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繰り返される悲劇(9)
事務所が所有しているオメガ専用の寮は、マンスリーマンションよりもビジネスホテルに雰囲気が近い。
各自個室で風呂トイレ付きだが、部屋は狭く、セミダブルのベッドとライディングデスク、テレビと小型の冷蔵庫が備え付けられていて、それ以外の家具を持ち込むスペースはない。
食事は食堂で取れるし、ポットも電子レンジもそこにある。洗濯はランドリールームがあって各自自由に使える。それ以外に娯楽室やトレーニングルーム、発声練習や台本 読みをするための防音室もあるから、一度目の人生では、自室にいるよりもそうした共有スペースで過ごすことのほうが多かった。
急なことだったので、今回はアパートは引き払わず、当面の着替えや必要な物だけ持ってきた。
昨日は受付で鍵をもらい、自室に入ってすぐに妊娠検査薬で妊娠を確認したら、なんだか張りつめていた気が一気に抜けてしまった。夕食も食べずシャワーも浴びずに、数日分の睡眠不足を取り戻すかのように、朝までずっと熟睡していた。
今日は、元々は映画のオーディションを受ける予定だったが、僕は昨日の時点で引退の決意を固めていたし、事務所も、僕にタレントを続けさせるにしても、オメガ俳優として、これまでとは路線を変更させたいと考えているようだった。
そのため、昨日の時点で、オーディション関係は当面、応募を見合わせるよう言われていた。
予定がキャンセルになったからかどうかはわからないが、午前中に急遽メディカルチェックを受けることになった。
うちの事務所にはオメガだけの特別ルールが色々あって、半年に一度病院で受ける健康診断以外に、月に一度のメディカルチェックを受けなければいけないのもその一つだ。提携している病院から医師が往診に来てくれて、体の診察と血液検査と尿検査がある。
主には抑制剤の量を調整するためのものだと聞いているが、それ以外に風邪や不眠など、何か不調があれば、抑制剤以外にも必要な薬の処方箋を出してくれる。
一度目の人生で僕がオメガの寮に入っていたときは、いつもメディカルチェックをは月末だった。今は4月に入ったばかりだから、特別に僕一人のために急遽往診に来てくれたようだ。
妊娠中は発情期 が来ないため抑制剤を飲む必要はない。
妊娠の可能性を伝えた方がいいのだろうかと思いつつ、まだ事務所にも報告していないことを医者に先に言ってよいものかわからず、悩んでいるうちに、診察が終わってしまった。
採血検査と尿検査の結果は、後日届くことになっている。
その後は、部屋に戻り、バッグに入れたままだった衣服をクローゼットに仕舞ったり、防音室でアフレコの|台本《ほん》読みをしたりして時間を潰し、昼食のオーダー締め切りぎりぎりの時間に食堂に行った。
基本的に発情期 中のオメガは寮の外に出ることを禁止されているため、オメガの寮は平日昼間でもそれなりに人がいる。知り合いと顔を合わせたら、ベータだったはずの僕が何故オメガの寮に入っているのか、説明しなければならなくなる。
訊かれたら答えるつもりでいるが、面と向かって話すのは気が重い。できれば週刊誌の記事で知ってくれたほうが、同じオメガの同業者に、これ以上後ろめたさを感じずにすむ。
そういうわけで、人の少ない時間帯を狙っていた。
食欲はなかったが、昨日の昼以降、何も食べていなかったせいか、注文したきつねうどんを残さずに完食できた。
部屋に戻って、白木さんから仕事のことで連絡が入っているかもしれないと思い、スマホを開こうとして、電源が切れていたことに気が付いた。
そう言えば、昨日は夕食も食べずに寝てしまったから、携帯を充電していなかった。友達が少ないし一度目の人生と違って今回はSNSもやっていないので、基本的にスマホは必要があるときにしか開かない。
バッグの中から充電器を引っ張り出し、急ぎ充電を開始して起動させると……、昨日から20件近く着信があり、全て三間からのものだった。
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