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みちくさ
濡れた森の匂い。耳を塞ぐ波の音。
見慣れたビル群の煌めきが、故郷へ一歩近づくたび木漏れ日に塗り替えられていく。
この景色だけは、何年経とうと変わらない。
――今年もまた、夏の恋が帰ってくる。
傷だらけの引き手へ指が触れた瞬間、戸は海砂をすり潰して勢いよく開いた。
「あら。アンタ帰るの今日だったっけ」
飛び出してきたサンダル履きの母親の手には、大皿に溢れんばかりの白い握り飯。ラップに包まれたそれをうんざりとした気分で眺めて、
「ただいま」
一年ぶりに会う母親へ、眞吾は不格好な会釈をした。
「あら。しんちゃん帰ってたん」
母親とよく似た声で祖母が言う。ここ数年でずいぶんと小さくなった身体へ寄り添うように腰掛けると、幼い頃によく嗅いだ樟脳とミルクの香りが鼻先を擽った。
「いま帰ったとこ。元気にしよった?」
「元気よぉ。まぁた、アンタも盆の忙しいときによう帰ったねぇ」
痩せた手に肩を叩かれ、眞吾は苦笑する。夏祭りを控えたこの時期の故郷に戻る理由を、
「ばぁちゃんに会いに帰ってきたんよ」
下手なお世辞にもならない、曖昧な言葉で濁した。
「はっは。よう言うの」
眞吾は手に持った握り飯の皿を、脚の錆びたローテーブルの上に置いた。ついさっき実家前で遭遇した母親から『公民館にみんなおるけ、持ってって』と頼まれたものだ。黄ばんだビニールのクロスが掛けられたテーブルは眞吾が子供の頃からあったもので、緑色の大きな花柄模様が古くさく、脚の滑り止めはひとつなくなって、折りたたんだ新聞紙でかろうじて高さを揃えてあった。祭の準備で押し寄せる人々のために、父親が自宅から運んできたのだろう。
「眞! 帰ってきたんか」
ふと名前を呼ばれ、振り返る。広い公民館の座敷の隅で、円を描いて座り込んでいた男たちの中から声は聞こえた。
「今年も皆勤賞か。都会で彼女のひとつもつくれん男は盆休みもヒマしとんやろ」
片手を上げ、日焼けした顔に白い歯を見せて笑うのは小、中学校と学び舎を共にした幼馴染みだ。彼は高校を卒業後、故郷に戻り船に乗っている。
「うっせぇわ。わいのメシはねぇからの」
眞吾の憎まれ口に、わっ、と男たちが湧く。毎年変わらないこの掛け合いが、眞吾が無事に故郷へ迎え入れられた合図だった。ここに着いてようやく、すとん、と肩の力が抜けた気がした。
海と森に挟まれたこの小さな町から、東京の大学に進学して3年。田舎の同級生のなかには小さな子供の手を引いている者もいる。昼間からビールとタバコを手に年寄り達と談笑する姿は、まるで生まれた頃から大人だったかのようにも思えた。
彼らは一足飛びに大人になり、家庭を持ち、自分の敷いたレールを肩で風切り歩いている。 不純な動機で、とりあえず東京の大学へ、となんら将来へのヴィジョンも持たないままぐだぐだと管を巻く自分は、彼らとは別世界の人間だ。
「しんちゃん」
「ん?」
ふと祖母の声に意識を引き戻される。持ってきた握り飯は、いつの間にか現れた持ち寄りの惣菜と一緒に公民館へ集まった住人たちに配られていた。いま合流したばかりの眞吾のぶんはもちろん、ない。
食べ損ねたと思えば母親の作る少し硬めの握り飯も惜しいもので、眞吾の腹の虫は突然目を覚ましたように騒ぎはじめる。
「腹減ったな。メシ食ってくればよかった」
独り言のような呟きに、祖母がパンパンに膨らんだ手提げ袋を探った。
「そらええわ。裏の神さんでね、りょうちゃんが御堂の掃除してるけぇ、コレ持ってってふたりで食べんか」
取り出したのは白いビニール袋。受け取って中を覗くと、アルミ箔に包まれた大きな塊が四つ入っている。ふわりと香るヨモギの香りと、ずしりとした重さに覚えがあった。祖母お手製の草餅だ。
途端に、ずん、と胃の底へ鉛の塊を落とされた気がした。
手の中の草餅にではない。祖母の発した『りょうちゃん』という名前にだ。
「あ~、えっと。俺はええわ。家でなんか食うけ」
眞吾の歯切れの悪い返答に、祖母は薄くなった眉を顰める。
「そんな言いなさんな。りょうちゃんが、ばぁちゃんの餅が食いたい、って言うけぇ朝から張り切って作ったんよ。しんちゃんは無理して食べんでもええけ、持ってって」
古い冷房に冷えた襟足に、汗がじんわり滲んだ。共働きの両親に代わって面倒を見てくれた祖母の頼みを、眞吾は昔から無下にできない。
「……わかった。渡してくる」
よろしくね、と送り出す祖母の声を背に、スニーカーを引っかけた。
昼の休憩を迎えた公民館の外は、湿った土の香りがした。暇を持て余した子供たちが水遊びでもしていたのか、駐車場のアスファルトから白い湯気と雨の匂いが立ち上っている。
歩くのが億劫だ。蝉の声が煩い。降り注ぐ日射しは不快な湿り気を帯びて、道行く商店の屋根から素肌も凍りつくような爽快なミストが噴射されでもしないかと、眞吾の頭をありもしない妄想が過ぎる。
商店街とは名ばかりの、車歩道を兼ねた一本道を10分歩いて小さな森の中。公民館からはちょうど裏手にあたる場所に、この町の『神さん』がいる。
茶色く散り散りになった紫陽花の萼を踏みしめ、狭い獣道を通って森の奥へ。そこに人ひとりがやっと潜れるほどの小さな鳥居があって、その鳥居に守られるように、粗末な板きれで何度も修繕された古い御堂があった。
今は誰も使わない割れた賽銭箱の上に銀行の粗品のタオル。あまりに罰当たりなその行動に、眞吾はいやというほど覚えがある。たしか去年もここで、涼は。
さぁ、と木立を風が吹き抜けた。御堂の薄い扉が耳障りな音を立てて開き、また閉じた。
「涼」
名前を呼べば、山を吹き下ろす冷たい風に前髪を煽られる。耳元でわんわん鳴る蝉の声が、一瞬だけ夢のように掻き消える。
――吐き気がする。
冷たい塊が胃の中を転がり回っている。字面がいけない。夏は暑いものと決まっているのに、身体の芯まで凍らせてしまうような名前の異質感。
やがて人の背丈ほどある草むらの向こうから、小枝を踏みしめ、こちらへやってくる足音がある。その背に羽根でも生えているかのような、軽やかな足取りだ。その歩みを妨げるものなど、まるで最初から存在しないかのように。
草陰に、男の影がくっきりと浮かび上がる。
――ああ、今年もまた戻ってしまった。
男は汗に濡れた柔らかな髪を、汚れた軍手の指で掻き上げ、
「おかえり。眞吾」
細身の身体に似つかわしくない、透き通る低い声音で笑った。
「お、草餅」
御堂の階段に腰掛け、ビニール袋を開けた涼が声を上げる。少し離れて隣に腰掛けた眞吾は、それを苦々しげに眺めていた。
「アンタがリクエストしたんだろ。朝から作ったんだってよ」
「食べたいって言ったの去年なんだけどな。ばぁちゃん、覚えててくれたんだ」
草餅を手渡すときの祖母の自慢げな顔が浮かんだ。小さいころ孫が好んで食べていたものを、祖父母というのは大人になっても好物だと思っている。それはもう習性というものなのだと、大人になってから知った。
「お前のぶんもあるよ。ほら」
手渡されたアルミ箔の塊を、眞吾は胡乱な目で見つめた。口の中に、食べてもいない草餅の味が広がった。子供の頃から食べ慣れたほどよい甘さの餅は、いまでも眞吾の大好物だった。
しかし涼の隣に座っていると微塵の食欲も湧かない。さっきあれほど腹の虫が鳴っていたのに。
「全部食えよ。アンタのために作ったヤツだし」
「食い切れるかなぁ、コレ。明日になったらカチカチになるよなぁ」
そう言って笑いながら、じゃりじゃりとアルミ箔を剥がしていく涼は、どことなく嬉しそうだ。
眞吾の横で、涼は草餅を頬張る。赤い唇に白い餅粉がついて、ときどき噎せては咳をする。
「水、飲まないと死ぬぞ」
そういえばこの男は手を洗ったのだろうか。包んであるとはいえ、刈ったばかりと思われる酸い草の匂いの染みついた両手は、食べるのにとても衛生的とは言えそうにない。
涼は昔からこういうところがある。天然の、色素の薄いふわふわした髪を風に靡かせ、天使のように煌めく瞳で、道端に落ちている犬の糞をつついていたこともあった。
良く言えば豪胆。悪く言えば、奇傑。成長して背丈が伸びても、その華やかな見た目に誘われて寄ってくる女たちを、面倒だから、の一言で遠ざけていた。
女に媚びないのは元からのことで、そのもう一つの理由を眞吾が知ったのは高校2年の夏。
4つ年上の涼が、人当たりの良い軽薄な笑顔の裏でひっそり抱えている秘密を、眞吾は周囲の誰にも漏らさなかった。ただ、自分以外の誰かに知られることが怖かった。
「疲れてると甘いモンが沁みる」
薄い唇が忙しなく動く。弾力のある餅を綺麗に並んだ小さな歯で噛み切って、大きな一口を狭い喉奥に押し込む。そこがどれほど窮屈で熱い場所か、眞吾の身体はとうに知っている。
二人きりの御堂に蝉の声が降る。痩せた肌に貼りついた白いシャツの袖から、引き締まった滑らかな手首が見える。
「あと一個か」
袋の中に伸ばされた手を、眞吾が横からとる。しっとりとした滑らかな皮膚が手のひらに吸いついて、一瞬、自分と涼との境が曖昧になった。
「なに。やっぱ食いたくなった?」
今さら言ってもあげないよ、と袋を引き寄せるより先に、最後の塊を掴み出した。涼が口を開く前に銀紙をすべて毟り取り、齧りつく。冷たい弾力が歯に当たって、そういえば先日、歯医者で詰め物を変えたばかりだったと後悔した。
「おーい。無視か」
久々に食べれば甘さが控えめの餡の味は懐かしく、つきたての餅を「熱い熱い」と文句を言いながら丸めている祖母と母の背中が瞼に浮ぶ。彼女たちの傍らに、魔法のように美しく形作られていく草餅を不思議そうな目で覗き込んでいる涼の姿がある。そしてそれを、なぜか自分の手柄であるかのように、得意げに眺めている小さな自分も。
あの頃の涼はこの町に来たばかりで、眞吾の伯父にあたる人に手を引かれ、初めてできた『父親』というものに戸惑いと少しの嫌悪を隠せていない、ぎこちない創りの彫像のような顔をしていた。それでも彼の都会育ちの涼やかな風情と立ち振る舞いが、小さな田舎町の人々の視線を釘付けにした。例に漏れず、まだ5歳だった眞吾もそのうちのひとりだった。
突然できた従兄弟を眞吾は不思議に思わなかった。ただこちらを遠巻きに見ているだけの友人たちの前で、涼に触れ、語りかけて、彼の隣に存在することを許されたのは自分だけなのだと周囲を牽制した。
結果、涼は孤独になった。
くしゃくしゃに丸めたアルミのカスを袋に放り込み、眞吾はねっとりと舌に絡まる餡子を無理矢理飲み干した。いくら唾を飲んでも、喉が渇いてしかたがなかった。
記憶の中の涼が、覚えたての天使の笑顔で、拾った犬の糞を同級生に投げつける。
「ふ」
漏れた笑いを聞き咎めて、涼が振り向く。
「なに」
「別に」
この男を変態にしたのは自分だったと、気づいたときには胃の中に転がる鉛の塊が溶けて流れはじめていた。熱した鉛は下腹に下って、一年ぶりの昂ぶりを呼び起こす。
風が吹いて、御堂の扉が軋んで開く。
黒々とした冷たい闇の中へ、涼の手を引いて潜り込んだ。
「去年より、うまくなったな」
互いの汗と体液でドロドロのシャツを羽織り、涼が微笑む。扉の隙間から入り込む光は、雨の前触れの泥のような色を映して差し込んでいる。
うなじの痛々しい赤い日焼け痕に指を這わすと、年上の従兄弟は線の細い顔をわずかに顰めた。
「あんまり触るなって言ったじゃん」
嫌がる手を撥ねのけて、もう一度撫でた。
涼の言葉は、もう聞かないと決めている。
彼は変態で、嘘つきで、寂しがり屋だ。
痛い、と言いながら、されるがままになっているのは、火傷を撫でる指に感じるギリギリの快感を拾っているから。数え切れないほど長い時間をかけて、ようやく眞吾にも『涼』という人間が見えた気がしていた。
町を出ると言った。
翌年、東京へ行く、と姿を消した。
そして一年前。新宿で働いてる、と汗に濡れる耳元へ遺していった。
夏になればお互い帰ってきて、同じ場所、同じ手順で抱き合う。
そんな夏を、もう三年。
「なぁ、無理に帰ってこなくてもいいだろ、もう。そういうんじゃないだろ」
この町に馴染めなかった彼の、贖罪のような夏。戻っても彼はやはり独りで、こうして人気のない場所で、いつも形だけ溶け込むフリをしている。
「アンタはこの町に合わないんだよ。馬鹿みたいなことしたって田舎のガキ大将にはなれないし、アンタに気楽に話しかけられる人間なんて、ここの連中にはいないんだ」
綺麗すぎるのだ、涼は。
この町にはこの町の輝きがあって、そこは彼が当たり前のように息をする場所ではない。
わかっていたからこそ、彼も自ら都会に出たはずなのに。
「俺のこと気にかけてるなら、もういい。アンタに童貞奪われたときのことなんて忘れる。いつか、アンタのことも。だから涼が毎年しんどい思いすることない」
涼は余韻の残った濡れた瞳で、眞吾をまっすぐ見つめていた。
「しんどい、ってなんだよ。別にそんな思いしてないよ」
「でも、いつも辛そうだ」
沈黙が、湿った壁に吸い込まれる。かび臭い御堂の中で眞吾の傍らだけが、どれだけ汗と埃に塗れようと美しかった。
「いつか忘れるって、いつ」
薄桃色の爪がくすんだ床を掻く。どちらともない、喉の鳴る音が響く。
「本当は、もう帰らないつもりだった。会ったら、またこうなるのがわかってたから」
「俺のことが嫌いだから?」
「好きだからだよ」
好きで好きで、仕方がなかった。進学先は東京と決めていた。追いかけて、都会の人間になれば涼と同じ生き物になれると思った。
彼がこの場所にいられないのなら、自分が彼のいる場所で生きればいい。そんな単純な結論に行き着いて、それがそう簡単でもないことに、つい最近気がついた。
「でも、アンタは俺が好きなわけじゃないから。この場所で、俺しか縋るものがなかったから一緒にいたんだろ」
「そんなことない」
「そうだろ。だから住んでる場所も教えてくれない」
夏だけじゃない、いつでも、どんなときでも会いたい。そう泣きつく眞吾に、いつも涼は児戯のような手がかりを遺して、またひとり手の届かない場所へ行ってしまう。
「もう疲れた」
これは、本音だ。眞吾は確かに疲れていた。都会の生活には慣れて、骨を埋める覚悟もできた。でもそこには一番求めているものがない。
空虚な想いを抱えて生きるには、あの場所は寒すぎる。この町で涼が過ごした日々も、きっとこんな感じだったのだろう。
「新宿のいろんな店まわったよ。もうどこの店員ともキャストとも顔馴染みになったけど、涼なんて名前も、写真にも見覚えないってさ。名前変えて女装でもしてんのかなって考えたけど、アンタそういう感じじゃないし」
「探し方が悪いんだろ」
「まさか」
悪びれもせず笑う声に、眞吾の乾いた声が続く。御堂の外から聞こえる音が、いつの間にか蝉から蜩へと変わっていた。
「毎週末使って探した。俺、探偵で食ってけるんじゃないかってくらい根気良くやったよ」
「はは。いつか仕事があったら頼もうかな」
「笑える」
ぽん、と膝を叩いて立ち上がる。
自然と長い溜め息が漏れた。
スッキリしたのは身体だけじゃない。この三年、ずっと靄がかかったままだった視界も、いまなら夕立が去ったあとのように遠くまで見通せそうだ。
「なぁ、眞吾。まだ俺のこと好き?」
背中に届く声に、
「死ぬほど好きに決まってんだろ」
精一杯の強がりで、そう返した。
「もうちょっとゆっくりしていかんね。祭は明日なんに」
見送りは祖母だけだった。足元から這い上がる蜃気楼を蹴散らすように、割れて剥がれたアスファルトの上をふたり連れ立って歩いた。
バス停までは徒歩で20分。次を逃せば空港行きの便は一時間後だ。
「ばぁちゃん、ごめんな。ちょっと用事ができたんよ」
「しかたないわの。餅は持ったん? せっかくやけ、硬くなる前に食べんといけんよ」
「昨日、涼ちゃんと食ったよ。うまかった」
「そう。ならええんけど」
満面に笑みを湛える祖母の顔をしっかりと目に焼き付けておく。心の傷が癒えるまで、ここに戻るつもりはない。
それまでどうか元気で。祈るように、狭い歩幅を強く踏みしめて歩いた。
「あ、そうそうしんちゃん。りょうちゃんといえばよ、コレ預かったんよ。あん子も今朝早くに帰るって言ってねぇ。コレ、しんちゃんに渡してくれって」
そう言って、祖母は背中に背負ったリュックから一枚の紙切れを取り出した。
滑らかな、硬く小さな紙片はどうやら名刺のようだ。余白の多い、シンプルな作りの名刺を受け取った。
まず目に飛び込んだのは、教科書のようにすっきりとした書体で印字された涼の名前。その上に、小さな文字で肩書きらしきものが書いてある。最近になって遠視の出始めた目を細めて名刺を引き寄せるところに、
「弁護士先生の秘書さんなんて、立派な仕事しとるんねぇ、りょうちゃんは」
心底感心したような、祖母の信じがたい言葉が聞こえた。
「弁護士、秘書」
弁護士秘書、志藤涼。たしかに白い名刺に、はっきりとそう書かれている。
「……うそだろ」
高2の夏、ゲイだと告白してきた。
ここでは相手を見つけられないと、涼へと仄かに想いを寄せる眞吾を、部屋に呼んで押し倒した。
年を追うごとに艶やかに、淫らになっていく涼は、消えることのないネオンの街で毎夜男たちに傅かれて生きているに違いないと思っていた。
なのに。
『探し方が悪いんだろ』
無邪気な笑い声が耳に蘇る。
「くそっ」
「あ。しんちゃん」
驚く祖母の声を背に走り出す。いくら走ったところで、この町にバスは一本しかない。
だとしても、急がずにはいられなかった。
「ばぁちゃん、また来年かえってくるけ!」
肌を灼く日射しを振り切って走る。蝉の声がみるみる遠ざかっていく。
都会のビル群の煌めきが、すぐそこまで見えている。
手を伸ばせば、まだ届くだろうか。
海砂の交じる灼けた道沿いに、潮の香りに交じって涼の匂いがした。
「くそ、涼のヤツ……昼間っから働いてんじゃねぇよ!」
今年の夏は、きっと初めてづくしの夏になる。
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