。俺は僅かに寂しさを感じていた。最初からわかっていたことだが、孝哉ほどの才能がある者が音楽をやらずに生きていくのは、おそらく難しいだろう。  持って生まれたものがあるということは、それをするべきだという道標を持って生まれて来ているのだと、俺は思っている。そこから外れた状態で幸せを感じることは、そういう人たちにはかなり難しい。  実際、あいつは一度死のうとしたのだ。襲われた事実よりも、歌を奪われたことが、あいつにとっては死刑宣告のようなものだったのだから。  外階段で会った少年は、歌を取り戻した。それだけで輝く笑顔を取り戻し、今ならどこへでも行けるだろう。それはこういう知る人ぞ知る場所なのかもしれない。でも、そこに閉じ込めておくことには、多少なりとも罪悪感があった。 「本来いるべきは、間違いなくステージなんだよなあ」  俺がそう呟くと、「じゃあ、戻りますか?」という声が聞こえてきた。  驚いて、その声の聞こえて来た方向へと振り返った。  その声は、忘れることのできない声だ。俺の人生が大きく変わったあの日、誰よりも泣いて取り乱した男の声。救急車で搬送される間、俺にしがみついて離れず、ずっと「ごめんなさい」と言い続けた男。 「仁木(にき)さん」  そこには、銀縁のメガネをかけたスーツの小柄な男性、チルカモーショナの初代マネージャー仁木真史(にきまさふみ)が立っていた。彼は、その瞳に涙を湛え、眉根を寄せて俺を見つめていた。  手は震えている。何から言えばいいのかわからない口は、その開くところを小さく揺らしていた。いくつも言葉が生まれては飲み込まれ、何度も消えてはまた伝えようとする。 ——ああやってこの五年を過ごしたんだろうな。  彼の葛藤を思うと、胸に小さな痛みが生まれた。 「ハヤトさん、お久しぶりです。お、お元気そうで……」 「うん。元気だよ。ブラック企業でこき使われて、楽しく暮らしてる」 「そうですか……。それは良かった……」  そう言いながら鼻を啜った仁木さんに、純がふっと笑ってツッコミを入れる。 「いやいや、良くないよ。ブラック企業だって言ったよ、今!」  すると、純のその軽やかな声に釣られて、仁木さんもふっと笑った。それで少し重くなっていた空気が軽さを取り戻す。 「あの、目は……」  仁木さんはあの時、何よりも俺に障害が残ったことを気に病んでいた。俺は元々視力が悪かったため、片目が失明した時に障害者等級がつくことになった。仁木さんは、そのことを何よりも気にしていたのだ。 「あー、ね、残念ながら見えてないよ。でも、五級からは進んでないから、普通に暮らせてる。あんまり心配しないで」  バンドをクビになると、就職しなくてはならなくなる。その時点で大学は卒業していたし、新卒での雇用は無理だった。それに、バンド活動に力を入れていたため他にできる事も少なく、ここからどう生きていこうかという悩みに推し潰されそうになっていた。  そんな俺が路頭に迷うことがなかったのは、仁木さんが今の会社の社長に口利きをしてくれたからだと聞いている。仁木さん自身からはそう言われてはいないけれど、社長が俺に教えてくれた。  クビになった時に、仁木さんとは一切連絡を取ってはならないと言われた。だから俺はお礼を言うことも出来なかった。ようやく会うことができたその人を見て、俺は胸がいっぱいになってしまった。 「仁木さんが紹介してくれたところでしっかりこき使われてるから……。こき使われるってことは、利用価値があるってことじゃないですか。バンドばっかりしてて使い物にならなかった俺を、先輩たちがしっかり育ててくれたんですよ。だから、ほら……」  仁木さんは、昔から俺たちに対しても、他の所属ミュージシャンに対しても、とても真摯で優しく、こちらが心配になるほどに俺たちを守ろうとしてくれる人だった。だからあの時、色田が俺にマイクを投げつけたのは、無理なスケジュールを組んだ自分に責任があるとし言い、かなり思い詰めていた。  でも、それがそうではないことは、メンバーだった俺たちはちゃんとわかっている。今でも、仁木さんに恨みなんて、これっぽっちもない。金に目が眩んだお偉いさんたちが、仁木さんを通さずにいくつか取材を捩じ込んでいたことくらい、とうにみんな知っている。  当然、彼もそれはわかっているだろう。それでも、彼は俺のケガを気に病んでいた。今、目の前で涙で顔がびしょ濡れになるほどには、俺への申し訳なさを抱えて生きている。 「もー、泣かないでくださいよ。それよりさ、さっきのどういう意味なのか教えて。俺がチルカに戻るなんて、無理な話でしょ? 傷だって無くなってないし、サングラスかけるわけにもいかないしさ」  そう言って前髪を上げ、目の周りの傷を見せた。皮膚が引きつれたようになっていることが、クビの一番の理由だったはずだ。義眼は、あまりわからないらしく、そこは問題にはならなかった。ただ、引きつれたような傷跡は、少し顔の印象を悪くしたのは間違いない。今の仕事をする上でも、時々言われることがある。だから、それは一般的な感覚としては当然のことなのだろう。 「傷……まだ痛々しいですね。そうです、それがあるからという理由でクビになりました。ですが、今ハヤトさんを迎え入れるにはメリットしかないと常務が言っておりまして……」  仁木さんはそこで言い淀んでしまった。でも、それだけで俺には伝わった。 「ああ、そうか。そうかもね」  そこにははおそらく、孝哉のお父さんが関わっている。  孝哉のお父さんは、この事務所の古株だ。歌えなくなった息子をまた歌わせてあげたいと言って人気バンドに声をかけて、それがあっさり叶うくらいには、ここでのあの人は権威のある人だ。  親バカであるあの人の機嫌を取ることが出来れば、大きな会場でのコンサートを増やして収益を得ることが出来る。そのためなら、一度クビにした俺を恥も外聞もなく復帰させるという手ですら、躊躇うこともないのだろう。 「俺が孝哉とチルカに参入すれば、条野(じょうの)さんは満足するってことですか?」 「そのようです」  仁木さんは、眉根を寄せていた。彼はこの話に乗り気ではないのだろう。確かに、あまりにも会社都合に合わせた勝手な話ではある。  これまでの俺だったら、おそらく断っていただろう。俺も仁木さんと同じように思うからだ。あまりに勝手な話だ。突然クビにされた俺が、今の職場で今の地位を得るまで、どれほど苦労したかを知りもせず、よくもそんなことが頼めたものだと呆れていたに違いない。  でも、今は違う。そうすることで孝哉が輝けるのなら、充実した日々を送れるのなら……考えはそちらへしか向かわなかった。 「俺はいいですよ。でも、孝哉のことでもあるんだから、まずは二人で話し合わせてください。とりあえず、今日はチアークレグロとして、レックお願いします」  俺はそう言って、仁木さんに頭を下げた。まずはこのレコーディングを終えなければ、話は進められない。孝哉がこれを乗り越えられるかどうかが問題だからだ。 「わかりました。もちろん、依頼は完璧にこなすのが私たちですから。良い答えをもらえるように、ベストを尽くさせていただきます。ね、耀さん、純さん」  仁木さんが耀と純の方へと視線を送る。二人は穏やかに微笑んでいた。

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