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SOUNDCHECK / # 1. ヴォーカルとベースの喧嘩は犬も喰わない

 大きく開け放たれた窓の外は、麗らかな陽射しで溢れていた。まるでエスコートされているように心地好い風と舞うのは、この季節いたる処で聴かれるスメタナの交響詩『我が祖国(Má Vlast)』。  その歴史を映した川の流れそのもののような〝ヴルタヴァ(Vltava)〟のメロディに短い春を感じる、ここはチェコ共和国、プラハである。  そのプラハを本拠地とし、世界中で人気を博しているロックバンド、ジー・デヴィール。バンドのメンバーと、そのサポートをする主要なスタッフの面々は、すっかりお馴染みになったヴルタヴァ川沿いにある人気のレストランで、祝いの宴を兼ねたランチミーティングの真っ最中だった。  一昨年の秋からおよそ一年と四ヶ月以上かけて完成させたニューアルバムが、またも軒並みランキング一位獲得という快挙を成し遂げたのだ。  デジタル配信やサブスクリプションが主流になりつつあるなか、ジー・デヴィールはそののひとつであるルックスを最大限に活かしフォトブックやメイキングビデオなどを特典として付けることで、頭ひとつ抜きん出た売上をあげていた。  女性ファンの心理を巧みについたその手腕は、チーフマネージャーのロニーによるものだ。が、当初バンドは音楽以外を売りにするその方法に、いい顔をしなかった。そして何度か話し合った結果、バンドはそれにOKをだすかわりに、納得のいくまで曲作りやレコーディングに時間をかけることを要求した。  ロニーはそれを了承し、バンドは十六ヶ月という長い期間、じっくりとアルバム作りに取り組むことができた。もっとも、そのぶんいろいろとコストも嵩んでいるわけだが――その価値は充分にあったようだ。  プレリリースキャンペーンとして、発売に先駆けて配布したサンプル盤のレビューとインタビュー記事など、世界中のメジャーな音楽誌が既に挙ってジー・デヴィールを特集し、ニューアルバムを絶賛していた。プロモーションのため、タイアップのある一曲のみ公開したミュージックビデオの再生回数も、一週間と経たないうちに四百万回を超えていた。  なんにでも熱心なファンもいればそのぶんアンチもいるものだが、少なくとも『顔だけで売ってるアイドルバンド』という意見に同調するのは、アルバムを聴いていない者だけになるだろう。 「――さて、次は待ちに待ったツアーね……。ちょっとあなたたち、いいかげんにしなさいよ。みんな気分良く飲んでるのに、目が合うたんびにむすっとしちゃって」  イタリアンとフレンチをベースにした凝った料理が並ぶ大きなテーブルを挟み、互いに目を逸らすようにして頬杖をついているルカとテディに、ロニーは呆れて溜息をついた。 「ああもう、ほっとけほっとけ。こいつらの喧嘩はあれだ、何度もお互いに惚れ直すためのカンフル剤みたいなもんだ。心配するだけばからしいぜ」  からかうように口許だけで笑い、ユーリが隣りに坐っているテディを見る。テディは不機嫌そうに、黙ったまま外方を向いていた。その顔色を窺いつつ、ロニーもなるほど、と同意する。 「ああ、確かにそうかもね」 「でも、よくそんなに次から次と喧嘩するネタがありますよね……今回の原因はなんだったんですか?」  ルカとテディのふたりとは学生の頃から一緒だったジェシが、きらきらした笑みを浮かべた好奇心まるだしの顔で質問した。 「あら、私は聞いたわよ」 「俺らは聞いてないぞ。インタビューのときはバーボフカ(Bábovka)の最後の一切れを食われたんだとか云ってたが……」  さすがに冗談だろう? と、めずらしくドリューまでもが話に乗ってくると、ロニーは「ねえいい? 教えちゃっていい?」と、テディとは反対のほうを向いたままのルカに尋ねた。 「勝手にどうぞ」 「テディもいーい? おもしろいから云っちゃうわよ」 「……おもしろくないし……」  拗ねたように唇を尖らせたままテディがぼそりと溢す。が、ロニーは気にすることもなく続けた。 「なんかね、学生の頃のふたりの想い出の曲が、一致しなかったんだって」 「想い出の曲ぅ?」  ユーリもドリューもなんだそりゃ、と呆気にとられ、ふたりを交互に見た。そして一拍おいて、ユーリが声をあげて笑いだす。 「ほらな? ばからしいと云ったろう」 「笑うことないだろ。俺だってさ、別に想い出の曲がふたりにとってすごーく大事だって云ってるわけじゃないんだよ。問題は、俺のまったく心当たりのない曲が、どこからどうなってでてきたのかってことなんだよ」  テディが真剣な顔でそう云うと、「なるほどー」とジェシが頷いた。 「ところで、その曲っていったいなんだったんです? その、テディのと、ルカの思う曲っていうのは……」  その質問を聞くや否や、テディとルカは喰いつくようにして、まったく同じタイミングで答えた。 「〝ルビー・チューズデイ〟」 「〝ディス・ウィル・ビー・アワ・イヤー〟」  そして一瞬視線をかち合わせ、また互いに顔を背ける。ユーリはやれやれと苦笑し、テディの肩にぽんと手を置いた。 「あれっ、でも……曲はともかく、ゾンビーズのアルバムって確か、ルカが――」  なにかを思いだしたようにジェシが云いかける。ルカはちらりとジェシを見やり、首を小さく横に振って合図した。が、遅かったのか、テディが無表情にすくっと立ちあがる。 「……酔った。ちょっと風にあたってくる」  そう云ってテーブルから離れようとするテディの手を、ユーリがぱっと掴んだ。 「なんだよ、酔いを醒ましてくるだけだって!」 「忘れ物」  ユーリはテディを引き留めようとしたわけではなかったらしい。テーブルに置いてあったゴロワーズ・レジェールとジッポーを差しだされ、テディはむっとした表情でそれをひったくるように受け取ると、すたすたと店を出ていった。 「……ふん。ちっとも酔ってなんかないくせに」  ルカの台詞に苦笑しながら、ユーリが肩を竦めた。 「あいつが飲んでたのはモクテルだぞ。飲んでるふりだけしたかったようだが、匂いでわかる」  ウィンストン・レッドボックスを一本振りだして咥えながら、ユーリが云った。 「ノンアルかよ。どうりで」  最近は多少飲めるようになってきたようだが、テディはもともと酷く酒に弱かった。今日は初めの乾杯以降、テディは祝いの席で酔いつぶれて眠ってしまわないよう、見た目はカクテルそのものなノンアルコールドリンクを飲んでいたようだ。  ルカは深々と溜息をつきながら、グラスに残っていたワインを呷った。 「……云ってから、しまったと思ったんだよ。〝ディス・ウィル・ビー・アワ・イヤー〟はふたりの想い出じゃなくて、俺だけのだって……」  あいつの想い出が〝Ruby Tuesday(ルビー チューズデイ)〟だって、なんでなのかまで俺はちゃんとわかってるんだ、と独り言のように溢しながルカが顔を伏せる。ロニーはまったくもう、と情の込もった笑みを湛え、ルカを見つめた。 「追いかけなくていいの?」 「ああ、いいんだよ。いま行っても逆効果だから。それより……もう喧嘩するのはいつものことだし、これからもなくなりゃしないと思ってるんだけどさ」 「僕もそう思います」 「ジェシ、うるさいぞ。……でさ、もうどうせなら、もっと安心して喧嘩できるようにしなきゃなって思ってさ」 「どういうこと?」  ロニーがテーブルに身を乗りだし気味に尋ねると、ルカは少し云いだしにくそうに、唇を尖らせて云った。 「……その、去年はずっと曲作りとレコーディングでできなかったから……、俺はもうイギリスの永住権は失効したけど、テディはイギリス国籍があるし……、だからそろそろ――」 「――結婚か!」  ドリューが大きな声で反応すると、ルカはしーっと指を立て口許にあてた。通りに面した入り口から進んで奥の右側にあるフロアを貸切にしているので、他の客たちが傍を通ったりすることはないが、個室というわけではない。ルカは背後を振り返り、自分たちが注目を浴びていないか一般客で賑わっているフロアのほうを窺った。  幸い、誰もこちらを向いていたりはせず、皆食事を楽しんでいるようだった。ルカはほっとして続けた。 「声がでかいよ。……曲、勘違いしたことを謝ってからその話をしようかって思ってさ。でも、そうなるといろいろ準備とか、タイミングも考えなきゃいけないだろ。パーティとかハネ……ふたりで旅行とかもしたいし。で、どうしようかってロニーに相談しようと思ってたんだ」  ここチェコではまだ同性婚までは法制化されておらず、シビル・ユニオン法があるのみだが、イギリスでは二〇一四年三月にイングランドとウェールズ、十二月にスコットランドで同性婚法が施行されるなど段階を踏んで進められている。  あのエルトン・ジョンも昨年末に長年のパートナーと結婚、ウィンザーにある自宅に多くの著名人を招き、式を挙げていた。  ロニーは両手を頬に当て、感動したように声を震わせた。 「結婚……! そうなのね、すごい! 素敵だわルカ、やだどうしよう、なんだか自分のことみたいに嬉しくて涙がでそう。おめでとう……!」 「ありがとう。でも、おめでとうはまだ早いよ。でさ、ツアーが終わったら半年ほどオフが欲しいんだけど――」 「断られるって不安はないんだな」  からかうようにユーリが云う。はっとしたように、ロニーはそっちを向いた。  ユーリとテディ、ルカの三人は単にバンドメイトというだけではなく、オープンリレーションシップな関係を結んでいるのだ。  過去に問題を抱え、精神的に不安定だったテディをルカひとりでは支えきれず選択したかたちだったが、それは当初思っていた以上に良い効果を発揮した。三人でベッドを共にすることもあるが、ルカとユーリが交合(まぐわ)うことはなく、あくまでテディがユーリとも関係を持つのをルカが容認している、という付き合い方である。  とはいえ、自分では『ファックバディ』だなどと云っているユーリも、ルカと同じようにテディを愛しているのはロニーも承知していたのだが―― 「……ユーリ、あなたはその、ふたりが結婚するのには賛成なの……?」  触れてはいけないところに手を伸ばすような気分でロニーが尋ねる。すると意外なことに、ユーリは余裕綽々といった態度でにやりと笑った。 「完全に他人(ひと)のものになったテディってのも、それはそれで唆る気がするな」  ま、そんな急に俺の立場が変わることはないさ、と煙草を吹かしながら云うユーリに、ルカがふん、と鼻を鳴らす。 「ま、ユーリのことはとりあえず置いといて……どうかなロニー、バンドの看板の俺らが結婚しても、問題はない?」 「ないわよ、逆に話題になるわよ! この時代ですもの、皆が注目して祝福してくれるわ。……そうね、ツアーのあとなら長いオフが取れるわ。オッケーよ。で、プロポーズはどうするの? 仲直りもしなきゃいけないんだから、もう早いほうがいいわよね? あした? あさって?」  目をきらきらと輝かせ、興奮気味にロニーが云う。ロニーの片腕のひとりであるエリーも、プライベートでは恋人のジェシとふたり、嬉々として顔を見合わせる。ドリューも白い歯を見せてルカによかったなと微笑みかけ、祝うようにワイングラスを掲げた。 「あ、そうだわ。プロポーズの成功を祈って乾杯しましょう! もう食事は済んじゃったから、一杯ずつだけね」  ウェイターを呼び、食後の乾杯になにかお薦めはあるかとロニーが尋ねる。すると「ラタフィアなどいかがでしょう。エグリ・ウーリエ〝ラタフィア・ド・シャンパーニュ〟がございますが」と、正装のウェイターが答えた。 「他は? できればスパークリングで」  今度はユーリが訊いた。甘口の非発泡性ワインは好みではないらしい。 「シャンパンでしたら、ヴーヴ・クリコ〝ホワイトラベル・ドゥミ・セック〟か、モエ・エ・シャンドン〝ネクター・アンペリアル・ロゼ〟などが食後にはお薦めですが」 「ま、いいだろ。どっちにする? ロニー」 「高いほう!」  そしてグラスが行き渡ると「ルカのプロポーズ大作戦の成功を祈って」と乾杯をし、その日はそれでお開きということになった。  ぞろぞろと店を出る。戻ってこないのでひょっとして、と思っていたが案の定、テディの姿は見当たらなかった。やはり先に帰ってしまったらしい。待たせてあったタクシーにまずジェシとエリーから乗りこむと、続いてルカがドアに手を掛けた。方角が同じなのだ。  ロニーは、ルカがタクシーに乗る前に「ねえ」と話しかけた。 「あさって、『SOLD OUT(完売)』入りの新しいポスターのサンプルが届くわ。そのときにみんな、事務所に集まってもらうつもりだけど……」  ニューアルバムを引っ提げて行われるヨーロピアンツアーのチケットは、先行発売分が既にほぼ完売となっていた。あとはそれぞれの地域の窓口などでのみ一般発売される分や、急遽追加されたりする当日券を残すのみだ。  ロニーとルカが話しているあいだ、後続のタクシーには次々と残った面々が乗りこんでいく。あと待っているのはロニーと住んでいる区が同じユーリとエミル、イジーの三人だけだった。 「あさってか……うん、テディととしたらそのときだな。そのつもりでいとくよ。ありがとう」  ロニーは笑顔で頷いてみせた。 「パーティポッパーとか用意しとくわね。今日のよりもっといいシャンパンも」 「ま、ほどほどに。……おい、ユーリ」  ルカが自分の背後に言葉をかけるのを見て、ロニーは一歩脇へ避けた。ユーリはその場から動かないまま、「なんだ」と返した。 「そういうことなんで、あと一日頼むな」 「おう。任せとけ」 「え?」  ルカたちを乗せたタクシーが走り去っていくのを眺めながら、ロニーは眉をひそめた。そういえば、顔を合わせるって―― 「ひょっとしてテディ、あなたのとこにいるの? いまもあなたの部屋に帰ったの?」 「そりゃそうだろ。喧嘩してる最中にあいつがおとなしくルカといると思うか?」  ユーリがそう答えるのを聞いて、ロニーはゆるゆると(かぶり)を振った。セミロングのブルネットがふわりと揺れる。 「……ほんと、あなたたちの関係ってよくわかんない。そんなときに結婚とか、ルカもよく……、あなたもよ。よく動揺もしないで平気な顔していられるものね」 「俺はちゃんとわきまえてるからな。あいつが結婚なんてところに収まるとしたら、その相手は自分じゃないってわかってる」  事も無げにユーリが云う。「ルカだってそれをわかってるから、俺にはなんの相談もなくいきなりあんな話ができるのさ。それに、俺とテディの関係を決めるのはルカじゃない。テディだ」  それはそうかもしれないけど、とロニーはまだ理解しきれないなあという表情で、ユーリを見つめた。 「そんな顔するなよ。……人のことより、あんた自分の婚期のことを考えたほうがいいんじゃないか?」  半ば憐れんでいるようだった目の色をころっと変えて、ロニーが両手を腰に当てた。 「余計なお世話よ。いちばんに考えるべきはバンド内の人間関係とコンディション、いまはツアーの成功よ! おねがいだから、その風変わりな付き合い方を拗らせて仲違いとかしないでよね! テディにも云っといて」 「了解、ボス(Yes, ma’am)」  くっくっと笑いながら、ユーリが気を遣うように少し離れていたエミルとイジーを手招きする。  四人が乗った最後のタクシーは街路樹の並ぶ川沿いの路を進み、観光客の往き交うレギオン橋を通って、ヴルタヴァ川を渡った。

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