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Zee Deveel ON STAGE / # 8. You Must Believe Me

 パリ、アコーアリーナでの公演も大盛況に終わった、その夜。  テディはルカの部屋の前で立ち止まると、ノックをする前に一度、大きく深呼吸をした。  夕食のあと――ドリューに、今のように口も利かずにいるのは喧嘩するよりよくない、とりあえず思っていることを伝えたほうがいいのではと云われ、そうだろうかと考えていたところ、ちょうどルカからも声をかけられた。あとで俺の部屋で話そう――おそらく自分のところにドリューが来たのと同じに、ルカにも話をするよう誰かが働きかけたのだろう。  正直、もう仲違いをした状態でいることにも疲れてきていた。プロポーズのことはともかく、あの大勢のファンに囲まれ、キスされてにやけている写真には頭にきていたが、ずっと怒気を維持したままでいることは難しい。そんなエネルギーがあったらライヴのほうに使いたい。なにしろおよそ二時間半もの時間、4キロもあるベースギターを抱えっぱなしなのだ。しかも演出のため、ステージの端から端まで走ったりもする。あの熱気や大音量と、アドレナリンによる高揚感がなかったら、とてもできたものではない。  だから、ルカから話そうと云われてテディは、もうこれで要らぬストレスを溜めることもなくなると、ほっとしてここに来たのだった。 「――なにか飲むか」 「ううん、いい」  私物がきちんと整頓され並べられている部屋に、ルカらしいなあと思わず笑みが浮かぶ。ルカは自分に一人掛けのソファを勧め、向かい合ってベッドに腰掛けた。 「えーっと……ジェシから聞いたんだけど、おまえ、プロポーズ撤回のことはそんなにショックじゃなくて、SNSで見た画像のほうに怒ってるんだって?」  ジェシだったか。みんなにはいろいろ心配や面倒をかけてしまったな、と思いながら、テディは「うん、まあ、そう」と頷いた。 「なんかさ、女の子たちに囲まれてるのもまあ、おもしろくないといえばおもしろくないんだけど……そっちは俺、まあしょうがないよな、俺は男だし、ルカはゲイじゃなくてバイだし、女の子にきゃーきゃー云われりゃそりゃあ嬉しいよなって思えるんだよね」  ルカは心外だ、というような表情をしていたが、黙って聞いてくれている。テディは続けた。 「でも、だからかな……あそこに若い男がいたのが、なんだかどうしてもゆるせない気がしたんだ。マーシャのこともだけど、ルカが女の子にもてて喜ぶのも、女と遊んだりするのも俺は別にいいんだ。俺があげられないものだし、俺に文句を云う権利なんてないって考えちゃうんだよ。そりゃあまったく気にならないわけじゃないけど……」 「おまえほんと、そういうとこ変わらないな」 「性格なんてそうそう変わらないんだよやっぱり。で、俺は女に関しては妬いたり怒ったりするまではいかないけど、男は……厭だったんだ。同じ条件で俺以外を選ばれたりとか、考えられない。俺がこんなこと云えた義理じゃないけど……」 「まあ、わからなくもないよ。自分でいいところのポジションを他の奴に奪われたくないってことだろ?」  テディは小首を傾げた。 「ポジション?」 「自分は怖くて乗れないローラーコースターに、じゃあって俺が他の誰かと一緒に乗るのはしょうがないって納得できるけど、観覧車はだめだってことだろ?」 「……かな。そのポジションに立つのが女って条件なら俺は諦められるんだ」 「そうそう、そういうこと。……でも、おまえバカだなあって思うけど」 「バカ?」  ふっと息をついて、ルカは笑った。 「バカだろ。女も男も関係ないんだから。俺にはおまえだけだよ。大勢のファンに囲まれて、キスされてにやけてるように見えても、そんなのその場だけだって。あれは『ルカ・ブランドン』の貌ってだけなんだよ。ルーカス・ダミアン・ルイス・ブランデンブルクはまずあんなふうに人に囲まれたくないし、ああなる前に逃げるね。おまえだってファンや記者の前じゃ『テディ・レオン』として違う貌を見せるだろ? セオドア・ルシアン・レオン・ヴァレンタインさん」  ルーカス・ダミアン・ルイス・ブランデンブルクも、サマーキャンプで女の子たちにもてていたときは素直に嬉しそうだったような気がしたが――ここは、ごまかされておいてやることにする。 「……もててにやけてるのはスターの貌ってことか。ま、ぞんざいに追い払うわけにもいかないよね」 「そうだよ。……そんなことより、結婚のことなんだけど」  ルカの声が真剣味を帯びる。テディは一瞬身構えたが、プロポーズの撤回を撤回されていないのに先になにか云うのも変なものだと、黙ったままルカを見つめた。 「俺が動揺して結婚の話をいったん白紙にって云ったのは、おまえに非があったからじゃない。俺におまえの人生を引き受ける資格があるのかって、疑問に思ったからだ。酷い目に遭っててもたすけを求めてもらえなかった、なんにも気づきもしなかった俺が、嬉しそうに結婚しようなんて云って浮かれてていいのかなってさ」 「それは、俺が隠してたから――」 「うん。おまえにしてみれば、そんな簡単に云えることじゃなかったんだよな。でも俺、おまえが打ち明けてくれたとき、思いあたることがいくつもあることに気づいたんだ……おまえ、休み明けはいつも(ハウス)に戻ってくるなり寝てたよな。ホストファミリーの家では安心して眠れなかったんじゃないか? 鎮痛剤なんかを乱用してたのも、なにか現実逃避するためのものが必要だったからだろう? なのに、俺はなんにも気づいてやれなかった。なにかおかしいなってちらっとでも思えば、話くらい聞いてやれたかもしれないのに。そしたらおまえをたすけてやれたかもしれないのに……!」  膝の上で、ルカの拳が震えていた。真剣に悔やんでくれているルカに、テディはじんと胸が熱くなるのを感じた。そして、同時に―― 「……俺も、云えばよかったんだって、今は思う」  本当にそう思った。ぼんやりと、まだあどけなさを残した十五歳のルカが眼の前に浮かんだ。そのシルエットはすぅっと遠ざかっていき、髪を長く伸ばし、すっかりおとなの男になった顔にフォーカスが戻る。「……でも、それは今だからそう思えるだけで、あの頃の俺にはやっぱり無理だったっていうのもわかるんだ。あんなこと、絶対ルカには知られちゃいけないって思ってた。もし知られたら嫌われる、ルカが離れていっちゃうって」  そのくせ上級生と寝たりしたことは隠しとおそうとしなかった矛盾を指摘されるかと思ったが、意外なことにルカはすんなりと頷いた。 「だろうな、それもわかるよ。俺も、今はたすけてやれたかもとか云ってるけど、実際のところはわかんないしな。自分じゃどうにもできなくたって、おやじに相談すれば必ずなんとかしてくれたはずだけど……あの頃の俺は、親を頼ろうなんて思いつかなかった気がするしな」  テディも頷いた。 「ガキだったんだよ。ガキの頃って、なんでも自分でなんとかしなきゃいけないって思ってた。おとなはみんな誰にも頼らないでそうしてるんだって思ってたんだよ……、本当はそうじゃなかったのに」 「まったくそのとおりだよな。世の中のことなんてなんにもわかっちゃいないのに、自分の知識の範囲だけでなんとかしようとしちまうんだよな」  ふたりして、ふっと笑う。なんとなく笑みを浮かべたまま見つめあっていると、ルカが微かな動きだけで左側を示した。すっと立ちあがり、テディはルカの隣に移動した。ルカが腰に手をまわしながらこちらを向き、もう一方の手が頬に触れる。テディも右手をルカの背中にまわし、唇が重ねられる感触に目を閉じた。 「……結婚は、どうする?」 「……うん……俺、今回のことは抜きにして、もうちょっと考えてみたいんだ。だから、返事はしばらく待ってくれる……?」  何度も角度を変えて何日かぶりのキスを味わいながら、テディはそう答えた。ルカは一瞬動きを止めたが、おしまいの合図のように唇を上下に触れあわせると「わかった」と云って、顔を離した。 「いいよ。プロポーズに喜んでくれたことはわかってるし、おまえが納得いくまでちゃんと考えて決めればいい。……ユーリのこともあるんだろ?」 「うん。……ユーリはファックバディが愛人に格上げとか云って、平気な顔してるけどね」 「あの野郎」  笑いながらルカが立ちあがる。「喋ってたらやっぱり喉が渇いたな。俺はビールを飲むけど、おまえは?」 「もう部屋に戻るからいいよ。明日は移動日で早いし」 「そうか。……あ、渡しそびれてたけど、おまえにチョコ買ってきたんだ。なんか、セルビア王室御用達って有名なやつ。バッグの中に入ってるから持ってけ」 「チョコ? ありがとう」  素直に喜び、テディは云われたとおりライティングデスクに置いてあるルカのバッグを開け、中を探った。柔らかな革のトートバッグには財布やポーチ、ハニー&レモンメントールのキャンディなどと一緒に、濃褐色の包装紙にゴールドのシールが貼られた大きめの箱が入っていた。ずっとバッグに入れたままだったのか、溶けているんじゃないかと思いながら、テディはその箱を取りだした。  すると、ぽっかりと空いたバッグの底に、きらりと光るものが見えた。  なんだろう? となんとなく気にかかり手にとってみる。顔が強張る――黒とゴールドの、7cmほどの丸みを帯びた四角柱。これは――  思わず振り返ってルカを見る。ルカはミニバーに設置された冷蔵庫からクローネンブルグの小瓶を出し、栓を開けているところだった。 「あっただろ?」 「う、うん」  反射的に返事をし、テディは手にしていたそれをさっとラウンジパンツのポケットに隠した。 「俺、部屋に戻るね。おやすみ……」 「おう、おやすみ」  チョコレートの箱を抱え、テディはそそくさとルカの部屋を後にした。  ドアに背を向けたまま立ち尽くし、ポケットに突っこんだものを取りだして確かめる。形はどう見ても口紅、リップスティックと呼ばれるそれだが、唇のケアのためのリップバームかもしれない。ルカは身嗜みにも気を遣う。そうだ、きっとこれはリップバームだ――そう思いながら、テディはキャップを開けてみた。  ――どう見てもリップバームではありえない、ブラウンがかった濃い赤が中心から覗いていた。  くるりと回し、中身を少し繰り出してみる。使用した形跡があった。新品ではないということは、誰かへの土産でもない。もちろん、ルカに女装癖などない。仕事でメイクするときもベージュピンクやコーラル系など、自然な淡い色しかつけたことはない。  ではいったい、これは誰のものなのだろう。  旅行中、ルカはひとりではなかったのか。スキャンダルを避けるため一緒に歩いたりはしていなかっただけで、ホテルではこのブラウンレッドが似合う女と過ごしていたのだろうか。  女なら気にならないと云ったのに――自分の知らないところでなにかあったのだと、証拠品付きで現実を突きつけられると、こんなに心がかき乱されるものなのか。  いきなり深い霧のなかにひとり置き去りにされたような気分で、テディはそっと口紅のキャップを閉めると、手の中に握りしめたまま部屋に戻った。

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