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Chapter 3

 紘臣たちのアパートから春杜たちが住むマンションへは徒歩で二十分程度だったが、それは目的を持って突き進んだ場合の時間であって、春杜のようにふらふらと散歩気分の歩き方では三十分たっぷりと掛かることだろう。  日付が変わり掛かる時間の為車でも呼ぶことを提案する冬榴だったが、春杜の希望で歩いての帰宅を余儀なくされた。 「ねえトオル、サトシくんと何話してたの?」 「えっ?」 「僕が行くまで」  ただ春杜の右三歩後ろを歩いていた冬榴は不意に話題を振られて顔を上げる。  子供向けの遊具が並べられた西側の公園は、時間的な意味でも他に人の姿は無く、振り返った春杜の明るい茶髪がザァッと吹いた風に靡く。 「大した話はしてないよ。ただ俺が悪い狼に食べられるとか何とか――後はスーツを着た変質者に気を付けろって言われたくらい?」  誓って嘘は吐いていない。そもそも春杜相手に嘘は通用しないし、冬榴も嘘を吐いて後で春杜に幻滅されたくは無かった。 「スーツを着た変質者? フフッ、サトシくんは面白いこと言うんだね」  少し後ろを歩いていると、時折ふわりと春杜から真新しいシャンプーの香りが漂ってくる。紘臣と付き合って数ヶ月程度ではあるが、長く続いているようで何よりと冬榴は感動せずにはいられなかった。 「ああ後サトシくんに連絡先の交換方法を教えて貰ったんだ」  そう言って冬榴はズボンの尻ポケットからスマートフォンを取り出す。何やらメッセージの通知が来ていたが、一緒にいる春杜からで無いのなら発信者は慧志しかいないので特に今気にすることではないとしてその通知を見なかったことにした。 「連絡先の交換? そんなこと覚えてどうするの?」  春杜は遊歩道で足を止めて冬榴の目を下から覗き込む。 「どう、って……」  表情はにこやかでもその奥は一切笑っていない春杜の瞳。それは逆らうことなど一切許されない束縛の証だった。冬榴の背筋に冷たいものが滑り落ちる。 「――だって、出来た方が何かと便利なんでしょ?」 「ねえトオル」  道向こうから左折してきた車のヘッドライトが春杜の姿を背面から照らす。その刹那、春杜の像は輪郭すらも分からない程真っ暗に染められたが、琥珀色の瞳だけは猫のように妖しく光り輝いていた。 「僕が連絡を入れた時、誰と一緒に居た?」 「えっ……」  驚きのあまり小さな声をあげてしまったことを冬榴は後悔した。春杜にはマサミチのことを話したことは一切無いし、先程春杜からの着信に出た時にもマサミチの存在を悟らせるような下手はうたなかったはずだった。  不意をつかれた質問には咄嗟の対処も出来ず、冬榴は思わず春杜から視線を反らしてしまう。これ以上春杜にマサミチとの関係を隠し続けるのは難しい状況ではあったが、マサミチの気持ちが自分に向いているという確信のあった冬榴は思い切って春杜に打ち明けることにした。 「あっ、あのね、ハルトさんっ――」 「――ハ、ルト」  がさりと木立を掻き分ける音と共に、誰かが春杜の名前を呼ぶ声が聞こえふたりはつられるようにその方向へと視線を向ける。  初めは木の陰に紛れていて人であること以外は性別も、それが誰であるかすら分からなかったが、近づくにつれ月明かりに照らされたその人物の風貌が見えてきた時冬榴は思わず息を呑んだ。  ぼさぼさの髪と顎に散りばめられた無精髭、真っ黒なスウェットの上下を身に纏うその姿は冬榴が記憶している姿よりはずっとみすぼらしく、おどろおどろしいものだった。見た目の小汚さに対する驚きは勿論あったが、最後の記憶に間違いが無ければその髪は艷やかな黒髪だったはずだが、今目の前にいるその人物は白髪が疎らに混ざった年齢を感じさせるものだった。記憶している人物に間違いが無いならばその人物は冬榴よりも少し年上であるだけのはずだった。  亡霊のようにふらりとふたりの前に姿を現したその人物の名前は川野礼之、春杜が紘臣と付き合い始める直前まで付き合っていた相手だった。 「ハルト……ハル、」 「ハルトさん、下がって」  冬榴は春杜を庇うように川野の前へと立ちはだかり出方を伺う。まるでゾンビ映画でも見ているかのような緩慢な動きではあったが冬榴は川野を警戒していた。  大声を出して大事になってしまうのも良くないし、同性同士の痴情の縺れは異性同士のそれよりも忌避される傾向にある。慧志が警鐘を鳴らしていた変質者というのはひょっとして川野のことではないかと冬榴は感じ始めていた。  春杜の好みは紘臣のように健康的で性欲旺盛の男性であり、元々の川野も紘臣同様の体格を有していた。春杜と別れたことが切っ掛けとなったのか、もしくは今のように萎んだから春杜に捨てられたのかははかりかねたが、春杜は川野と別れる前から紘臣と付き合い出し始めていたので前者の可能性が高かった。  捨てられても尚春杜を求めるその姿を冬榴はこれまで何人も見てきていた。川野だけがこうなった訳ではない。春杜と付き合っている最中は幸せの絶頂ともいえる気持ちを味わうが、その反動もあり別れた後は抜け殻しか残らない。 「ハル、トぉお!」  救いを求めるように春杜へ伸ばされた川野の腕を冬榴は掴む。そして掴んだ部分を支点として川野の身体は宙を舞い、背中から一気に遊歩道へと叩きつけられる。川野には全盛期のような体力や精力は一切残っておらず、冬榴に片腕を捻り上げられれば呆気なく制される。 「ハルトさん、怪我は?」 「ん、大丈夫」  冬榴がいるのだから春杜に怪我が無いのは当然のことだったが、念の為に川野には墜ちて貰った方が楽であると考えた冬榴は川野の気道を腕で締め上げて意識を奪う。  完全に川野が意識を落としたことでようやく安心した冬榴は胸を撫で下ろす。冬榴が深夜遅くなっても春杜の帰宅に付き従うのは護衛としての意味もあった。 「よーしよーし、偉いねぇトオル」  春杜は膝を付いたままの冬榴を胸元へと抱き寄せて褒美とばかりにその頭を撫でる。髪型がいくらぐしゃぐしゃになろうとも、春杜からの賛辞の言葉以外に嬉しいことは無かった。  春杜の腕の中に抱かれたまま、冬榴は遊歩道に朽ち落ちた川野の無惨な姿を見て居た堪れない気持ちを抱く。 「――ヒロも、いつかこうなるのかな」 「うん?」  冬榴の放った言葉の意味が気になった春杜は腕の中から冬榴を解放し、代わりに両手で冬榴の顔を包みこんで自分の方を向かせる。 「もう一回言って?」 「ヒロも、ハルトさんと別れた後アイツみたいになったら嫌だなって思っただけ……」  付き合っている間は今の紘臣のように春杜のことだけを考え続け、別れた後もそれを認められず廃人になっても春杜を求めてゾンビのように徘徊する姿を想像するのはとても心苦しかった。 「トオルはヒロに興味があったの?」 「違うっ……!」  冬榴は咄嗟に声を荒げる。 「じゃあヒロがノボルみたいに廃人になった後、親友のサトシくんが悲しむことを気にしてるんだ?」 「え……?」  冬榴もただ漠然と紘臣が川野のようになったら嫌だと感じていただけで、具体的に何故そう思ったのかを自分自身の中で理解していなかった。しかし春杜から指摘されたその内容は冬榴ですらも気付いていなかった無意識の感情を激しく揺さぶった。 「トオルは男を見る目が無いからねぇ。サトシくんみたいな悪い男に引っ掛かっちゃわないか不安だなぁ」 「そう、だよね……」  春杜に手を差し出されて冬榴は立ち上がる。川野は放っておいてもこれ以上危害を加えてくることは無いと思うが、念の為に凶器など危険物を持っていないかを確認する為に歩み寄る。 「彼結構意地悪なとこあるし、俺はもっと年上で落ち着いた感じの人がいいなと思うんだ」  春杜が慧志はダメだと太鼓判を押してくれるのならば、冬榴も安心して慧志ではなくマサミチを選ぶことが出来る。意識を失った川野の身体を服の上から弄り、このままここに置いていっても害はないことを確認した後、冬榴は膝に付着した泥を払う。 「ハルトさんもそう思うでしょ?」  春杜がそういえば白だって黒になる。冬榴は自分の中で揺れる気持ちを結論付ける指針を春杜に示して欲しかった。無意識のまま期待の眼差しを春杜へと向ける。  そんな冬榴の気持ちを知ってか知らずか、必死な様子の冬榴を見て春杜は微かな嘲笑を漏らす。 「どっちでもいいんじゃない?」 「え、でも……」  自分が選ぶという選択肢はこれまでの冬榴には無かったものだった。これまでの人生は全て春杜や他の誰かが良いと薦めたものを選んできた。今になってマサミチと慧志のどちらにするかと悩んでいる時点で、冬榴はその選択肢の中へ無意識の内に慧志を含めてしまっているということにすら気付いていなかった。  春杜は冬榴を残して踵を返し帰路を進み始める。 「トオルが『欲しい』と思う方を。たまには自分で選んでみたら?」  楽しそうに笑う春杜の横顔を冬榴は複雑な表情で眺めていた。

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