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第26話 Landing1

「確かに、ちゃんとした実績のある方に認めてもらえれば、ある程度は自信になるとは思います。でも、俺が潰れてる理由はそこじゃありませんよ。俺は元々仕事で弾くギターと自分の音楽は分けて考えられるタイプです。だからサポートの仕事は受けられるんですよ。でも、仁木さんが言ってるのは俺に俺の音楽を取り戻せって言ってるんですよね。でも、俺はもう心を奮い立たせる材料を持ってないんです。実力が認められるとかそういう問題じゃ無いんですよ」  俺たちは音楽が生き甲斐だ。賞賛されたくてやってるわけじゃなくて、ただ音の中に生きて行く事それ自体に喜びを感じるタイプの人間の集まりだ。たまたまそれを仕事に出来ているという、すごく恵まれた状況に身を置く事ができていて、だからこそいつも必死に研鑽していた。  アイドルバンドとして売られる事に納得なんてしていなかったけれど、それでもやれることはしっかりやるという真摯な姿勢を貫いていた。チルカという存在は、仕事をする仲間ではあったけれど、俺たちそれぞれの自分自身を表すものでもあった。  チャンスに恵まれずに消えていくものも多い中で、彼らから祝福を受けながらデビューを勝ち取っていた。だから、俺たちの存在意義そのものを覆すほどの的外れな指針を示されたとしても、腐らずに頑張っていこうとしていた。  それを壊したのも、今回孝哉を失うきっかけを作ったのも条野が仕組んだことだったはずだ。自分に甘く他人に厳しいあの男は、俺と孝哉の批判が始まった途端、なぜか孝哉を真っ先に切り捨てようとした。そうなると和哉さんの威を借りた条野の図は壊れてしまうはずなのに、なぜかあいつはその選択をした。あの決定には未だに理解が追いつかない。  確かに孝哉には批判が多かった。俺とのこともかなり悪く書かれていた。  でも、賞賛の言葉が多かったのもまた事実だ。俺とのことを好意的に受け止めてくれていた意見も多くあった。そうなった場合、アンチは様子見にしてそのまま活動継続とし、身辺警護に力を入れるのが妥当だろう。それにも関わらず、あいつはそうしなかった。  条野の考えていることは、俺には全く理解出来ない。そして、その理解出来ない人間に、なぜか絡まれては自分の大切なものを壊されていく。デビューで喜ばせ、メンバー内でいざこざが起こるように仕向け、俺を首にした。  そして、次は恋人と一緒に呼び寄せたかと思うと、幸せの最中にそれが壊れるように裏で細工を始めている。そのままその思惑通りに事は運び、チルカはライブが出来なくなってしまった。  このまま条野からの嫌がらせが永遠に続くのでは無いかと思うと、もう俺はメジャーで音楽を続ける事は出来そうにない。 「俺が何をしようと、条野はそれを壊したがるじゃありませんか。しかも、なぜか自分から俺に絡みたがりますよね。もうそれにも疲れたんです。正直、引退してもいいかと思ってるくらいなんですよ。無職になってしまうけれど、あの男の機嫌に振り回されながら音楽をやっていても、時間を無駄にするだけのような気がするんです。チアグレは二人で遊ぶために作ったユニットです。もしメジャーで活動するとして、あんなやつに邪魔をされるなら、やらない方がマシですから」  ピリピリとした空気の中に身を置きながら、珍しく意見をぶつけ合う。  新木家のあるフロアへと辿り着いたエレベーターを降り、仁木さんは足早に玄関へと向かうと、カードキーでロックを解除した。そして、俺が入りやすいようにと大きくドアを開く。そこから入り込んだ空気が、そこに溜まっていた生活の香りをかき混ぜ、そして僅かに外へと押し流してきた。  その中には、孝哉が愛用していた香水の香りが混ざっている。早く一人でいることに慣れたい俺にとって、この残り香は何よりも辛いものがある。これを嗅ぐと、しばらく地獄のような苦しみを味わう事になるからだ。 「う……」  香りは記憶と結びつきやすい。思わず吸い込んだそのほんの僅かな情報から、ずるずると楽しかった頃の記憶が引き出され、少し遅れてそれと同じ分だけの悲しみが襲いかかって来た。 「くそっ……」  俺は帰宅後、毎日ここで泣き崩れている。ただ、今は一人ではないため、そんな姿を晒すわけにはいかなかった。襲い来る痛みに耐えようとして身構えると、ストレスのかかりすぎた体は限界を超えたらしく、途端にふらつき玄関先で膝をついて頽れてしまった。  大好きだった香りを吸い込んでは訪れる孤独。それに呑まれてしまうと、酷い倦怠感に襲われる。ずるりと音がするように体から力が抜け、ただそのまま蹲ることしか出来ない。俺を最も壊しているもののうちの一つは、間違いなくこの香りで、そしてそれに伴うこの一連の流れの疲労だった。 「大丈夫ですか」  少し先を行っていた仁木さんが、突然座り込んだ俺に驚き、慌てて玄関へと戻ってきた。心配そうにこちらを見ている彼に、無理のある笑顔を必死になって作りあげ、「すみません、大丈夫です」と返した。 「……でも、何かしなければならないとは思ってます。このままじゃダメなのはわかってるんです。ただ、何かをするのであれば、その時にはプロデューサーを変えてもらう必要があります。条野と組んだままじゃ、俺は同じことを何度も繰り返すだけです。でも、あいつを外す事ができる人なんて、あの会社にはいないでしょう?」  倒産しかけた会社を立て直すほどに売れたバンドのギタリスト。当時の経営陣が条野に頭が上がらないっていう話は、あの会社の中では有名だ。その実績が買われているのか、あいつはいつの間にか色んな人脈を手に入れていき、今や常務取締役だ。  あいつより下の人間が何を言っても、条野は聞き入れようとはしない。そして、あいつより上の人間は、なぜか必要以上に条野を可愛がっている。人事をどうこう言えるような人がいないとなると、俺はまた条野にいいように弄ばれて潰れるし、次はもう立ち直ることは出来ないだろう。  孝哉の香りに苦しめられながら、条野への恨みを口にする。良くない感情に押し流されそうになりながらも、歯を食いしばりながら耐えた。 ——考えるな、考えすぎては飲み込まれてしまう。  そう思いながらも、条野に奪われた孝哉との日々を思わずにはいられなかった。 「しかも今回は、音楽だけじゃなくて、孝哉との関係性まで壊されてしまったんですよ。もう打ち合わせに同席するのすら苦痛なんです」  あの何度もかかってきていた電話と、それに対する孝哉の反応から察するに、条野が孝哉に何かを吹き込んだのは間違いない。それはかつて色田がされていたことのように、有りもしない事をまるで然もあったかのように変えていくあの口車に乗せられ、その純粋な心はそれを素直に受け取ってしまったのだろう。  孝哉に何か考えがあって行動したのか、もしくはただ色々と面倒になって逃げただけなのか、何れにせよ辛いのは孝哉自身なのだろうから、どう行動してももらっても構わないと思っていた。あの男が絡んでいたのであれば、その苦しみは相当なものだっただろうと思うし、それを俺にはどうすることも出来ない事も理解はしている。  ただ、俺はそれを俺にも話して欲しかった。あんなに素晴らしいものを共有出来る関係なのだから、苦しみさえ分けあえると思っていたのだ。そして、孝哉もそう感じてくれているのだと、俺は信じて疑わなかった。結婚の誓いではないけれど、病める時も健やかなる時も俺は孝哉の隣にいて、その背中を支えていくことを許されているのだと思っていた。 「……もしかしたら、条野の件が無くてもこうなっていたのかもしれませんけれどね」  そうだ、実際には今俺の隣にあいつはいない。強烈な記憶だけを残して何も言わずに消えてしまい、今日まで俺は何も知らされないままだ。周囲とは連絡を取り合っているにも関わらず、俺にはメッセージの一つも返してくれていない。そのことが、俺をさらに悲しみの底へと叩き落としていくのだ。  香りに胸が潰されそうになりながら、同じ場所に抱えている無力感に苛まれる。冷たい廊下と壁に身を寄せるようにして倒れ込み、仁木さんに気づかれないようにひっそりと悲しみを吐き出した。  この苦しみの正体だって、本当はたかが知れている。自分だけが何も知らされないままで恋人に去られてしまったという事実に、情け無さを感じているというだけだ。  だから傷ついたふりをして、食事を摂らず、眠らず、弱っているというアピールを続けている。そううっすらと感じられるくらいには、俺は回復し始めている。つまり、この行動が不毛であることなんて、本当は頭では理解していた。それでも、どうしても前を向くことは出来ない。  もうここまで落ちてしまった以上は、変化を起こすには自力では不可能だ。外部からの助けを求めるしかないのだろう。そして、俺自身がそれを感じた上で、誰かに相談しようかと思っていたことも確かだ。仁木さんの提案は、その矢先のものだった。 ——この人は、本当に俺のことを思ってくれているんだな。  俺に目線を合わせるようにして膝をつき、労わるような視線を送ってくれている仁木さんの目を覗き込んだ。ついさっきまで孝哉以外の気持ちなど迷惑でしかないと思っていたはずなのに、そこにほんの僅かながらも変化が生まれる。  大変なバンドを担当させられて苦しんでいるのは、彼も同じはずなのだ。その事にふと思い至り、その思いに感謝する。すると、それと同時に急激に羞恥心が顔を覗かせ始めた。  俺は一体何をしているんだろうか。わがままや文句や呪詛を吐き続けるだけて、実は前向きになれることは何もしていないんじゃないだろうか。社会人経験がある分、うまくやっていけるだろうと思っていた二度目のミュージシャン人生を、むしろ最初の頃よりも下手に潰している。もがき過ぎて、一人で溺れそうになっているように感じた。 ——まるで子供だな。  そう気がついてしまった俺は、愕然とした。恋人に振られて傷つくのは当然のことだとしても、その後の生き方があまりに幼稚だ。そして、それを今の今まで実感することなく過ごしてきた。  俺が自分の心境の変化に慄いていると、仁木さんがふわりと微笑みかけてくれた。

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