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scene 7. 疵痕
テディの入院生活が始まってから一週間め。ユーリとドリュー、ジェシの三人は先にプラハへ戻ることになり、その前にもう一度テディの前に揃って顔を出そうという話になった。それを聞き、ロニーはテディの主治医と相談し、外出許可をとった。
金曜の夜、今ではすっかりロンドンのシンボルのひとつとなった大観覧車、ロンドン・アイの近くにある高級中華料理店で、一同はふかひれの姿煮や北京ダック、オマール海老のガーリック蒸し、上海蟹入り小籠包などに舌鼓を打っていた。
落ち着いて食事ができる個室の窓からは、テムズ川を挟んでウェストミンスター宮殿とビッグベンが見えた。最高の景色と、シックで落ち着いたインテリア、大きな回転テーブル 。ジェシはiPhone のカメラで美しく盛りつけられた料理の写真を撮り、ユーリは茅台酒 を飲んで饒舌になり、テディも鮑入りの広東粥やマンゴープリンなどを食べながら、嬉しそうに顔を綻ばせていた。
「ああ、もう無理! お腹が破裂しそう」
「あはは、かなり食べましたよね。中華ってどうして、こんなについつい食べちゃうんでしょうね」
「いや単純に注文のし過ぎなんじゃないか? コース以外にけっこう追加しただろう」
「おまえら、これを飲まないからだ。こいつをちびちび飲 りながら食ってるとどんどん入るぞ」
「だって度数が高すぎるもの……一杯でやめとかないと」
いつものように賑やかな、以前とまったく変わりない酒宴の光景。テディも話を聞きながらくすくすと笑っていて、ルカはそんなテディの表情を横目に見ながら、好物だと知っているものを皿に取って、さりげなく勧めていた。
こうしていると、テディが記憶を失っているなどとは、まったく思えないくらいだった。
* * *
「――あら、テディは?」
「セラピーに行ってる」
そうなの、と呟きながらロニーは持っていた紙袋をテーブルに置き、バッグを肩から下ろしてソファに腰掛けた。
「まだ、あと一時間くらいかかるんじゃないかな」
「そう……、どうなのかしら。効果ありそう? 催眠療法 って」
ユーリたちがプラハに帰っていった二日後の月曜日。あれやこれやと買ってきた私物で溢れさせ、どっちが入院しているのかわからないくらい快適にした病室の一角で、ルカはラップトップを開いていた。
ソファにゆったりと腰掛けた状態でラップトップが使いやすいようにと購入した、角度や高さの調整ができるアームスタンド式のテーブル。スマートフォンのアプリから音楽を流すための、小さいけれど高性能なポータブルスピーカー。暇潰しにやっていたジグソーパズルも、もうふたつも完成させて洒落た額縁に入れ、壁に飾られている。
紙袋を開けて、自分とルカのぶんのコーヒーとテディのカフェラテ、そしてソルテッドキャラメルマフィンを取りだすと、ロニーはコーヒーのカップをひとつ、ルカのほうへ押しやった。
「どうかな……まだ二回めだしな」
「うまくいって、早く記憶が戻るといいんだけど」
解離性健忘などの治療として行われるのは、薬剤を投与して入眠直前まで意識を低下させた状態で質問を繰り返す麻酔分析療法と、薬剤の代わりに催眠術を用いる催眠療法である。どちらの場合も健忘の原因となった出来事や、患者の抱えているストレスやトラウマなどを探り、記憶の回復を図る。精神科医による心理療法も施される。
そういった説明を充分に受け、それで早く記憶が戻るならとルカもテディも納得したうえで、催眠療法は始められたのだった。
そんな話をしながらルカがコーヒーに口をつけたとき――こんこんとノックの音がし、扉が大きく開かれた。ふたりがはっとしてそちらに顔を向けると、テディがストレッチャーに乗せられ、運びこまれてきた。
ルカは驚いて立ちあがり、血相を変えてテディの傍に駆け寄った。
「テディ……! いったいどうしたんだ、いったいなにが――」
「落ち着いてください、ブランドンさん。鎮静剤で眠っているだけです」
看護師ふたりがテディをストレッチャーからベッドに移していると、あとから来た医師がルカにそう声をかけた。ロニーもテディになにがあったのだろうと心配になり、近寄って尋ねた。
「鎮静剤でって……セラピーは? うまくいかなかったんですか?」
「それなんですが……」
医師はなんだか深刻そうな表情で、ルカとロニーの顔を交互に見やった。「あらためてお伺いしますが、おふたりはレオンさんのことをもっともよくご存知な、親しい間柄ということでいいんですよね?」
ロニーは思わずルカと顔を見合わせたが、すぐに医師に向き直り、頷いてみせた。
「ええ、私はともかく、彼がいちばん長く近くにいるパートナーです。それが?」
「……ではちょっと、お話が」
一緒についてくるようにと促され、ロニーは再びルカと視線を交わし、ぞわぞわと足許から這いあがってくる不安に眉をひそめた。
「トラウマ……」
医師の説明を聞き、ロニーとルカはまさかという思いで顔を顰めた。
「そうです。催眠状態にして意識レベルを下げ、朦朧とした状態でいろいろ質問していくことによって、過去の記憶を引きだそうとするわけですが、レオンさんの場合、あるところでどうしても……閉ざされてしまう。しかし、そういうところにこそ健忘の原因があることが多いので、慎重に質問を繰り返して、思いだしたらその問題についてのケアに入るわけなんですが……」
そう云うと、医師はゆるゆると首を横に振った。「質問中、レオンさんの様子は激しく変化しました。心拍数の上昇、発汗の他、表情には恐怖といった感情が認められました。記憶の再生を激しく拒んでいるのは明らかです……。フラッシュバックに苦しむように暴れだしたので、これ以上は無理だと判断し、催眠を解いて鎮静剤を打った、というわけですが」
テディは少年時代、同居していた母親の情人に性的虐待を受けていた。ロニーもルカも、トラウマというのはてっきりそのことだと思い、苦い顔をしていたが――
「実は、私はちらっとそんな記事を雑誌かなにかで読んだなという程度だったんですが、看護師が彼の過去について話してくれまして……こういったケースは異例なんですが、レオンさんが有名人で一時かなり話題になっていたので、彼が少年期に性的虐待を受けたことについては把握していました。問題は、どうやら想起の邪魔をしているのは、他のトラウマらしいということでして」
「他?」
聞き返した声が重なった一瞬後――ロニーははっとして、思わず口許を手で覆った。ちら、とルカの横顔を盗み見る――ルカは顔を強張らせ、凍りついたように唇を噛み締めていた。
「……お心当たりがあるんですね。だと思いました……セラピーはまだ始めたばかりで、性的虐待の起こったそんな年齢まで退行はしていませんから」
イビサで起こったあのことについては、これまで誰にも話してはいない。知っているのはバンドのメンバーと、ごく一部のスタッフだけだ。事が事だけに、以後そのことについては内輪でも、欠片も口にしたことはなかった。ロニーはどうしよう、話すべきなのだろうかと迷い、ルカの顔を見た。
ルカはゆるゆると首を横に振ると落ち着こうとするかのように息を吐き、静かな声で云った。
「……レイプ、されてる。四人の男に。三年ほど前のことだ」
「……わかりました。云いづらいことを申し訳ありません。しかし……じゃあ、どうしたものかな」
「というと?」
「自分の名前や過去など、一切の記憶を失う全般性健忘が、実は非常にめずらしいということは先日お伝えしましたね? それと、頭部外傷をきっかけとしてはいるけれども、ほとんどは心因性であるということも」
ロニーは頷いた。
「心因性の解離性健忘というのは、つまり耐え難いストレスをもたらす記憶の再生を、本人が意識の深いところで拒んでいるということなんです。これはある種の自己防衛機能のようなものです……医者である自分がこんなことを云うのはなんですが、ひょっとしたら患者にとっては記憶を取り戻させないほうがいいのかもしれない。たとえ他のことを一から知らなくてはいけないとしても、つらいことは忘れたままのほうが、本人は生きやすいのかもしれない。……実際、記憶が戻った途端に鬱病を発したり、自殺企図で目が離せなくなったりする例は少なくないです。もちろん、我々は全力でケアを続けますが……甦らせてしまった記憶は、以前よりも鮮明になっていることもあって――」
ふらりとした足取りで病室へと戻るルカの後を、ロニーは見守るようにしてついてきた。
ルカの気持ちはよくわかる――自分もまさか、イビサでのあの事件が今更こんなかたちで影を落とすことになるとは、露程も思わなかった。
「ルカ……大丈夫?」
病室に入る前、ロニーはルカにそう尋ねた。ルカはこくんと頷きはしたが、かなり堪えているのだろう。つい感情的に云ってしまった言葉、その挙げ句の転落事故、そもそもの原因となったインタビューでの失言――すべて自分の所為のように思えてきて、激しい後悔の念に駆られたとしても無理はない。
ベッドに近づき、そっとテディの寝顔を覗き見る。そして、テディの寝顔を見つめるルカの表情を見る。その横顔はいつもと変わらず端正で、ルカが今なにを思い、どんなことを考えているのか窺い知ることはできなかった。
個人的な意見としては、無理に思いださせる必要はないのではないかと思う、と云いつつも、医師は明日もう一度催眠療法を試みようと云っていた。慎重にやってみて、また今日のように著しい反応が出るようならあらためて考えましょうと。
呼び起こされそうになった悪夢の断片が夢にでてきているのだろうか、テディはなんだか少し苦しそうな顔をして眠っている。少年期の性的虐待、母親の死、レイプ事件。それにテディの身代わりのように災難に遭い、亡くなった彼のこともある――確かに、テディには思いださせるのが酷な出来事ばかりだ。社会生活に支障はない状態なのだし、本当にテディのためを思うなら無理はさせず、神の采配に任せたほうがいいのかもしれない。
――しかしその場合、バンドはどうなるのだろう?
「ロニー」
そんなことを考えていると、ルカが自分のほうを見もせずに名を呼んだ。「なあに?」と反射的に聞き返すと、ルカは迷いを吹っ切ったようなきりりとした表情で振り返り、こう云った。
「セカンドオピニオンも兼ねて、プラハでいい医者やカウンセラーを探しておいてくれ。ただし、もうよっぽどのことがなければ入院はさせない。俺がうちで面倒をみる」
きっぱりとした口調。意思の強そうな眉の下で強く輝く瞳。じん、となにかが胸に響いた。
「わかったわ、まかせて」
頼もしいルカの顔を見つめ、ロニーは強く頷いた。
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