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scene 2. 喪失

 大抵、誰もがそうかも知れないが、病院にはあまりいい想い出がない。バンドのメンバーでユーリの幼馴染だったルネが運びこまれ、そのまま還らぬ人となったとき。てっきり逝ってしまったのがテディだと思いこんでいたとき。真っ白な壁と鼻をつく薬品の匂いが想起させるのは未だに、これまで生きてきたなかでいちばんショックの大きかった、そんな出来事だった。  ロニーに云われたとおり、ルカは誰にも会わずそっとホテルを抜けだした。振り払っても振り払っても浮かんでしまう想像はどんどん悪いほうへと肥大していき、病院に着いた頃には頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、あちこちを管で繋がれた意識のないテディという、最悪の一歩手前な状態を覚悟していた。  だから、廊下で自分を待っていたロニーに促されて病室へ入り、ベッドの上で半身を起こしているテディと目が合ったとき――ルカは、全身の力と緊張感や不安が一気に抜けていくのを感じ、顔をくしゃくしゃに歪めてこう云ったのだった。 「テディ、よかった……! なんだよ、ロニーが変な言い方するからどれだけ悪いのかと思ってたよ……どうだ、痛いところはないか? ひょっとして脚でも折れてたか? でも怪我くらいならぜんぜんいいよ、イベントなんか別にどうだっていいんだ、よかった無事で――」 「ルカ」  ほっとして喋り続けている途中、そっと袖を引かれるのを感じて、ルカは言葉を切った。うん? と振り返ってロニーの表情を見た途端、ルカは消えたはずの不安が再び這いあがってくるのを感じ、眉根を寄せた。 「なんだ?」 「あの……」  その声に、ルカはまたテディのほうへ向き直った。  テディはなんだか困ったような、途惑ったような表情で自分を見つめている。その貌に微かな違和感を覚え、ルカは黙ったまま、その違和感がなんなのか見極めようとするように見つめ返した。  すると、テディはルカに対し、こう云った。 「あの、すみません……。あなたは誰ですか、俺の……知り合いなんですか……?」  ――その信じられない言葉を聞き、一瞬で真っ白に凍りついたように、ルカは顔を強張らせた。 「……嘘だろ、まさか」 「テディ、彼は、さっき説明したあなたの在籍しているバンドのヴォーカル、ルカよ。あなたとは学生の頃から一緒なの。……憶えてない?」  ロニーが優しい口調で、ゆっくりとテディにそう尋ねる。だがテディは小首を傾げ、苦笑しながら首を横に振った。 「……すみません、思いだせないです」 「そんな……俺だよ、ルカだ! おまえが俺を忘れるなんて、そんなことあるわけないだろ!?」  ルカはベッドに近づき、テディの両肩を掴んで揺さぶった。「なあ、悪い冗談はよせよ、おまえとはもう十年以上も一緒にいるんだぞ? 十年も前にずっと一緒だって、なにがあっても絶対に離れないって誓ったじゃないか、憶えてるだろ!? ……それともあれか、俺が云ったことに対する仕返しか!? 冗談きつすぎるって、ロニーまで巻きこんでさ、なにもここまで――」 「ルカ、落ち着いて……!」  ロニーに止められ、ルカはゆっくりと手を離した。 「……嘘だ。おまえが俺のことを忘れるわけがないじゃないか、なあ頼むよ、嘘だって云ってくれ……!」  呆然とルカを見つめていたテディが、困った表情でロニーに視線を移す。 「あ、あの……」 「彼の云うとおりよ」  ロニーは頷いた。「テディ。ルカはあなたの……恋人よ。学生時代からずっと一緒で、今は一緒に暮らしている、あなたにとっていちばん大切な人」 「え……」  テディはなにやら考えこみながら、探るような視線をルカに注いでいたが―― 「……ごめんなさい。やっぱり憶えてないです……」  申し訳なさそうにそう云ったテディに、無言で何度か頷き返しながら後退り、ルカは病室を出た。  扉を閉め、よろよろと二、三歩離れたところで、脱力したように壁に凭れる。  ――無事だったのに。そこにいるのに……奇妙な喪失感を覚え、真っ白な天井を仰ぎながらルカは、やっぱり病院は俺たちとは相性が悪い、と瞼の裏を()ぎる過去の残像に目を閉じ、肩を落とした。  病室から出てきたロニーと一緒に診察室に呼ばれ、ルカは医師から話を聞いた。  記憶喪失――テディの場合、正確には全般性健忘という症状であるらしい。つまり、転落時やそれ以前の一部の記憶だけではなく、自分の名前や知人などについての一切を思いだせなくなっているのだという。頭を打ったことが引き金にはなっているらしいが、実は全般性健忘のほとんどは心因性のものだと聞いて、ルカは驚いた。 「解離性健忘っていいまして、レオンさんも、頭部のCT検査や他の検査ではまったく異常はありませんでした。もともと健忘は頭部外傷がきっかけで起こることのほうが少ないんですよ。ドラマなんかだとそっちばかりがされてますがね、実際は心因性によるものがほとんどです。酷い事故を起こしたバスの運転手が、自分の責任だという苦悩や重荷に耐えかねて、無意識に記憶を抑圧して起こったりするんですな。まあそれは限局性健忘っていいまして、レオンさんのケースとはまた違いますがね。全般性健忘ってやつは、実は非常に例が少ないんですよ。フィクションと違ってね。  で、まあ……順調に回復すれば、だいたい十日から一ヶ月くらいで少しずつ記憶が戻り始めます。ですが、人によっては一年、十年、最悪ずっと戻らないままというケースも、あるにはあります。そうは云っても焦りは禁物です、あまり無理に刺激したりはしないでください。頭痛も起こると思いますんで、まずは十日ほど入院していただいて様子を見ましょう。催眠療法(ヒプノセラピー)も試します」  医師からそう説明され、ルカはあらためて肥大した不安に押し潰されそうな心地になった。  一年、十年、もしかしたらずっと……このままいつまで経っても、テディが自分のことを思いださないまま―― 「ルカ」  ロニーの声に、ルカははっとして顔をあげた。 「先のことは考えないようにしましょう。今できることと、私たちがやらなきゃいけないことを考えるの。テディのために」  そう云ったロニーはきりりと引き締めた表情をしていたが、よく見ると目の周りが赤く、アイメイクも落ちていた。自分よりひと足早くショックを受け、泣いて途方に暮れ、しかし悲観していてもどうにもならないと踏ん張って立っているのだろう。  出逢った頃とは違う、すっかり頼もしくなった自分たちの恩人に、ルカは頷いた。 「そうだな。……そういや明日って、結局どうするんだ」  チャリティイベントの本番は明日である。この土壇場で出演を取りやめるのは迷惑にも程があるが、かといって代わりのベーシストなど、今から手配できるはずもない。 「それなのよね。どうしよう……ルカ、あなた歌いながら弾ける?」 「無茶云うな、無理に決まってるだろ。……適当に誰か立たせておいて当て振りにするとか?」 「やるとしたらそれしかないわよね……、それとももう、代理はたてずに音だけ出しておくか」  しかし、どっちにしたってジー・デヴィールを観に来る客の半分はテディ目当てなのだ。ルカは云った。 「やっぱり、出演は断念したほうがいいんじゃないか?」 「そう思う? やっぱり……しょうがないか。主催側と相談するわ」  そんなことを話しながら、ルカはロニーと一緒に病棟を後にした。  建物の外に出た途端、ロニーが立ち止まって「ちょっと待って」と声をかけてきた。なにかと思って振り向くと、ロニーはバッグから煙草とライターを取りだしている。  ルカは一歩離れたその位置のまま、ふぅと息をついてしゃがみこんだ。 「ごめん。ずっと吸えなかったから……こんなときこそ吸って落ち着きたい、って思っても、なかなか外に出られなくて」  イギリスでは二〇〇七年七月からパブやレストラン、カフェ、ホテル、駅舎内など、屋内の公共の場では喫煙が全面的に禁止になっている。同じようにこの場所で吸う喫煙者が多いと見え、据え付けられているスタンド型の灰皿には、入りきらないのか吸い殻が何本も突き立っていた。よく見ると地面にも散乱している。 「喫煙規制も良し悪しだよな。昔はあちこちに吸い殻が落ちてたりしなかったのに。ところで……テディのこと、知らせたのはまだ俺だけ?」 「うん、今のところはね。お祖父さん、どうしようかって思ったけど、とりあえずもうしばらく様子を見てからにしようかと思って。……なんで?」 「いや、ロニーと俺だけでああいう……病状説明? よくしてれたなと思って」 「ああ、そういうこと……ま、あなたたちの場合は有名だし」  ルカとテディが恋愛関係にあるという事実は、最初はゴシップ誌などによる性的指向のアウティングというかたちで広められてしまったことだった。ルカたちはそれを否定したりはせず、逆に自分たちの仲を見せつけるような対処の仕方をした。  その後のインタビューでも、一緒に暮らしていることなどは隠したりもせず訊かれれば答えていて、特にファンでなくても誰もが知るところだった。 「顔パスかよ。まあ楽でいいけど、特別扱いみたいなのは好きじゃないな」 「ほんと、生真面目ね。そんなこと思うなら、結婚しちゃえばいいのに」 「まだシビルユニオン止まりだよ、チェコもイングランドも。まあ、こういうときにはそれでも同じことなんだろうけど」 「そっか。……でも、考えたことはあるんだ」 「ちらっとくらいはな。でも今のところは、まだしょっちゅうユーリに頼ってるし」  ルカとテディ、ユーリの三人は、オープンリレーションシップという関係を選択している。こちらは、まず訊かれることがないという理由もあるが、公にはしていない。  オープンリレーションシップとは、婚姻、恋人関係にあるふたりが互いに合意の上で他に恋人を持ったりする、言葉のまんま『開かれた関係』のことを云う。ひとりが同時にふたりの恋人を持つ、三人でそれぞれ恋人関係になる、同じようなカップルやグループとスワッピングを愉しむなど、様々なケースがある。  ルカたちの場合は、精神的に不安定になったテディをルカひとりで支えきれないとき、ユーリにバトンタッチするような付き合い方になっている。テディ自身も一緒にいる相手が変わることで、ぐるぐると落ち込む思考の渦から脱却して気分を変えることができ、この関係は当初考えていたよりもずっと巧く機能していた。 「でも、いつまでもそんなままではいられないでしょ?」 「かもしれないけど……」  そう云うとルカは、厄介なことを思いだしたというように頭を掻いた。「俺、まだおふくろのこと解決してないんだよな」 「解決? ……あ! あの、いつか云ってた、家に帰ってないっていう……」  ロンドンの寮制学校(ボーディングスクール)である事件を起こし、テディとふたり揃って放校されたとき。息子が同級生の男子とつきあっていたと知り、母親のアドリアーナはショックのあまりルカを勘当した。それ以来、ルカはブリストルの実家に一度も帰っておらず、母とは話すらしていない。 「えぇ……それって……、もう何年? 七年? 八年?」 「八年半、かな……」 「……私も人のことは云えないんだけど……」  うん? とルカはロニーの顔を見た。 「話せばわかってもらえることなら、早めに修復したほうがいい。拗れた原因よりも、時間の溝のほうが深刻になることもあるのよ」  その言葉は自分に、というより、ロニー自身に向けられたもののように、ルカには聞こえた。 「そうかもな……でも、それよりも」  立ちあがり、振り返って病棟を見上げる。ちょうど消灯時刻なのか、ぽつぽつと病室の灯りが瞬いては減っていった。ふたりが立っている辺りもそれに伴って暗さを増していく。  ルカは煙草を携帯灰皿に押しつけているロニーを見て、云った。 「先ずはテディが記憶を取り戻してくれないと、なにをどうすることもできないよな」  頷いたロニーと、今度こそ病院を出てタクシーを停めホテルに戻ったのは、もう夜の十一時を過ぎた頃だった。

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