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第1話

 季節が夏になろうとしている。 「暑いわっ! 蒸し暑いっ!」  柚木玄史(ゆずき-げんし)はウチワをパタパタさせながら部屋の窓を開けた。夜明け前までパソコンを弄っていて眠りについた。起きた時には太陽は結構上まできていて、その暑さから目覚めたと言ってもいい。だから不本意そのもので機嫌もすこぶる悪い。柚木は今年二十四になる独身美青年だった。銀色の伸びた髪をかき上げながら冷蔵庫を開けて炭酸水を取り出して口にする。冷蔵庫の上にある籠のクルミパンをひとつ手にするとそれをガブッと口にすると声をあげた。 「圭っ!」 「……」 「いないのかっ⁉」 「いない」 「そっか。……って、いるじゃん! いるならもっと早く起こせよっ!」 「うん……」 「何でもっと早く起こさないんだよっ!」 「暑苦しくて悶絶する姿を見たいと思ったから?」 「そっか。そんな理由があって……。って、お前趣味悪っ」 「うん。でも面白いから」 「んだとっ⁉」 「柚、気が付いてないんだろうけど、相当苦しんでる」 「だから早く起こせって言ってるのに」 「うん、でも……」と繰り返しになるので割愛。 〇 「お前さぁ、俺をとことんボロボロにするのに命かけてる?」 「でもないよ?」  二人は同居してる。理由は街の中心は家賃が高いからと言うのもあるが、圭をひとりにしておくと物事の処理が遅くなるからだ。いつだかは、生きているのか死んでるのか分からないほどLINEの返事が遅かった。既読にもならないからLINEしてるにも関わらず家まで出向いたほどだ。  通称・圭。志田基圭(しだもと-けい)は現在進行形で付き合ってもいる仲でもあった。見た目は、柚木が西洋美人なら圭は日本美人と言ったように美人のジャンルは違えど、どちらも行き交った人が振り返るほどの容姿を持ち得ていた。銀髪と漆黒の髪。顔の掘りはどちらも同じほどだが綺麗な顔立ちをしているのはどちらも同じだった。 「お前、今日の予定は?」 「一日オフ」 「そっか。俺も今日はオフだから、せめて昼前くらいまで寝ていたかったよ」 「ごめん。でも昼から俺たち用事あるの知ってる?」 「ぇ……。なんだっけ。あったっけ……」 「あるよ。柚、やっぱり忘れてたんだ……」 「……そ……んなことは、ないぞ!? ぁっ、あれだ! ほらっ」 「なに?」  どうせ覚えてないんだろう……? と疑りの眼差しで見られて、どう取り繕おうか迷いに迷うが、すっかりしっかり忘れているのも事実なので「すみません……」と頭を下げるしかなかった。 「なんだっけ」 「ジェル選択。今日は一緒に行こうよって約束した」 「ジェル?」 「うん」 「ジェルって……」  ジェルとは。この二人の中でジェルと言えば夜の営みの時に使うアレ、なわけで。  そんな約束したっけな……と訝しげな面持ちで考えてみるが、あまり記憶にない。 「したっけ?」 「した」 「うん、まあ……」 別にいいんだけどね……。  あまり記憶にないのだが、どうせ休日だし、休みが一緒になるのは目出度いわけなので記憶がなくても了承する。 「昼から?」 「そう」 「だったらまだ大丈夫だよな? 朝飯食っていい?」 「クルミパン、食べたよね?」 「いや。あんなんで腹満足してないよ?」  可愛く。極力可愛く首を傾げると、圭は座っていたソファから立ち上がって素早く朝食の用意をしてくれた。 目の前には白いご飯に即席の味噌汁。それに総菜コーナーで売っていた値引きされたホウレンソウの胡麻和えと焼き鮭。それを確認しながら明るい陽射しが差し込むキッチンテーブルで手を合わせる。 「いただきます」 「どうぞ」 「でもお前が作ったのって鮭くらいじゃね?」 「ご飯も炊いた」 「そっか。そうね。旨いです。とっても旨いっす」 「それは良かった。でもまだ食べてないよね」 「ああ、そうね。いただきます」 「うん」  圭は話し方が優しい。だからと言って全般的にソフトと言うより、むしろムッツリで。ムッツリスケベで行為の時に泣かされるのはいつも柚木のほうだった。  つい最近も、「疲れてる」と言っているのに「抱き締めるだけだから」と言い寄られて、結局三発ぶち込まれた。抜かずの三発。ずっと入れっぱなしにされて、翌日腰砕けで一日デスクから立ち上がれなかったくらいの後遺症があったくらいだ。 圭のモノは太い。それに加えて長いので簡単に柚木のいいトコロを探し当てて刺激するのが上手い。だから柚木はその都度翻弄されて体がガタガタになるまでいいようにされる。  で、今日はジェル探しね……。それ、ほんとに俺、約束したのかな……。  相手をチラチラと探り探りしながら見つめてみる。爽やかさんに見える白シャツにジーンズは完全にムッツリさんを隠している。ムラムラしているのを出せと言っているのではなくて、そのギャップに驚くと言う意味だ。 「柚は何着てく?」 「別に何でもいいよ。その辺にあるの適当に着てく」 「改善しろよ、そういうの」 「ぇ、真っ裸よりいいだろ?」 「そりゃそうだけど。だったら俺が選ぶよ。いい?」 「ああ」 そのほうが手っ取り早いしな。  柚木はファッションに興味がない。とりあえず変にならない恰好ならなんでもいいと思っている残念なイケメンだ。 朝食を取ると用意された服に袖を通し出かけることにする。早く出かければ早く帰られるだろうと言う算段でもあった。 「ぇ……。これほとんどお前と一緒じゃん」 「色合いとか形が似てるだけだから」 「ぅ、うーん……」  あまり頓着ないと言っても、さすがにまったく同じものだと大丈夫? と心配になる。元々ふたりは体格にあまり差がないために互いのものを着ても分からないくらいだ。だから似たような服が何着もあったりして、柚木としては一色一着くらいでいいと思っている口だ。 「あー、暑いっ。日傘買っちゃおうかな」  外に出て開口一番がこれだった。 「買ってもいいけど、ちゃんと使えよ」 「……」  買うのには意欲的でも、買ったらそれで満足してしまいそうな気がする。だからはっきり返事が出来なかった。でも暑い。今暑い。どうにかしたい。柚木はこの炎天下の暑さをどうにかならないものかと辺りを見渡してみた。 「ぁ、あっち側の歩道通ろう」 「何で?」 「日陰になってんじゃん」 「ああ、そういう……」 「うんっ」 「でもあっちに渡るためには、次の信号か歩道橋まで待たないと無理だね」 「それまで炎天下かよ」 「次の信号であっちに渡ったとしても、行く方向が変わるから今までと変わらないよ?」 「だから止めろと?」 「そのほうが無駄な体力使わないで済むけど」 「……そ、そうか。そうだな。それもそうだ」 「……」  まったく意味のない会話になってしまった……。結局柚木は圭に不平不満を言いながら駅までの道を歩いて買い物に行った。最初は凄く天気が良くて蒸し暑かったと言うのに、時間が経つにつれて空模様は怪しくなっていった。 「なんか、雨降りそうだな」 「うん」 「用事済ませたらさっさと帰ろうぜ」 「ご飯」 「あ?」 「用事済ませて、ご飯食べて帰りたい」 「……ぁ、うん」  この言葉には了承しなければならない。 何故なら柚木は壊滅的に料理が出来ないから。だから自分が料理を作る時には最初から諦めて総菜とか弁当とかテイクアウトとかを利用することが多い。どうにか出来るのは飯を炊くことくらい。後は火を使うものはNGだし、油を使うものなんて絶対NG。包丁は持たせてはイケナイ存在として認知されている。だから日々おいしい手作り料理が口に出来るのは圭様のお陰だし、圭様がお料理をサボりたいと言えばそれはそれでOKを出すのは自分の役目として捕らえている柚木だった。 「休みだもんな。たまには外で食事してから帰ろうか」 「うん」  ちょっとほほ笑む圭を見ると嬉しくなってしまう。目的の駅に着いて目的の店に行くとお目当てのジェル選択になる。 「こんなのどれだって同じじゃん?」 「匂いとか、硬さとか」 「でも俺にそんなこと言われてもどうにもならないよね?」 「……うん」 「だったらさっさと選んじゃって」 「うん」 「……」  おとなしく相手がジェルを選ぶのを待つ。だけど圭は色々と手に取って迷っているようだった。価格的にも別に大差があるわけでもなく、容量的にも同じような商品だと思う。こういう店では色んなものが目に入ってきて、使うのを想像すると赤面してしまいそうになる場合が多い。だから柚木としては一刻も早く出たかったのだが、圭はそうでもなさそうで難しい顔をしながらひたすらジェル選択をしていた。そして結果ふたつの商品を手にレジに向かった。だけどレジに向かうまでに商品は増えた。ゴムコーナーで凄いイボイボ付きのジェル付コンドームもしっかりと掴んだのだ。 「……」 えっ……⁉ 「使うから」 「ぅ、うん……」 「それからコックリングとか……」 「やめて。もう今日はこのくらいでやめて」 「……」 「お願い」 「……うん……」  少々納得いかなげではあるが、使われる相手の意見を尊重するのも圭なので、今日はとりあえず回避。でも次は分からない状況に、手にされたコックリングを戦々恐々とした眼差しで見つめながら棚に返す。 「……」 やめて。俺のち〇ぽ……ちゃんと大きくなって爆発したいからっ。  去勢されるような気分。高見まで上がったのに悶々とするのは嫌っ。それが柚木の気持ちだった。  俺は別に何かされたい性癖ないからっ。普通にしたいだけの人だからっ。そこんところ、ちゃんと圭にも分かってもらわないと。 「圭」 「うん?」 「俺、圭のこと好きだから」 「うん」 「だから普通でいいからね」 「?」 「色々試行錯誤とかしなくてもいいから」 「……うん。でも……」 「もうこれ以上何も言わなくてもいい。俺の気持ちだけ分かってくれればそれでいいからっ」 「……分かった」 「じゃ、もうそれ買って帰ろ」 「ご飯」 「うん。飯食いに行きたいから、さっさとここ出よ」 「うん」  もうほとんど引っ張るような感じで店を出るのに成功する。柚木は商店街をうろついて町中華を見つけると「ここ、いい?」と圭に尋ねた。 「うん」 「何食べる?」 「柚は?」 「俺は……冷やし中華食べたい。それに唐揚げ」 「俺は……」 「入ってから決める?」 「うん」  そして二人は店に入る。だけど時間が時間だったために店内は予想以上に賑わっていて、席が空くまでの間にしっかり何を頼むかが決まった。柚木は予定通り冷やし中華と唐揚げ、それに餃子を頼んだ。そして圭は天津飯と酢豚、それにやっぱり餃子を頼んでいた。席を確保して食事を終えるまでにかかったのはだいたい二時間くらい。 外に出たその時にはもういよいよ雲行きも怪しくなっていて、早々に帰らないとバケツをひっくり返したような雨が降るんじゃないかと言うような空模様になっていた。 「これは日傘じゃなくて雨合羽級のヤバさ?」 「早く帰ろう」 「そだね」  二人足早に駅までの道を歩くと電車に乗ってどうにか地元の駅まで辿り着く。だけどいよいよその時は迫っているように思えた。 「何か風ヤバくね?」 「ああ。なんか怪しい……」 「家まで走ってくか」 「だな」  だけどその決断はあえなく終焉となる。駅から半分ほど走ったところで急に大粒の雨が降ってきて、それはあっという間にどんどん酷くなり、家に着く前にはもう上から下までびしょ濡れになるような状態になっていた。 「もううっ! 走るの止めよ」  諦めて走るのを止めて歩きだす。それに釣られて圭も止まってから走るのを止めて隣に並ぶように歩きだした。 「酷いな」 「酷いなんてもんじゃない。めっちゃドブネズミじゃん!」 「俺も同じだから」  言っても変わらないぞ、と言う風な顔をされて口を尖らせるが現状は変わらない。歩道にいた人は誰もいなくなってしまい、雨渋きをあげて車だけが路上を走る。トボトボと歩きながら後1ブロックだと思った時、目の端にビルの陰で蹲る人がいた気がして目を向ける。すると隠れるように蹲っている女の子が本当にいて、慌ててそっちに駆け寄った。 「君、大丈夫⁉」 「……」 「どうしたの⁉」 「……」  その姿はとても雨宿りしているような感じではなくて、誰かから逃げているように見えた。 「ぁ、あの……」 「ずぶ濡れじゃん。俺もだけど……、とにかくこんなトコいたら駄目だからあっち行こうよ」  蹲っていた彼女の手を取ると近くのビルの軒差しに避難する。それにおとなしく従った女の子は見た目高校生くらいの中肉中背。長い黒髪が今時珍しいなと思わせるような瞳のクリッとした可愛らしい顔をしたコだった。 「雨宿り、じゃないよね?」 「あのっ……ちょっと今、人から逃げてて……。そしたら雨が突然降ってきて……」 「……」  いったい誰から逃げているのか。この状態では詳しく聞けない。 「お金ある? 家に帰れる?」 「……」 「帰れないの? そんな事情?」 「あの……はぃ。ちょっと……」 「帰れないの? 帰らないの?」 「……」 「どっち?」 「帰れない……、かな…………」 「そっか。だったらとりあえず一緒においでよ。悪いことしないから」 「ぇ……」  相手が驚いて顔をあげる。 「ここにいてもただ濡れるだけだし。そいつに見つかりたくないんだったら俺たちといたほうがいいんじゃない? ぁ、そいつら? 人多いんだったら余計さっさと」 「そいつ、です。ホントは今日泊めてもらうつもりでいたんですけど……」 「ぇ、泊まるって、そんな約束安易にするもんじゃないよ」 「……」 「柚、もういいだろ。詳しいことは後にしてもう行こう」  困り顔をする女子の背を押すように圭が一歩踏み出す。それに柚木も従ってそこから出ると家まで突っ走った。 「あーーっ、もう!」 〇 「着いた。どうにか辿り着いたって感じ?」  玄関先でぐっしょり濡れたまま三人してやっと肩の荷を下ろす。 「タオル持ってくるから二人ともそこで待ってて」 「ああ」  柚木は全身びしょ濡れで靴を脱ぐと大股で洗面所に急いだ。そして最初の一枚を自分の頭に被せると、もう二枚バスタオルを取り出して玄関に戻る。 「拭いて」 「サンキュ」 「あ……りがとうございます……」  頭を拭いて体を拭くと靴を脱いで足を拭く。 「柚、もう一枚づつタオル」 「おぅ」  柚木は言われるまま洗面所に取って帰ると追加でまたバスタオルを二枚持ってきた。 「君はお風呂入って。洋服は……探してみるから」 「ぁ、はい」  女の子を洗面所まで案内すると圭は頭を拭きながら自室に入った。柚木もとりあえず着替えようと自室に入る。手早く体を拭いて着替えてしまうとドライヤーで髪を乾かそうとして洗面所にしかないのを思い出して諦めた。 「まあ、冬じゃなくて良かったけど……。これからどうすっかなぁ」  部屋を出てリビングまで行くと圭も部屋から出てきてリビングまで来た。 「あの子の服、どうする」 「とりあえずスエットでも渡しとく?」 「パンツはどうする?」 「パ、パンツか……。それはどうすっかなぁ」 「早くしないと風呂から出てきちゃうぞ」 「分かってる。でも女の子に履けるパンツがないっ」 「ちょっと新品の俺たちのパンツで我慢してもらって、雨が小降りになったらコンビニ買いに行くか」 「だな。それしかないな」 〇 「どうもすみません……」 「服、やっぱりダボダボだな」 「パンツもダボダボ?」 「まあ……。でもそこはヘアゴムでギュッと摘まみましたからなんとか」 「だったら良かった。座って。まずは何か飲み物を」  柚木は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出すと自分たちの分も含めて三つのコップに注いでそれぞれに手渡した。そして女の子を刺激しないように正面には座らずに適当な位置に腰かけるとジュースを傾ける。 「まず、名前聞いていい?」 「梶野……塁」 「高校生?」 「高校には行ってないけど……年齢的にはそのくらい」 「で、さっき何してたって?」 「……今夜泊まるトコなくて……。ちょっと早かったけど泊めてくれるって人見つかったからついて行ったら襲われて……」 「それ、いつもやってるの?」 「ぅ、うん。たまには野宿ってのもあるけど……出来れば屋根のあるところで寝たいから……」 「家に……帰れないってのは……」 「ちょっと……色々あって……」 「その色々っての、今日泊めてあげるって言ったら教えてくれる?」 「えっ? ぁ、あーーーっと……。そんなに大したことじゃないんだけど……」 「なに」 「母さんが何回も結婚と離婚してて……居場所がないって言うか……」 「そっか……。でも知らない奴のところに泊まるのは止めたほうがいいよ」 「それ、ちっとも対策になってないから」 「だったらどうすればいいんだよ」 「知り合いとか親戚とか、頼れる人はいないの?」 「いない」 「……とりあえず今日は泊まっていってもいいけど、今後のことはまた考えよう」 「あ……りがとう、ございます……」 「それから、最初に言っておくけど俺たち付き合ってるから。女の子は襲わないから安心して」 「ぇ……ぁ、はい」 「安心した?」 「あ、はい。驚いたって言うか……、はぃ。はぃ、はぃ」  自分に言い聞かすように何度も「はい」を繰り返すと納得させる。まさにそんな感じで、その様子を二人は微笑ましく見ていた。 〇  濡れネズミになって一時間経っても雨は一向に止まず、それ以降外に出るのは叶わなかった。だから夕食は家にあるものでどうにかしなくてはいけなくて、どうしようかと悩むのは圭のほうだ。 「塁ちゃん、苦手なものある? これは食べれない、みたいな」 「……これと言ってはないと思います」 「だったらパスタでいい?」 「はい」  ニッコリと笑う彼女を見てしまうと、この年頃のコと関わり合わないので凄く新鮮に見えてしまった。  可愛いなぁ。  実際彼女は一般的に見ても可愛いと思う。肩甲骨が隠れるくらいの漆黒の髪に黒めがちな瞳。あどけない顔は誰からも慕われるが、逆に変な奴らに狙われる対象にもなってしまうほどの正統派アイドル顔とも言える雰囲気を持ち得ていた。 「圭、顔がニヤついてる」 「ごめん。単純に可愛い」 「それは俺も認めるけど」 「ぁ……あの……」 「気にしないで。一般的意見だから」 「はい……」  ちょっと居心地悪そうに下を向いたりそっぽを向いたり。そんな姿も可愛いなと思えてしまう。そんな彼女だった。  パスタが出来て三人で向かい合うと食卓を囲む。 「食事とかもどうしてるの?」 「食べたり食べなかったり。運がいいと一日二回食べられるかな……くらいです」 「生きてるのはスマホくらい?」 「はい。スマホは命なので。これがないとどうにもなりません」 「それ……誰に買ってもらったの?」 「……親です」 「じゃあ少なくとも親と繋がってはいるんだ」 「とりあえず」 「不服そうだね」 「不服ではあります。でも現状は仕方ないとも思ってます」 「そっか。とりあえず親とは繋がってるんだ」  ならちょっとは安心かな……と思ってみるが、けしてそれが最善だとは思っていない。要するに放って置かれている。死んだら分かる程度の価値観しか持っていない親と言うことだ。それには胸糞だったが、逆に言えば彼女は今自由を手に入れている。そう考えれば少なくとも気分は良かった。 「これからどうするの?」 「別に。何も変わらないですよ? 雨が止んで服が乾けばここから出て日常に戻ります」 「変な奴に襲われそうになっても?」 「はい。普通の人よりその確率は多いかもですが、生きていかないと」 「勇者かな」 「何とでも。でも、いつまでもこんな生活してるつもりありませんから」 「それは心強いね」 「はい」  翌日。柚木も圭も仕事があるから朝には家を出なくてはならなくて、彼女には「出ていく時にはポストに鍵を入れておいてくれ」と言い仕事に出かけた。用心して「取られてダメージがあるもの」は最初から持って出たので、後は彼女自身の問題だと思った。 ●  柚木は駅の向こう側の雑居ビルにある弱小広告代理店でデザイナーとして働いていた。そして圭も同じビルの一階にある警備会社で配置係として働いていた。 同じビルとは言ってもしょせんは雑居ビル。出入りが多くて定着している会社のほうが少ないくらいで、且つそれなりの年月も経過していたので、お世辞にもエリートが出入りしている場所とは言えなかった。だから駅近くとは言っても路地裏。いつ退去してくれと言われるか分からないくらいの雑魚の集まりだった。  そんな場所だが最初は同じビルで働いているのも分からなかった。仕事に追われて遅い昼食を取りに行っていたカフェテリアで初めて圭を見かけた。彼は食事をして帰宅するために私服で、柚木はもとより制服などなく私服だった。だから年齢も近いシャンとした男を見つけて見入った。この時間、この場所であの逸材。知り合いになりたいと思った。だけど現状仕事の忙しさでは私生活まで忙しくしている暇はないとも言える。だからたまにここで見られたとしたら、そこからまた考えればいいかと思った。カフェは天気が良ければ外にもテーブルが出されていた。そこで柚木は彼を見かけた。大きく息を吐いてからあくびをするのは疲れているせいなのか。お手拭きで覆うように顔を拭うと頼んだコーヒーの最後の一口を飲み込んで席を立つ。 あー背も高いんだ。何気なく視界に入れて確認する。それだけだった。  日にちが過ぎても、もうそこで彼と会うことはなかった。なので彼はたまたまそこに立ち寄っただけの人で、近くにいるわけではないんだな……と思うことにした。そして不規則な時間に終わった仕事のせいでボロボロになりながらエレベーターを降りると駅へ歩きだす。もう今にも倒れてしまいそうになるのを必死に堪えて一歩一歩足を踏み出す。家までは高架になっている駅の通路を通って駅のあちら側に出てから歩いて五分。このくらいの距離になると多少家賃が安かったのでそこに決めた感じだ。 「ぅぅぅ……何か栄養ドリンクでも飲んでかないと家まで持たないかも」  コケたらそこでもう眠ってしまう自信はあった。だけど会社にいると次の仕事が回ってきてしまうのが嫌で無理やり退社した。 『では加藤さんはa工事の出入口誘導に。佐藤さんは僕と一緒に駅向こうの立体駐車場の見回りにお願いします』 『分かりました』 『じゃあ、行ってきます。何かあったら連絡ください』 『はい。気を付けていってらっしゃい』  数人の警備服を着た男と女子事務員の会話を聞きながらその横を通り過ぎる。 一階には大手の警備会社が入っていて、どうやらそこがビルを買ったとか買わないとかの噂が流れるくらい事業は順調そうだと社長が言っていたのを思い出す。だから何だと言うわけではないが、「制服ね……」とチラリとその男たちを見て目を疑った。 「ぇっ……」 「すみません。通ります」 「ぁ、はぃ」  制服姿の彼だった。彼らは事務所横にある専用駐車場の車に乗り込むとスッと出て行く。それを見ていた柚木は茫然と立ち尽くすしかなかった。 「……」 いたっ! しかも制服組かよっ! めっちゃそそるっ!  今までの眠気が一気に吹っ飛んでいた。別の意味で倒れそうだと思った。あの制服で抱かれてぇぇっ! 「ふっ……。これは、行動しないとだな」  何か彼に近づく手はないものかと目が血走っていた。駅の高架通路を通りながら考え事をしていたせいでつまづいてコケた。膝を摩りながらも痛さなんて感じなくて、大胆不敵な笑みだけが沸いて出た。キヨスクで栄養ドリンクを買うとその場で飲んで自宅に急ぐ。 「あー、血の巡りがいいぜ」  鼻血が出るんじゃないかと言うほど嬉しい。もう会えないものだと思っていたから、また会えて嬉しいし、あの姿を見てしまうと腰砕けものだ。 「どうしよう。どうしたらいい……。どうやって知り合う……?」  高架の階段を下りて歩道を歩く。もうすぐコンビニが見えてくると思った時にまたコケた。 「痛ったたた……」  また同じところを打ってしまい立ち上がるのが遅れた。その時、右側でキッとタイヤが鳴る音がして五十センチ手前に車のバンパーが見えた。 「えっ」  車のドアが開いて慌てて人が駆け寄ってくる。 「大丈夫ですか⁉ 轢いて……ませんよね?」 「ぁ、ああうん……」  凄く慌てた運転手は制服姿の彼で、それを把握した時には安心してボケボケしながら笑っていた。 「ははっ……ははは……」 「佐藤さん」 「僕はこの人病院つれて行くんで、見回りひとりでお願いしてもいいですか?」 「ぁ、はい。かまいませんよ」 「ぇ、大丈夫ですよ。ちょっと疲れてて、さっきもコケちゃったんであなたのせいではないので」 「家は近くですか? 病院じゃなくていいなら家まで」 「家もすぐそこなんで大丈夫ですよ」 「すぐ近くなんですか?」 「ええ。だから……」 「佐藤さん、車お願い出来ますか? 僕はこの人送ってくるんで」 「了解です」 「そんなに気にしなくても……」 「放っておけないでしょ。ほら、立って。肩貸します」 「すみません……」  疲れているせいかヘラヘラが止まらない。彼に支えられて一歩を歩いているのが信じられなかった。 「抱っことかしたほうが早いですかね」 「恥ずかしいのでそれは」 「ああ、すみません」 「ちょっと仕事が立て込んでて……寝不足なだけですから」 「大丈夫じゃなさそうですね」 「このタイミングで帰らないと帰れないと思ったんで、ちょっと無理しちゃいました。まったくですよね……」  あー、俺今憧れの君と話してるぅぅぅ!  などと悠長なことを考えていると自分のマンションが見えてきて落胆に近いものを覚えた。 「あそこなので……」 「何階ですか?」 「五階ですけど……」 「エレベーターはありますか?」 「ありますよ?」 「良かった。部屋までちゃんと送りますから」 「はぁ……」  一般的には有難迷惑とも取られかねない行為だったが、柚木にとっては有難くて涙が出る気分だった。 密着している体が熱い。ネクタイをしている首元が手を伸ばせばすぐそこにある。引き寄せて押し倒して抱き着きたいけど、見も知らぬ人にそれは出来ない。エレベーターを降りて自室の鍵を開けるとやっと身が離れた。 「それじゃ、もう迂闊に転ばないでくださいよ」 「あ……りがとうございます。すみません……」 「じゃ」 「はい」  パタンッと重い鉄の扉が音を立てて閉まる。 「はぁぁ……」  思いっきり大きなため息をついてその場にへたり込む。 「確かにどうにかしてどうにかなりたいとか思ったよ。思ったけど、こんなのは唐突過ぎるって言うか……突然過ぎるよ……」  しばらくその場から動けなくて幸せに浸る。目を綴じて浸っているといつの間にか寝てしまい風邪を引いた。 〇 「すみません……。熱があるので休みます」  疲れていたせいか、倍返しのように体にダメージが襲ってきていた。 「体がそこいらじゅう痛い。熱あるし、声も変だし、クラクラするし……」  それでもトイレはしたいし腹は減る。家にあるものだけでは到底間に合わず、十分じゃない体で買い出しに出かけなくてはならなかった。本当はスーパーに行きたいところだが、そこまで歩く気力はないし、かといって高くつくコンビニで何かを買うのは控えたい。どうせ薬も買わなきゃならないからと言う考えで薬屋に足を運んだ。症状を言って薬を選択してもらうと食品コーナーで食べられそうなものをピックアップして家に帰る。 「重い……。いつになく重いのは病気のせいなのか?」  出来れば荷物を引きずって帰りたい衝動に駆られる。ビニール袋を片手で持つよりも両手で抱えたほうが少しだけ重さが軽減されるような気がして子供を抱きかかえるように歩く。でも元気がないので、その足取りはトボトボしていた。 「くそっ。スポーツドリンク重いしっ」  とにかく何日も休めなかったので今日中にどうにかしたい。 「持ちましょうか?」 「は?」  そんな時、不意に後ろから声をかけられて思わず振り返ろうとした時に、それより先に荷物を取られた。 「え?」 「体調、悪そうですね」 「ぁ……」 「気になったんで、ちょっと顔を出そうと思って」  目の前には私服姿の昨日の彼が笑顔で立っていた。 「……」 「肩、貸します?」 「いえ……」  何で? 柚木は何故彼が今隣にいるのかが、そもそも分からなかった。だから訝しげに彼を見てみるのだが、当の彼はそれを気にするでもなく柔らかい表情のままだ。 「何で……?」 「昨日はほとんどそこにおいてポイッ状態だったので、気になってたんです。だから」 「はぁ……」 「会えたので安心しました」 「……」 けど具合悪いんですけど、俺。  しかしせっかく気にしてくれて、なおかつ会いに来てくれた彼にいい奴だと確信する。だけど自分にはそれ以上の感情があるのを悟られたくないような複雑な気持ちがないまぜになる。トボトボ歩く柚木の歩幅に合わせて歩いてくれる優しさ。体調を考えて無駄に話しかけてこない配慮。それを思うと有難くもなる。  どう歩いても家にたどり着く時はたどり着く。ずっと歩いていたかったわけではなく、ずっと一緒にいたかった柚木としては自分の今の体調も考えずにただただ残念だった。だから家について鍵を開ける時には何か彼を引き止める口実はないものかと考えていた。 「あのっ……!」 「これ、良かったら飲んでください」  笑顔で箱入りの栄養ドリンクを渡されると何も言えなくなる。 「それから」 「……?」 「あのっ……また会ってもらえませんか?」 「…………は?」  言われた意味がすぐには分からなかった。ちょっとはにかむ彼の姿を見て、ボボけた頭の柚木でもこれは好意を持たれていることは分かった。それが友達としてでも全然いいと思った。だから即座に「はい」と了承する。そして続いて発せられた言葉に衝撃を受けた。 「あのっ……。今……セフレとか、募集してないですか?」 「えっ…………?」 「俺とか……範疇に入る可能性とか少しはあるのかな……とか」 「いや。いやいやいや」 「ぁ…………。そう……そうですよね。男同士ですもんね。突拍子もないこと言ってすみません」 「いや。そっちじゃなくて」 「?」 「そっち?」 「?」 「あんたもそっち?」  耳を疑う顔で相手をマジマジと見つめてしまう。それからはもうなだれ込みで体調悪いのに、それを忘れて部屋に引き込んだ。もどかしく靴を脱ぐとベッドまで引っ張って抱き着いて唇を奪う。 「んっ……んんっ……ん」 まさかあんたが同類なんてっ。  嬉しさで返事を忘れているのにも気づかずに相手の唇を貪る。 「あっ……あのっ……」 「いいからさせろっ」 「えっ……なに? どっち?」 「俺はどっちでもいいんだけど、どっちかって言えばされるほうが好きだからっ」 「ぁ、ああ。はい。じゃあ俺はするほうで正解、ですね?」 「そう。いいから脱げ」 「いや……積極的だなぁ。体調、悪いんでしょ?」 「いいから脱げって言ってる。脱がないなら脱がせるぞっ」 「体調。考えたら今日はちょっと」 「むっ……」 「明日、会社行くでしょ? 今して酷くなったら駄目だから、今日はちょっと止めておきましょ」  グイッと身を離されて即座に萎える。 「んだよっ!」 「俺は……今日、思い切って口にして良かったと思ってます。元気になったら連絡ください」  そう言って名刺を一枚差し出すとそそくさと帰ってしまった。柚木としては今すれば逆に元気になるんじゃないかと思うくらい浮かれていたのに、あんな断られ方をすると「いいじゃん。しようよ」とは言えなくて不満が募った。 「んだよっ! せっかく出来るところだったのにっ!」  しかしそんなことを思えたのは本当に一瞬で、彼がいなくなるととたんに体は現実に戻る。足腰立たなくなって薬とスポーツドリンクを口にするとベッドに倒れ込んだ。 「やっぱあいつの言う通りだったな……」 熱出てきたか……?  こんな状態でよくもまあ事に及ぼうとしたものだと思った。 「あいつがあんなこと言うもんだから……」 すっかりその気になっちゃったじゃんかよっ。  いったん深く寝て、トイレに起きた時鍵がかかってないのに気付いてチェーンまでするとまた眠りにつく。しっかりと栄養ドリンクやゼリーで体力を取り戻すと夜にはお粥を口にすることが出来ていて明日は大丈夫かな……と眉唾ものの期待をしてみたりする。こんなに懸命に努力しているのは、あの名刺のせいだと自分でも気づいていた。LINEとか携帯番号とか、そんなものを教えてくれればいいのにわざわざ自分の働いている会社の名刺を渡してくる辺り誠実なのかその逆か。早くその真意を確かめたいと思ったからだ。 試読終わり

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