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第17話 希望の声
◆◇◆
カツーン、カツーンと乾いた音が響き渡る。その音の向こう側には、水滴が落ちる音がひっきりなしに聞こえていた。
——今日は雨だったっか? なんか、寒くねえか?
ブルっと身震いしながら、綾人は目を覚ました。瞼は開いたはずなのに、目を凝らしてみても周りがよく見えないほどに、周囲はうす暗い。
そして、これまで経験したことがないほどの乾燥と寒さに襲われていた。吐く息が真っ白に見える。
——なんだ、ここ……でも、なんかちょっと見覚えがある気がする……。
遠くに聞こえていた、あのカツーン、カツーンという音が、だんだんと綾人に近づいてきた。その音と共に、誰かがこっちへやってくる。ぼんやりと見える形から察するに、かなり背が高い男性のようだ。
——とりあえずあの人にここはどこなのか訊いて、早く家に帰ろう。きっとタカトが探してる。
そう思って、人の気配が近づいてきた方へと顔を上げた。そして、立ちあがろうとした時に、ぐんっと何かに引っ張られて倒れてしまう。
「うあっ! いってえ……なんだこれ」
引っ張られた足首を摩っていると、何かが足に巻き付いていた。倒れた拍子に怪我をしたようで、血が少し流れ出ている。その血の流れ出ている場所には、裂けたような傷があった。
そして、その傷の先に繋がっていたのは、物語の中でしかみたことがないような、重々しい足枷だった。
「なっなんだこれっ!?」
綾人は驚いて、思わず大きな声をあげた。足枷は鉄製で、冷たく鋭く鈍く光を放っていた。その枷の先には、ボーリングの玉ほどの鉄球が括り付けられている。
「え? どういうことだ? タカトは? みんなは? ここは……どこなんだ?」
ついさっきまで、タカトや水町たちと鍋パーティーをしていたはずだ。水炊きは温かくて優しくて美味しかった。締めで食べたうどんは、綾人が食べたことがないくらいに柔らかかった。鍋のスープを吸い込んでいて、それもまた温かくて優しくて美味しかったのだ。それを、大好きな仲間とともに楽しんでいた。
それなのに、なぜ今こんなにも冷たくて、カサカサに乾燥した空気で埋め尽くされた暗闇にいるのだろう。そして、この足枷。どこで見たことがあるのかはわからないが、記憶の隅に引っかかっている。
思考が忙しなくぐるぐると回り続け、さっき近づいてきた男がすぐそばにいることにも気が付かずにいた。
「なんだお前、起きてたのか」
男が綾人に声をかけてきた。ちょうどいい、ここまで来てくれたら話しやすいと思って、口を開こうとした。
「寝てりゃよかったのによ。さ、行くぜ」
男は、綾人を立ち上がらせると、足枷の鎖を鎌のようなもので断ち切った。そして、綾人の両手を後ろ手に縛り、背中をドンっと蹴飛ばした。そして「歩け!」と怒鳴り声を上げると、綾人に腰縄を結びつけ、それを持って歩き始めた。
「ちょっと、なあ、あんた。ここどこだなんだよ? おい、タカトは?」
綾人がいくら声をかけても、男は全く答えようとしなかった。黙って綾人の腰縄を持ったまま、どこかへ連れていく。冷たい石畳の上を、ただ黙って歩き続けていた。
「なあ! これなんなんだよ。俺早く家に帰らないと、タカトが心配するんだよ。外せよこれ!」
肌からひしひしと、ここから早く立ち去らなくてはならないという危機感が伝わってくる。綾人はその思いに焦りを煽られ、そう怒鳴って男に回し蹴りを放った。
男はその気配を察知したようで、振り向きもせずにそれをかわすと、逆に綾人の鳩尾に一撃を放り込み、悶絶させた。
「ぐあっ……! なに……」
そう言いかけた時、その痛みが記憶の回路を急激に回した。ここがどこであるのかを急激に思い出していく。そして、その絶望感にぐるぐると目が回るのを感じた。
——冷たい空気、答えない男、回し蹴りから返り討ち……。
さっきまで思い出そうと必死だったのに、今となっては思い出すことに対して嫌悪感が生まれつつあった。それは、決していい思い出ではないのだろう。感情の混乱は思考も混乱させ、強烈な吐き気が催す。
——俺、ここがどこだか、知っている。そして、今向かっている先も、知っている。
記憶の底から蘇る恐怖で、綾人の足からじわじわと力が抜けていく。それに反するように、冷たい恐怖が、じわりじわりと背中に張り付いた。
「こ、ここ……なあ、おい、どこいくんだ! もしかして……」
その時、目の前の男がくるりとこちらへ振り向いた。そして、綾人をじっと見つめると、顔を歪めて笑った。その顔を見て、綾人は言葉を失った。
「えっ……」
その顔は、綾人が今一番見たかった顔に似ていた。この顔に、真っ赤なルビー色の右目があれば、間違いなくあの人だ。こんな風に理解出来ない状況に巻き込まれた時に、いつも救ってくれたあの人。
でも、その顔から発せられた言葉は、とても非常で残酷なものだった。
「なんだお前、もしかして助かって平和に暮らす夢でも見てたのか? いるんだよなあ、処刑前に変な夢見るやつ」
そう言って、ニヤニヤと笑い続けている男の顔は、綾人に人助けをさせて、人生で唯一の生き甲斐となった恋人との未来を奪っていった人……貴人様の顔と全く同じだった。
——どういうことだ?
自分を救うために現れたはずの貴人様が、今は命を消すための場へと連れて行こうとしている。これまで散々信じて利用された挙句、騙されていたのだと思い至った時には、処刑台が目に入ってからだった。
「う、嘘だ……」
口を半開きにしてカタカタと震えながら、処刑台と男を交互に見ている綾人を見て、男は心底楽しそうに笑った。
「なんだよ、俺の顔に何かついてるか? 俺の機嫌が取れなかったばっかりに、処刑が早まって残念だったな」
綾人は、この男の顔を見たことがあった。そうだ、確かに、処刑場に連れていく男だった。同じ死刑囚であるにも関わらず、牢名主として権力者側に取り入ることに成功した人間。刑の執行タイミングは、この男に気に入られたかどうかで決まる。
——じゃあ、今まで俺は何をしていたんだ?
悲しい囚人は、牢名主の機嫌を取れずに絶望しながら夢を見た。そして、それが醒めた今、処刑台へと連行されて行くところだと男は言った。
「どうして……じゃあ、あれは全部夢だっていうのかよ。俺が、俺がただ希望のある夢を見ただけだって言いたいのか!?」
処刑台へと連行している貴人様そっくりの男は、はははっと乾いた笑い声を上げた。そして、呆れたようにため息を吐きながらドアを開けていく。冷たい石畳の廊下を、どんどん奥へと進んでいた。
「お前の最後の晩餐だったスープの中に、強力な睡眠薬が仕込んであったんだよ。処刑する方も楽じゃないからな。最近は眠らせたままの斬首がほとんどな訳よ。その薬の副作用かなんかに、そういう夢を見る成分が入ってんだと。俺はバカだからよくわかんねえけどな」
綾人はその現実を否定しようとして、急に頭を持ち上げた。すると、ぐらりと眩暈がして、男の背中に思い切り頭を打ちつけてしまった。男としては背中を後ろから殴られたようなもので、一瞬ふっと力が抜けてバランスを崩してしまった。
その拍子に綾人は前方へと投げ出されてしまった。後ろ手に拘束されているため、衝撃をかわすこともできずに石畳の上を擦って転がってしまう。肉を打つ痛みと、擦れる痛みが全身に走った。
急に突きつけられた現実に、力が抜けていく。身体中が痛むにも関わらず、立ち上がる気力さえ失われていきそうだった。
「……がっ!!!……ってーな!この野郎!!!」
ただ、元来勝気な性格で、どの人生でも困難に打ち勝とうとして生きてきた魂は、そう簡単に精神を折ることは無いらしい。牢名主のその言葉をきっかけに、綾人の中に怒りの炎が燃え上がった。
——なんだと?
人に媚びることに成功しただけで、罪が消えたわけでもない人間に、たくさん善行をして頑張って生きて来た命を奪われてたまるかと思い始めていた。一度そう考え始めると、腹の奥底に次々と怒りの感情が生まれ始める。
——許せない。
今や綾人は、ヤトの二度目の人生で斬首された、あの処刑の場にいた。投獄された理由は窃盗、強盗、殺人だったと聞いている。殺人の被害者は一人や二人じゃなかったらしい。そして、神との約束を反故にしたと言われた。それなら処刑されてもおかしくないのかもしれない。
でも、そうなったのは、そもそも無知な自分に悪知恵を吹き込んだ奴がいたからで、そこをやり直させてもらって、罪の清算は終わったはずだ。そしてその後の運命も受け入れ、大人しく暮らしていただけだった。
——それなのに、なんでまだこんな目に遭わされるんだ!
その感情の波は、あっという間に綾人を飲み込んだ。それは人の中にある、律する心を悉く奪っていく。
——どうして俺だけが。他の奴はずるい、酷い……憎い!
次第に目の前のものが、全て自分の敵のように思えてきた。綾人を担いでいた男が戻ってきて、「いくぞ!」と縛った腕を無理やり引っ張る。その痛みは、綾人の中の暴力的な衝動を。さらに解放しようとしていた。
——こいつを殺して、逃げればいい。
そう思って、男の正面に立った。
後ろ手に縛られていた縄を、横に引っ張り、力任せに千切った。そして、男に掴み掛かろうとした瞬間、ふと我に返った。
——あれ? ヤトが囚人の時って、確か小学生くらいじゃなかったか?
唐突に、今の状況に、強烈な違和感を感じ始めたのだった。
——俺は子供で、イトに唆されて悪いことをしていたはず。イトはもう処刑されてて、ヤト は処刑直前に貴人様から人生をやり直す許可をもらった。なんで俺は十九歳のままなんだ?
ふと疑問に思って、綾人は周りを見渡した。よく見ると、前世で綾人が収監されていた場所とも、多少異なるもののように感じた。前世でいた場所は、日本の江戸時代のような風景だった。斬首刑って名前だったけど、打首みたいに穴を掘った地面にうつ伏せにさせられ、役人に土足で踏みつけられながら、日本刀を振るわれたのを覚えている。
——なんだ? 何が起きている??
そう思って、ふと怒りに飲まれた状態から抜け出した時だった。
『綾人! 綾人聞こえる!?』
「えっ? 誰?」
突然頭の中に、綾人を呼ぶ声が聞こえて来た。かなり音は小さいのだけれど、ハッキリと自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「なんだ、お前? 頭でも打ったのか? 救世主の声でも聞こえるか? まあ、もう死ぬんだし、どうでもいいか」
牢名主が綾人を担ぎ上げようとした。綾人はそれをなんとか阻止しようとしていた。後のことはもう考えなくていい。とにかく今はコイツに捕まるのだけはダメだと思い、走って逃げることにした。
『綾人、そのまま真っ直ぐ走って、扉の向こうに逃げて! そこ鍵がかかるから。しばらく時間稼いで!』
誰だかわからないけれど、今人に騙されていたことに気がついたばかりだけれど……何の助けもない状況で、このままだと結局は死ぬことになるのだからと、綾人はとりあえずその声に従うことにした。
まっすぐ走った先に、錆だらけの重そうなドアがあった。そのドアを開けて振り返り、両足を踏ん張って肩で思いっきり体当たりをして扉を閉めた。
ズドーンという派手な音を立ててドアは閉まった。綾人は震える手で、すぐに鍵をかけた。そして、その鍵を見て驚いた。鍵の仕様がサムターン錠だったからだ。以前の場所なら、鍵は閂をかけるタイプだったはずだ。やっぱり、何かがおかしい。
「かっ鍵、閉めたぞ! てか、誰の声だ!? 小さくてあまり聞き取れないんだ!」
逃げ惑う小鼠のような心境で、何も見えない場所に向かって必死に話しかける。あの男のいう通り、綾人は頭がおかしくなってしまったのかもしれない。それでも、この声は信じるに値するものだという確固たる思いがあった。
『綾人! 俺だよ、タカトだよ! 良かった、本当に意識は繋がれたんだ!』
グスグスと泣きながら話す声は、確かにタカトだった。
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